第224話 偽旗
療養施設の廊下は、今日は静かだった。
静かすぎて、機器音がやけに大きい。
空調の風が、いつもより冷たい。
シュヴァロフは子どもの膝の上に小さな毛布を掛け、指先で端を整えた。
動きは丁寧だ。
まるで、アリスの手つきを真似るように。
―――大丈夫。
誰に言った言葉か分からない。
子どもに言ったのか。
自分に言ったのか。
テレビの向こうのアリスに言ったのか。
子どもは鼻をすすり、シュヴァロフの肩に額を寄せる。
シュヴァロフはその背中をゆっくり撫で、視線だけをテレビに向けた。
画面の中では、アリスが黒い影を引き連れていた。
セグメンタタ。
揃った歩幅。
記録の軍隊。
シュヴァロフの胸の奥がざわつく。
また無理をしている。
また一人で抱え込んでいる。
だがシュヴァロフは動けない。
アリスがここに子どもたちを託した。
守りとして置いていったのだ。
廊下の端ではコロボチェニィクが静かに立ち、
グリンフォンが施設の出入口の節を作っている。
守りは揃っている。
だからこそ、離れられない。
シュヴァロフは子どもの髪を整えながら、テレビのアリスを見つめた。
——帰ってきて。
言葉にならない願いが、静かに胸の中で鳴った。
アリスは、翼を広げていた。
翼は羽ではない。
AR端末だ。
肩口から展開した薄いパネルが、彼女の視界に半透明の情報層を重ねる。
捜査状況、部隊配置、通報の時系列、搬入ログ、承認フロー。
膨大なデータが“見える形”に整列し、アリスの指先に従う。
セグメンタタ部隊は、OCM本社と療養施設に展開している。
見て、残す。
逸脱を残す。
隠蔽を残す。
そしてアリスは、オールドユニオンの後ろ盾を得ていた。
それは政治的な束縛を解く。
“ゴーストが動けば恣意だ”と叩かれる時代は終わった。
今のアリスの行為は、監査枠の行為だ。
見る。照合する。記録する。
それだけで、強い。
アリスは呟く。
「……やっと、まともな手が使える」
玲音が横で息を吐く。
「まとも、って言葉を君が使うのが一番怖い」
「うるさい。今は静かにしろ」
アリスは指を滑らせ、海外部門の動きに線を引く。
物流のタグ。
内部承認。
権限テーブルの更新履歴。
海外部門は確保に動けない。
動けば、記録される。
記録されれば、言い逃れできない。
海外部門は苛立つ。
苛立つほどミスが増える。
ミスが増えるほどアリスの翼が拾う。
だが問題は、海外部門だけではない。
別の臭いが、街の下水のように漂っている。
元急進派。
正義の顔で刺す者。
その正義が、いま苛立ちで歪んでいる。
新開市は、相変わらずだった。
アリスがオールドユニオンを引き連れてきた。
義弘がアライアンスにいる。
捜査当局が日本国の手順を振り回している。
普通の都市なら緊張で凍る。
だが新開市は違う。
「国際紛争じゃね?」
「アライアンス対オールドユニオン?」
「やべえ、見に行こう」
「配信回す」
「ついでに一言言う」
お祭り好きで反省しない新開市民は、ここぞとばかり路上に繰り出した。
見物人。観光客。野次馬。お調子者。配信者。
サムライ・ヒーロー。ヴァーチャル・サムライ。デモ隊。怪しげな市民団体。
導線屋っぽい人物——とにかく何でも。
彼らは義弘とアリス、捜査当局を取り囲む。
列が勝手に膨らむ。
節が勝手に生まれる。
捜査当局は焦る。
元急進派はさらに焦る。
「急げ」
「急がないと逃げられる」
「急がないと絵が撮れない」
焦りは、手順を乱す。
だが乱そうとしても、進まない。
義弘の圧力がある。
ミコトの正義の手順がある。
そして何より、新開市民の祭りが邪魔をする。
邪魔、と言うと失礼だ。
だが実際、邪魔なのだ。
手順のプロが作りたい“整然とした連行の絵”は、
新開市民の「見たい」「言いたい」「撮りたい」に飲み込まれて崩れる。
捜査が進まない。
進まないから焦る。
焦るから雑になる。
雑になるから記録される。
アリスの翼が、雑な手順を拾う。
OCM海外部門も進まなかった。
確保に移れない。
療養施設も本社も、記録と監視の網に絡まっている。
海外部門が一歩踏み出せば、セグメンタタが残す。
アリスが照合する。
ミコトが会見で線を引く。
海外部門は苛立つ。
苛立てば苛立つほど、アリスが勝つ。
だから海外部門は別の手を選ぶ。
リーク。
捜査当局が元急進派の息がかかっている。
政治捜査の疑いがある。
手順が歪んでいる。
それを“それとなく”ミコトと真鍋へ流す。
鉾先を元急進派へ向ける。
オールドユニオンの監視を、逆に利用する。
海外部門もまた、手順の怪物だった。
だが元急進派は、もっと荒い手を切った。
とどめを刺しそこねた苛立ち。
オールドユニオンの宣言で足が止まった屈辱。
海外部門も捜査当局も、思うように動かない。
だから“絵”を作る。
強硬手段を取ったのは海外部門だ、という絵。
それを口実に捜査を進める。
元急進派は、日本国内から密かにVXシリーズの部材を新開市へ流入させた。
古いVXの部材。
それらしく見えるラベル。
OCM物流の偽タグ。
偽の署名。
本物の暴力ではない。
暴力に見える証拠。
“偽旗”。
誰かが目撃する。
誰かが撮る。
誰かが拡散する。
《VXがいる》
《海外部門が動いた》
《やっぱりOCMは危険》
《捜査を急げ》
燃料が戻る。
手順が急ぐ口実が生まれる。
元急進派は、それを欲していた。
アリスの翼が、最初に異常を拾った。
物流タグの不一致。
署名の癖が違う。
搬入時刻の揺れ。
登録先の辻褄が合わない。
偽物だ。
偽のOCMだ。
偽の海外部門だ。
アリスの目が細くなる。
「……やったな」
玲音が顔を上げる。
「何が」
「偽旗。
VXが入った。
——でも海外部門の手じゃない」
玲音が息を呑む。
「元急進派?」
「たぶん。
捜査を進める口実が欲しいんだろ」
アリスは指を滑らせ、証拠を“記録の形”に落とす。
断片ではなく線にする。
改竄防止の封緘ではなく、即時のログ保存にする。
セグメンタタが動く。
見て、残す。
現場の映像も、タグも、時刻も。
元急進派の偽旗は、記録される。
だが記録される前に、世論は燃える。
燃えた世論は止めにくい。
新開市民はまた盛り上がり始める。
「VX来た!?」
「やべえ!」
「見に行こう!」
「配信回す!」
祭りが加速する。
祭りが加速すると、導線が危ない。
アリスは歯を食いしばる。
守る手段が増えた。
翼が増えた。
軍隊もある。
だが街は、勝手に燃える。
それが新開市だ。
療養施設のテレビに、またアリスが映る。
シュヴァロフは子どもの頭を撫でながら、その画面を見つめた。
アリスの目は鋭い。
鋭い目ほど、無理をしている証だ。
シュヴァロフは子どもを抱え直し、静かに心の中で言った。
——守って。
——でも、戻って。
廊下の端で、コロボチェニィクが節を作り直す。
グリンフォンが出入口の線を調整する。
施設は守る。
アリスが託したからだ。
そしてアリスは、街の上で翼を広げたまま、偽旗の匂いを追い始めた。
偽のVX。
偽の署名。
偽の正義。
次の戦場は、煙幕ではなく“偽旗”だった。




