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第二十四話 冷たい人間

中枢リングの空気は、もう限界の匂いがしていた。


焦げた樹脂。

熱を抱いた金属。

汗と血が混ざる寸前の匂い。


リノトーレークスは“非致死”の顔をしたまま、戦場を削っていた。

ショック弾が飛び、拘束ワイヤーが絡み、短い刃が関節を狙う。


倒れれば死ぬ場所で、倒すための鎮圧。

押し付ければ圧死に近い場所で、押し付ける制圧。


死者はまだ出ていない。

だが「まだ」と言えるのは、奇跡が続いているだけだった。


コロボチェニィクが膝をつき、梁に体重を預けて転倒を堪えている。

双子が泣きそうな速度で支柱を立て、ワイヤーを巻き、必死に“倒れない”世界を作っている。

グリンフォンが上空で全方位散弾に削られながら、出口と死角を探す。

バンダースナッチの群体が壁のように流れ込み、ショック弾を吸い、視線を乱す。


シュヴァロフは、影のままアリスの前に立っていた。

母親のように。

ただ、そこに立つ。


アリスは息を吐いた。

薄い息。冷たい息。


「……ふざけんなよ」


怒鳴る余力はない。

怒鳴れば負ける気がした。


リノトーレークスの黒いセンサー面が、アリスを“見る”。

危険度。

武装反応。

インフラ近傍。

最優先排除。


ワイヤーが飛ぶ。

刃が走る。

ラムが押し付けに来る。


シュヴァロフが一歩前へ出た瞬間――


現場の通信が、消えた。


完全に、別のレイヤーへ切り替わる。

雑音が消え、罵声が消え、悲鳴さえ遠のく。


空気が一段、冷える。

粉塵が落ちる速度まで遅く見える。


配信のコメント欄が、一瞬だけ止まった。


そして――足音がした。


金属の床を叩く、規則正しい音。

ドロイドの駆動音ではない。

無人機の反発音でもない。


“人間”の歩みだ。


最初に見えたのは、影だった。


光学迷彩。

輪郭が薄い。

そこに“人”がいるはずなのに、目が焦点を結ばない。


装甲服を纏っている。

だが、装甲よりも“気配”の方が硬い。


彼らは走らない。

跳ねない。

焦らない。


冷ややかな風のように戦場を横切り、

冷たい影のように間を裂き、

そこにある混乱を“静めていく”。


アライアンスの切り札。

人間のサイボーグ部隊。


揺り篭の日の教訓――

「人間を守るのは人間だけ」


その言葉が、戦場に“形”を持って現れた。


誰かが呟いた。


「……来た」


その声は震えていない。

震える余裕がない。


リノトーレークスが、初めて“戸惑う”ように見えた。


AIが異常判定を出したのだろう。

黒いセンサー面がわずかに揺れ、全周囲散弾のスリットが開く。


――撃つ。


だが撃たせない。


光学迷彩の影が、リノトーレークスの“脇”に滑り込む。

正面ではない。背後でもない。

全方位攻撃の“間”だ。


一瞬、手が伸びる。

何かが触れる。

音がしない。


次の瞬間、リノトーレークスの腹のリング状スラスターが、同時に咳き込むように止まった。


推進が奪われる。

吸着が奪われる。

立体機動の要が、落ちる。


リノトーレークスは壁に貼り付こうとして失敗し、金属の床に重く滑った。


その重さが、初めて“ただの機械”に見えた。


また影が横切る。

今度は背中。


胴体の継ぎ目に、細い衝撃が入る。

“制圧ラム”の基部が動かなくなる。

拘束ワイヤーの射出部が沈黙する。


壊さない。

撃ち抜かない。

爆発させない。


“機能だけ”を奪う。


それが一番怖い。


リノトーレークスがなおも抵抗しようと、ショック弾を吐く。

だがその瞬間、影がその銃口の前にいない。


散弾は空を叩き、金属に当たり、音だけを残す。


――撃つ前に、位置を奪われている。


数秒。

たった数秒で、あれほど苦戦した機体が、床に転がる“鈍い塊”になった。


現場の誰もが息を止めた。


配信コメントが戻る。


『え……』

『今何が起きた』

『国連のやつ止まった?』

『いや国連じゃなくない?』

『アライアンス?』

『こわ』


怖い。

それしか言葉がない。


次は、人間だった。


ハーバーライトのヒーローが、ようやく状況を理解した顔になる。

遅い。

正義の顔が剥がれ、焦りの顔になる。


「我々は市民を守って――」


言い終える前に、影が近づいていた。


音もなく。

息もなく。

怒りもなく。


そのヒーローは、反射で刀を振った。

派手な軌跡。映える動き。


だが、影は“避けない”。


避けるのではなく、そこに入らない。

振る前に、腕の角度を奪う。


関節に、短い衝撃が入る。


骨が折れる音は、派手ではない。

それでも、誰もが分かった。


――使えなくなった。


ヒーローの腕が落ちる。

刀が落ちる。

派手な音が、金属の床で跳ねる。


別のヒーローが叫び、突っ込む。


その脚が、次の瞬間に“終わる”。

膝が逆に曲がったわけではない。

折れたわけでもない。


ただ、関節が“ロック”されたように動かなくなる。

重心が崩れ、倒れる。


倒れる場所が悪い。


中枢リングの縁。

配管。梁。落下。死。


だが影が、その襟首を掴んだ。


子どもを捕まえるみたいに、軽く。

そして、そのまま床へ戻す。


乱暴に見えるのに、正確だ。

壊さずに。

だが完全に。


影が言う。

声は小さく、抑揚がない。

宣告だけ。


「インフラ干渉。中立性侵害。処理する」


別の影が続ける。


「観測は終わった」


観測。

試験。

採点。


――全員が、誰かの答案だった。


ハーバーライトのヒーローは、顔色を失いながら叫ぶ。


「我々は正義だ! この都市を守って――!」


影は、首を傾げるでもなく言った。


「あなたの正義は、インフラより軽い」


そして次の瞬間、ヒーローの足が“折れた”。


派手な音ではない。

だが、折れたのは分かった。


その音が戦場を凍らせた。

怒号が止まり、配信の歓声が止まり、空気が止まった。


折れた後の静けさが、一番残酷だった。


アリスは、唇を噛んだ。


「……やめろ」


叫びたい。

でも叫べない。

叫べば子ども扱いされる気がした。


「やめろって言ってんだろ!」


結局、声が出た。

彼女の声はまだ子どもで、だから余計に刺さる。


影が、アリスの方へ向く。


光学迷彩の輪郭が揺れ、そこに“人間の顔”が見えそうで見えない。


アリスは怒鳴った。


「インフラを守ってるのはこっちだ!

あいつらが――!」


言い終える前に、影が一歩詰めた。


シュヴァロフが、母親のように前へ出る。

アリスの前に立つ。

守る。


影はシュヴァロフを敵として扱わない。

機械として処理する。


短い動き。

拘束。

関節の機能停止。

シュヴァロフの脚が沈み、腕が止まる。


シュヴァロフがそれでもアリスを庇おうとする。

母性は止まらない。


だが影は、その母性すら“作業”として片付けた。


シュヴァロフは、倒れない。

ただ、動かなくなる。


アリスの喉の奥が熱くなる。


「……やめろ……!」


彼女は、ハッキングの構えを取った。

都市の深層へ。

違法の一段下へ。

いつもの“逃げ道”。


しかしその瞬間、視界にノイズが走った。


眼窩下の入出力端末が、一瞬だけ“奪われる”。


アリスは目を見開く。


「――っ、何……!?」


影が、淡々と言う。


「接続を止める」


誰が?

どうやって?

そんなの、あり得ない。


あり得る。

ここには、人間がいる。

人間のサイボーグがいる。

ウェブの深層に手が届く人間が。


揺り篭の日の教訓を、肉体で刻んだ人間が。


アリスは一歩下がる。

下がったことが悔しい。


「……ふざけんなよ……」


影が近づく。

近づき方が、優しい。


子どもをあやすみたいに。

危険な子どもを、眠らせるみたいに。


アリスが身構える。

鉄パイプを握る手に力が入る。


だが、振れない。


影の指が、首筋に触れた。


痛みがない。

針も見えない。

ただ、温度だけが移った。


そして世界が、少し遠くなる。


「……っ……」


アリスは、言葉を吐こうとして、吐けなかった。


影の声が、静かに落ちる。


「眠れ」


命令ではない。

宣告だ。


アリスの視界がぼやける。

音が遠のく。

金属の匂いが薄くなる。


シュヴァロフが動けないまま、影のようにアリスの倒れる方向へ体を傾けた。

最後まで、母親だった。


双子が、泣きそうな速度で駆け寄る。

助けたい。守りたい。

でも、影の前ではどうにもならない。


コロボチェニィクが吠えるような動きをした。

怒り。闘志。

それすら、影は見ない。


グリンフォンが上空から降りようとする。

だが、影が一瞬だけ見上げる。

それだけで、グリンフォンの翼が固くなる。

誇りが縛られる。


バンダースナッチが群体で霧を濃くする。

だが霧は、影の輪郭をさらに薄くするだけだった。


影は霧の中でも正確だった。


遠くの画面で、義弘はその光景を見ていた。


胸の奥が冷える。

自分が呼んだ。

自分が選んだ。

その結果が、これだ。


オスカー・ラインハルトが、隣でサボテンの鉢を見ている。

棘は余計なことを言わない。


オスカーが淡々と言った。


「これが、“人間を守るのは人間だけ”です」


義弘は笑えない笑いを漏らす。


「……守ってるのか、これが」


オスカーは答えない。

答えなくても分かる。


守っている。

インフラを。

秩序を。

供給を。


人間は、そのための“対象”でしかない。


義弘は拳を握った。


「……俺が、呼んだ」


それが、最も重い事実だった。


戦場は、静まった。


リノトーレークスは床に転がり、動かない。

ハーバーライトのヒーローは、腕や脚を失ったように座り込む。

痛みの声は上がらない。上げさせない空気がある。


誰も“正義”を叫ばない。

叫ぶと折られる。

叫ばなくても折られる。


代わりに、手順が進む。


影が、短く報告する。


「鎮圧完了」


通信の向こうで、柔らかな声が答えた。


「ご苦労さま」


氷の母。


彼女の声は微笑んでいた。

微笑は、慈悲ではない。

採点の終わりだ。


「津田義弘。あなたは選んだ」


義弘の端末に、その声が届く。

彼は息を吐く。


「……ああ」


氷の母は続ける。


「次は責任を持ちなさい」


責任。

その単語が、首輪みたいに重い。


「そして――彼女は保護します」


保護。

優しい言葉。

首を締める言葉。


義弘が反射で言い返しそうになる。

だが言葉は喉で止まる。


氷の母が、最後に一行だけ落とした。


「彼女は“危険物”ではない。“資産”よ。――我々の」


その言葉が、戦場より冷たかった。


アリスは、眠りに落ちる直前、ぼんやりと思った。


握手で首輪が光った。

国の鎮圧が牙を剥いた。

そして、もっと冷たいものが来た。


――人間の顔をした影。


「……ジジイ……」


義弘の顔が浮かんだ気がした。

苛立ちも、悔しさも、言葉にならない。


最後に、誰かの手が髪を撫でた気がした。


シュヴァロフの手つきに似ていて、

でもシュヴァロフよりずっと冷たい。

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