第239話 時間通り
アリスは、念入りだった。
自分がいつか“拘束される”ことを、もう疑っていない。
新開市では、正しい者ほど縛られる。
縛られた瞬間、切り抜きが「正しさ」を「罪」に変える。
だからアリスは、先に線を残した。
ウェブネットワークに、仕掛けを施す。
誰かが見ればただの監査ログ、ただの通信ノイズ、ただの定期更新に見える形。
だが条件が揃えば、義弘と玲音に届く。
――自分が消えても、“計画の骨格”だけは残るように。
仕掛けは多重だった。
ひとつは予約投稿。
一定時間、一定条件、一定キーワードで“解錠”されるメッセージ。
ふたつめは監査ログ風の暗号化パケット。第三者が見ても意味が分からない。
みっつめは解除キーの二系統化。
義弘の白ルート(アライアンス経由の手順)と、玲音のNECRO符丁ルート。
送信ボタンを押せない刃を、今度は“自動化”する。
アリスはそれをやりながら、胃が痛くなるのを感じていた。
自分はいつから、こういう手を打つ人間になった?
いや違う。最初からだ。
最強のネット犯罪者“ゴースト”だった頃から、アリスはいつも“残し方”で勝ってきた。
だが今は違う。
残すためではない。
守るためだ。
守るべきものが増えるほど、手順は増える。
手順が増えるほど、心は擦り切れる。
そして擦り切れたまま、アリスは扉を開けた。
アザド・バラニの部屋は、静かだった。
静かだが、圧がある。
書類の整い方。端末の配置。椅子の角度。
全てが「ここは手順の場だ」と告げている。
アリスは立ったまま言った。
口が悪くなる前に、先に要件を落とす。
「新開市での計画を止めろ。
止めないなら、監査記録官補佐を辞める」
言い切った瞬間、空気が一度だけ張った。
アザドは驚かない。
驚きがないことが、逆に怖い。
アザドは薄く笑い、淡々と言った。
「さすが“ゴースト”。時間通りだ」
時間通り。
その言葉が、アリスの神経を逆撫でする。
この男は最初から“この瞬間”を予定していた。
アリスが気づくことも、怒ることも、最後通告することも。
アザドは手を伸ばし、椅子を示した。
「座りたまえ」
アリスは座らない。
「話なら立ったまま聞く」
アザドは肩をすくめない。
代わりに、ひとつだけ刺す。
「“なんだってやってやる、私に軍隊をくれ”――
あれは嘘か?」
アリスの胸がきしむ。
あの言葉。
オールドユニオン所属を決めた夜。
アザドに条件を突きつけられ、腹の底から出した叫び。
嘘じゃない。
嘘じゃないから、今の自分が苦しい。
アリスは歯を食いしばり、しぶしぶ椅子に腰かけた。
座った瞬間、“手順の場”に組み込まれる。
負けの一歩。
アザドは満足した顔をしない。
満足は弱さだ。
彼はただ、手順を進める。
「では、話そう」
アリスは低く言う。
「話す前に答えろ。
計画を止めるのか、止めないのか」
アザドは即答しない。
即答しないことで、主導権を握る。
「計画とは何だね」
アリスは苛立ちを飲み込み、言葉を整える。
整えないと、逸脱になる。
「……中立フェス。
“怪獣”の提供。
企業と手を組んで、もっと大きい映えを作る気だろ」
アザドの目がわずかに細くなる。
認める顔でも否定する顔でもない。
ただ、理解した顔だ。
「君は賢い。
だからこそ、早い。
そして時間通りだ」
また時間通り。
アリスの手が、椅子の肘を強く握る。
「……褒めてんのか?」
「評価している」
「評価はいらない。止めろ」
アザドは淡々と、三つの点を並べるように話し始めた。
「まず、我々が新開市で行おうとしていることは、
いたずらに騒乱を引き起こすことではない」
アリスの眉が動く。
「じゃあ何だ」
「運用だ」
運用。
その言葉は、暴力の顔を隠すのに便利だ。
アザドは続ける。
「第二に、君がオールドユニオンの立場として新開市に貢献するのは自由だ」
自由、という言葉が出る時は危ない。
自由は餌だ。
餌は釣り針を隠す。
「第三に、我々は大切な資産――君を、悪戯に消耗させる意図はない」
資産。
その言葉が、アリスの内側を冷やす。
守るべき子どもたちの前で、資産という言葉は汚い。
だが汚い言葉ほど、本音だ。
アザドは最後に、優しい顔を作った。
「そして、君が我々に歩み寄るなら、計画は必要ない」
歩み寄る。
つまり従え、と言っている。
アリスは低く吐き捨てる。
「ふざけんな」
アザドは表情を変えない。
変えないから、こちらが変わる。
アザドはとどめの一手を出した。
「我々が新開市から撤退すれば――」
アリスの赤い瞳が動く。
「OCMの騒乱が再び起こるかもしれない」
その言葉は刃だった。
刃の切っ先が、療養施設の廊下を向いている。
子どもたちを向いている。
アザドは静かに続けた。
「NECROテック患者たちのために、それは防ぎたい事態だろう」
痛い所を突かれた。
アリスは歯を食いしばる。
言い返したい。殴りたい。
だが殴れば逸脱になる。
逸脱になれば、子どもにまで火が飛ぶ。
アザドはそれを理解している。
理解しているからこそ言う。
アリスは必死に言葉を絞り出す。
「……私や、オールドユニオンの利益のために
新開市を燃やすわけにはいかない」
アザドは頷いた。
「燃やす必要はない」
アリスは眉を寄せる。
「何言って——」
アザドは平然と言った。
「新開市は誰かに燃やしてもらう必要など無い。
自分で燃える」
その言葉が冷たい。
燃える街。
燃えるから、守る瞬間が綺麗になる。
燃えるから、列が育つ。
燃えるから、ヒーローが必要になる。
それを“自然”として扱う冷酷さ。
アザドは淡々と続ける。
「燃えるからには、消化するのが手順として正しい」
消火。
正しい手順。
その言葉が、オールドユニオンの正義だ。
アリスは唇を噛む。
「……手順のために、街を燃やすのか」
「街は燃える。
燃えることを前提にしないのは、手順ではない」
アリスは理解する。
この男は止まらない。
止まらないのは悪意ではない。
“正しさ”の形で止まらない。
止めるのは難しい。
正しさは、殴るとこちらが悪になる。
アリスは言った。
「辞める。
監査記録官補佐を辞める。
そんな計画に加担できない」
アザドは首を傾げる。
「辞めるのは自由だ。
だがそれは責任放棄として記録される」
記録。
それが全てを決める。
「君が辞めれば、君の線は消える。
君が線を引かないなら、他が引く」
他。
企業。扇動。便乗。
導線屋ノウハウの民間化。
結社。
怪獣。
アリスは気づく。
辞めれば楽になると思っていたのに、辞めれば守れない。
守れないのは、子どもだ。
家族だ。
アザドは穏やかに言う。
「君は賢い。
だから分かるだろう。
君はこの場から逃げられない」
逃げられない。
その言葉が、オスカーの笑わない顔を思い出させる。
年長者。
合理。
首を置く。
アリスは、その孤独を今、受け取っている。
アリスは立ち上がった。
椅子の音が小さく鳴る。
「……義弘に連絡する」
アザドは止めない。
止めなくても止まると知っているからだ。
アリスは端末を開き、義弘の番号を呼び出す。
白い制服の男なら、止められるかもしれない。
手順ではなく、導線で。
呼び出し音が一度鳴り――
繋がった。
だが画面に映ったのは義弘ではなかった。
氷の母。
アライアンスの中心。
あの“我々”の声。
氷の母は優しく、しかし冷たく言った。
「アリス。
よくやりましたね」
褒め言葉の形をしているのに、体温がない。
褒められるときほど、怖い。
アリスは低く言った。
「義弘に繋げ」
氷の母は首を振らない。
ただ淡々と告げる。
「“我々”は中立でなければならない」
アリスの胸が詰まる。
「中立なら、止めろ」
氷の母の声は変わらない。
「後手に回ろうとも」
アリスは言う。
「先に潰せばいいだけだろ」
氷の母は優しく、冷たく返す。
「先手を取って潰すのは簡単です。
しかしそれは中立とは言えません」
アリスは唇を噛む。
中立。
その言葉が盾になる。
氷の母は続ける。
「中立とは、新開市にすら属していないことなのです」
属していない。
だから守れる。
守れるが、遅い。
遅いから、燃える。
アリスは叫びたくなる。
「遅れたら子どもが——」
氷の母は遮らない。
遮らないまま、言葉を置く。
置く言葉が、最も刺さる。
「貴女の年齢ではつらいでしょうけど、アリス」
優しく、冷たい声。
「人は自身の責を背負わなければならない時が来ます。
それが今です」
責。
その言葉が重い。
責を背負う。
オスカーが言っていた。年長者が背負う、と。
今、背負わされているのはアリスだ。
年長者ではないのに。
まだ若いのに。
だからこそ、氷の母は「つらいでしょう」と言った。
アリスは息を吐き、低く言った。
「……分かった」
分かったと言うしかない。
言わなければ逸脱になる。
逸脱になれば、手順が自分を殺す。
氷の母は最後に、静かに告げた。
「“我々”は見ています。
あなたが中立に従うのか、燃えるのか」
通話が切れる。
画面には自分の顔が映る。
白いフード。赤い瞳。
笑顔はない。
筋肉の配置をする余裕はない。
アリスは端末を閉じた。
手順が勝つ。
規範が勝つ。
中立が勝つ。
勝つのに、子どもが危険になるかもしれない。
それが最悪だった。
それでもアリスは、仕掛けを残している。
義弘と玲音に届く線を残している。
今すぐ届かなくてもいい。
条件が揃えば届く。
届けば、次は守れるかもしれない。
アリスは立ち上がり、扉へ向かった。
止められない。
先手は打てない。
中立に従うなら、後手になる。
後手でも守る。
それが“責”だと、氷の母は言った。
アリスは低く呟く。
「……ふざけんな」
だが足は止まらない。
新開市は燃える。自分で燃える。
燃えるなら消化するのが手順だと、アザドは言った。
燃やさせない。
だが先手で潰せない。
この矛盾の中で、アリスは今日も歩く。
時間通りに。




