第236話 善意の過激化
アリスは、かつて“デュラハン”オスカー・ラインハルトが味わっていたものを、存分に味わっていた。
――全方位から刺される、あの感じ。
新開市に根を張ろうとするオールドユニオンを、必死に抑えなければならない。
だがオールドユニオンは、アリスにとって“明確な敵”ではない。
アリスはオールドユニオン所属だ。
所属してしまった以上、殴れない。
殴れば逸脱になる。逸脱は記録され、規範違反として処理される。
ならば、味方か。
味方でもない。
味方の顔で、同化してくる。
親善大使。笑顔の規範。貸与されたハルニッシュ部隊。
所属の名で、アリスの行動を“成果”として吸い上げる。
敵なら楽だ。
全方位敵ならもっと楽だ。
孤立無援、全方位敵――その方が、戦える。
殴れる。切れる。壊せる。
アリスはそう思ってしまうくらい、混線していた。
批判する声は、守るべき新開市から刺さる。
擁護する声も、同じ新開市から刺さる。
「何もしないのに偉そうだ」
「笑ってるだけじゃん」
「外国の操り人形」
「アリスは新開市の象徴だ」
「アリスを返せ」
「アリスがいればいい」
批判も擁護も、同じ刃だ。
刃の向きが違うだけで、刺さる場所は同じ。
アリスは混乱していた。
混乱している自分に、さらに腹が立つ。
怒りは得意だ。
毒舌も得意だ。
だが混乱は得意じゃない。
混乱は、誰にも殴れない。
控室の鏡が、今日もアリスを映している。
白いフード。
黒髪。前髪が片目を隠れがち。
赤い瞳。影のある学生風の雰囲気。
そして、笑顔。
笑顔は、感情ではない。
筋肉の配置だ。
両頬に人差し指。
頬が少し沈む。
“にこっ”を作る形。
自分の身体が、自分のものじゃないみたいだった。
笑顔は、感情じゃなく、筋肉の配置になる。
配置すれば、カメラは「笑っている」と判断する。
判断されれば、仕事は達成。
達成すれば、規範に従ったことになる。
規範に従う。
それはアリスが自分で決めたことだ。
決めたはずなのに、頬が痛むたびにその決断が少しずつ削られる気がする。
「親善大使として、笑顔を」
この言葉は殴らない。
殴らないのに、削る。
削られていくのは、アリスの自由だ。
削られていくのに、外側は完璧に整う。
整うほど、同化が進む。
それが最悪だった。
戦いは、傷が見える。
同化は、傷が見えない。
見えない傷は、周囲に「何も起きていない」ように見える。
そして新開市は、何も起きていないものをすぐに切り抜く。
「何もしなかった」
「笑ってただけ」
頬が痛い。
笑顔が痛い。
アリスは鏡から目を逸らし、椅子に沈んだ。
椅子に沈んでも、時間は沈まない。
手順は止まらない。
スケジュールは容赦しない。
オールドユニオンのスタッフが、丁寧な声で言う。
「次の撮影まで、五分です」
五分。
五分で、笑顔の筋肉を回復させろと言う。
回復しないなら、ケア部隊が湧く。
医療関係者。マッサージ師。ヘアメイク。スタイリスト。NECROテックの技術者。
善意の顔で、止まらせない。
止まらせないことが、オールドユニオンの“優しさ”だ。
アリスは低く呟く。
「……気が狂う」
狂っているのは自分だけではない。
街も狂っている。
手順も狂っている。
善意も狂っている。
それでもアリスは、誰とも戦えない。
戦えばオールドユニオンの成果になる。
戦えば企業ヒーローの席替えに利用される。
戦えば新開市民の列が肥える。
戦えば家族に触れられる。
だから耐える。
ひたすら耐える。
耐えることが戦いになってしまった。
義弘は黙ってインフラを守っている。
義弘の白い制服は、「何もしない」に見えない。
白は導線であり、壁ではなく通路だ。
黙って立つだけで、人が流れる。
それは“守った絵”になる。
アリスの笑顔は、「何もしない」に見える。
笑っているだけで、守りが見えない。
それが理不尽だと、アリスは分かっている。
分かっているから苦しい。
守りの形が違うだけだ。
でも世論は形しか見ない。
形しか見ないから、刺さる。
アリスは思う。
オスカーは、どうやってこれを耐えていた?
どうやって、全方位から刺されながら盤面を動かしていた?
答えは分かる。
合理だ。
数字だ。
年長者の顔だ。
そして最後に、首を自分で置いた。
アリスは封緘を思い出す。
机の上に残った刃。
今は抜けない刃。
次に止めるための刃。
刃があるのに使えない。
それがまた刺さる。
その頃、新開市・中立フェス実行委員会のアリス支持派は激怒していた。
前々回も、前回も。
アリスを批判する声が消えない。
むしろ増えている。
「笑ってるだけ」
「何もしない」
「外国の操り人形」
彼らはそれを、本気で許せなかった。
アリスは新開市のシンボルだ。
シンボルが踏みにじられることなど、断固許されない。
彼らはそう信じている。
信じている者は強い。
強い善意は、暴力より危ないことがある。
実行委員会の内部チャットには、怒りが溜まっていた。
表向きは防災と観光。
裏では“象徴”の防衛。
「アリスの評価が落ちてる」
「切り抜きが回ってる」
「企業ヒーローが調子に乗ってる」
「オールドユニオンのロゴがアリスに貼りついてる」
「許せない」
誰かが書いた。
「アリスが動かないのは、オールドユニオンに功績を吸われないよう抑えてるからだ」
その推測は、半分正しい。
だからこそ危険だ。
別の誰かが続ける。
「なら、アリスを活躍させて、しかもオールドユニオンと関係ないことを証明すればいい」
さらに別の誰かが書く。
「そうすれば地位は回復する」
「象徴は取り戻せる」
信じている。
本気で信じている。
この“本気”が、街を燃やす。
彼らの頭の中で、導線屋ノウハウが組み上がっていく。
守れ。
守った瞬間が一番綺麗だ。
ならば守らせればいい。
アリスに、守らせればいい。
しかもオールドユニオン抜きで。
そのために必要なのは何か。
トラブルだ。
事故ではない。
死者は出さない。
でも事故寸前は作る。
アリスが“守る瞬間”が撮れれば、切り抜きは逆転する。
アリスが守れば、新開市の象徴は回復する。
そしてその成果はオールドユニオンのものではない――そう証明できる。
彼らはそう信じる。
信じることは、免罪符だ。
実行委員会の中には、導線屋ノウハウを持つ者がいる。
元グランド・コンコルディア。
折原の同調者。
導線屋の“節”を知る者。
彼らは、善意の顔で設計を始めた。
表向きの名前は柔らかい。
「新開市象徴保全会」
「アリス支援市民ネットワーク」
「中立フェス・サポーターズ」
どれも合法っぽい。
どれも善意っぽい。
どれも止めにくい。
だが実態は、裏実行委員会だ。
“結社”が生まれた。
結社の目的は一つ。
アリスのために映えを用意する。
結社の方針も具体的だった。
1) オールドユニオンが成果を主張できない状況を作る
2) 義弘やアライアンスが前面に出ない状況を作る
3) 企業ヒーローが手柄を取れない状況を作る
そして最後に――
アリスだけが守れる状況を作る。
“守れる状況”は自然には生まれない。
だから作る。
作るために必要なのは節だ。
節を作るには停滞と圧縮が要る。
停滞と圧縮は、「善意」と「安全」で作れる。
「訓練だから」
「安全のために並んで」
「ここで止まってください」
善意の言葉で、人は止まる。
止まった場所に節が生まれる。
節が生まれれば、守る瞬間が作れる。
そして守る瞬間が撮れる。
結社のチャットに、一言が落ちた。
「守らせればいい」
別の誰かが続ける。
「守った瞬間が一番綺麗だ」
導線屋の美学が、善意に混ざる瞬間だった。
アリスはそのことを知らない。
知らないまま、笑顔を配置し続ける。
知らないまま、同化の圧を耐える。
知らないまま、刺す声と擁護の声に削られる。
知らないまま、オスカーの孤独を継いでいく。
その夜、アリスは控室で一人、端末を閉じた。
閉じたのに、刺さる声は消えない。
消えないから、眠れない。
アリスは低く呟く。私、という一人称が短く落ちる。
「……孤立無援なら楽だった」
楽ではない。
だが楽だと思ってしまうほど、現実が複雑だ。
扉の外では、オールドユニオンの手順が静かに回っている。
街の外では、企業が席を狙って動いている。
街の中では、善意が過激化して結社になっている。
全方位敵ではない。
全方位味方でもない。
その曖昧さが、一番きつい。
アリスは最後に、ただ一言だけ心の中で繰り返す。
——家族は渡さない。
それだけが線だ。
それだけが、自分のものだ。
だが結社は、その線の外側で“映え”を仕込み始めていた。




