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第211話 中立に従う

 送信ボタンの上で、アリスの指は止まっていた。


 端末の画面には断片が並ぶ。

 VX-14 “ELEPHANT” 由来の構造識別コードの欠片。

 運用枠の内部認証の断片。

 社内の手続き番号の断片。


 どれも完全ではない。

 だが、完全でなくても“匂い”にはなる。

 匂いになれば、狼が群がる。

 そして今の新開市は、狼だらけだった。


 宛先候補はすでに入力されている。

 真鍋。鳴海。ミコト。治安機関。


 「送信」を押せばいい。

 押せば、団体は救われるかもしれない。

 “オスカーの息がかかっていない”と、線を引けるかもしれない。


 理屈では分かっている。

 だからこそ、指が動かない。


 その断片が意味するものを、アリスは知っていた。


 オスカーが、導線屋とやり取りしていた種。

 隠したはずの骨。

 兄弟姉妹の旗の裏側に、確かにあった泥。


 押せば刺せる。

 刺せば止まるかもしれない。

 でも、その刺し方でいいのか。


 アリスは、歯を噛んだ。


「……クソ」


 声に出しても、指は動かなかった。


 その時、廊下の向こうで小さな泣き声が上がった。


 幼い患者が、堪えきれずに泣き出したのだ。

 さっきまでトミーが、妙な呼吸の遊びで笑わせていた子だった。


「やだ……こわい……」


 言葉が割れる。

 恐怖が連鎖する。

 人権団体が叩かれている。

 “悪いの?”と聞いた時、大人が一瞬詰まった。

 その詰まりが子どもには伝わってしまう。


 トミーの声が聞こえる。


「泣くな。泣くのは交代制だって言ったろ。今の番じゃねえ」


 いつもの毒舌の形を借りた優しさ。

 だが子どもは止まらない。


「アリス……」


 名前が呼ばれた。

 たぶん無意識だ。

 “怖い時に一番強そうな人の名前”を呼んだだけだ。


 アリスの指が、送信ボタンから離れた。


 立ち上がる。

 足音。

 自分に言い訳が生まれる前に、体が先に動いた。


「……うるさい」


 アリスは子どもの前にしゃがみ込み、泣き顔を覗き込んだ。

 声は相変わらず乱暴だ。


「泣くな。息を吸え。短くなるな。頭が回らなくなる」


 子どもはしゃくりあげながら、言われた通りに息を吸う。

 アリスはその背中を一度だけ、硬く叩く。


「よし。……ほら、もう一回」


 優しくはない。

 でも、確かに守っている。


 泣き声が少し小さくなる。

 アリスはそこで初めて、端末の画面から逃げたことを自覚した。


 逃げた。

 言い訳にした。

 「いまはそれどころじゃない」と。


 その自覚が、胸の奥で熱く刺さった。


「……ごめん」


 誰にも聞こえないくらい小さく呟く。

 子どもにではない。

 自分に、だ。


 廊下の角に、玲音が立っていた。


 サムライスーツの一部装具は外しているが、姿勢は崩れていない。

 橋として、ここにいる。


 玲音はアリスの手元を見ない。

 送信が止まったことを見たはずなのに、責める顔をしない。


「……送らないの?」


 ただ、それだけを聞いた。


 アリスは舌打ちする。


「うるさい。今じゃない」


 玲音は頷いた。

 頷き方が、“理解”だった。


「君が“止めるために使う”なら、僕はそれに付き合う」


 アリスの目が一瞬だけ揺れる。

 その揺れを隠すように、いつもの口が先に出る。


「格好つけんな」


 玲音は苦笑する。


「格好つけてるんじゃない。橋なんだ。落ちたら困るだろ」


 アリスは言い返そうとして、言葉が詰まった。

 代わりに子どもの頭を、乱暴に撫でる。


「……泣くな。

 泣く暇があるなら、寝ろ」


 子どもがうなずき、目を擦る。


 アリスは立ち上がり、玲音に背を向けて言った。


「送らないのは、許したからじゃない」


 玲音が静かに返す。


「知ってる」


 アリスの声が低くなる。


「しかるべき時に、オスカーを“止める”ために使う。

 私が撃つ。私のタイミングで」


 玲音はその言葉を受け止めて、頷く。


「その時は、僕も一緒に説明する。

 君ひとりに背負わせない」


 アリスは肩越しに睨む。


「背負わせない、とか言うな。

 ……でも、嫌いじゃない」


 言ってしまってから、アリスは顔をしかめた。

 余計なことを言った、という顔だ。


 玲音は何も言わず、ただ微笑みを薄くする。

 橋は、揺れても落ちない。


 アリスは臨時作業スペースへ戻った。


 端末の画面は暗くなっている。

 送信はされていない。

 未送信のまま、弾だけがそこにある。


 アリスはその弾を消さなかった。

 消せば楽だ。

 消せば、今日は眠れるかもしれない。


 だが消した瞬間に、許したことになる。


 アリスは、許さない。


 断片を二重、三重に保存する。

 改竄されない形にする。

 自分以外の“事故”で消えないようにする。


 そして、送信先の欄だけは残しておく。


 いつでも押せるように。

 押すべき時に押せるように。


 その指が、ほんの一瞬だけ送信ボタンの上に戻る。

 戻って、また離れる。


 いまは押さない。

 いまは、押せない。


 だがそれは敗北ではない。

 保留だ。

 戦略的な保留だと、アリスは自分に言い聞かせた。


「……撃つなら弾を揃える」


 呟いて、画面を閉じた。


 同じ夜。


 白い部屋で、義弘は再びアライアンスの使節の訪問を受けていた。


 相変わらず丁寧な空気。

 相変わらず冷たい目。

 制度としての言葉。


 トミーが椅子に座り、耳を伏せている。

 不機嫌を隠そうともしない。


 使節は前回と同じ条件を、淡々と繰り返した。


「あなたがアライアンスに属し、真の意味で中立となるなら、我々はあなたの身柄を引き取る」


 義弘は、今回は黙って聞くだけではなかった。


 膝は痛む。

 体は弱っている。

 それでも、目は決まっていた。


「——従う」


 トミーの耳がぴんと立つ。

 義弘が“従う”と言う。

 それだけで異常だった。


 義弘は続けた。


「俺は“中立”に従う」


 アライアンスの使節は、表情を変えなかった。

 だが目の奥が、ほんの僅かに動く。


 義弘の言い方が、良い。

 所属に屈するのではない。

 理念に従う。

 それは、義弘の矜持の残し方だった。


 使節は黙って端末を開いた。


 画面に、一行が表示される。


 差出人――氷の母。


 「“我々”は貴方を歓迎しましょう、”サムライ・ヒーロー”」


 トミーが小さく息を吐いた。


「……重いな」


 義弘は画面を見つめたまま言う。


「重い。

 でも、いま俺がここにいることの方が、もっと重い」


 使節は端末を閉じ、淡々と告げる。


「移送の準備に入ります。

 あなたは“制度”になります」


 その言葉が、義弘の胸に沈む。

 守るための檻。

 中立のための所属。


 義弘はそれでも、目を逸らさなかった。


「……頼む。街を守れ」


 使節は短く答えた。


「“我々”は、インフラと中立を守る」


 それが約束なのか、条件なのかは、まだ分からない。

 分からないまま、義弘は頷いた。


 療養施設の廊下の灯りが、少し暗くなった。


 子どもたちは眠り始める。

 大人たちは交代で座り、目を閉じる。


 外のカメラはまだ光っている。

 疑いの匂いは、まだ残っている。


 アリスは送信しなかった。

 義弘は従うと言った。


 どちらも、中立のための決断だった。

 どちらも、誰かを傷つけうる決断だった。


 それでも夜は進む。

 進むしかない。


 新開市は、また一つ“中立の代償”を積み上げていった。

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