第207話 夜明け前
ヴェラ・クラウスは、飢えた狼を操るのがうまい。
飢えさせる。
匂いを嗅がせる。
群がらせる。
そして、疲れたところを噛む。
WEREWOLFを駆る時も、世論を駆る時も、手順は同じだった。
療養施設の外周は、いつの間にか“工事現場”のようになっていた。
安全確保。
物流点検。
横流し捜査。
オスカー名目の資産保全。
言葉だけなら正しい。
だが、その正しさが施設を削っていく。
敷地内の搬入口に、WEREWOLFが立つ。
武装は見せないように角度を調整しているのに、装甲の厚みは隠しようがない。
報道カメラはその厚みに吸い寄せられ、字幕は勝手に“捜査”の物語を作る。
《横流し捜査、ついに本格化》
《療養施設に“資産”疑惑》
《OCM、透明性確保へ》
点検は施設内に入らない。
入らないのに、命綱を握る。
医療消耗品の段ボールが、一本ずつ止められる。
冷蔵が必要な薬剤が、「確認」の名目で時間を食う。
酸素ボンベの搬入が、書類の照合で遅れる。
発電燃料の補充が、「安全確認」で一度引き返される。
施設スタッフが焦る。
焦る顔は、外のカメラにとって最高の餌だ。
「止めないでください! これは——」
スタッフの声が上ずる。
それだけで“やましい”絵になる。
WEREWOLFの前にいる海外部門の担当者は、丁寧に頭を下げる。
「もちろんです。安全のための確認です。
患者さまのためですから」
丁寧な言葉が、刃になる。
施設内では、疲労が静かに積もっていた。
夜勤が続く医療スタッフの目が赤い。
NECROテックエージェントたちの交代ローテが崩れかける。
アリスは情報線を握ったまま、まともに眠れていない。
玲音は外部との連絡と内部の統制の間で、心拍が落ちる暇がない。
それでも、施設は壊れないように保たれていた。
トミーが、子どもたちの部屋で妙な遊びを作っていた。
泣きそうな子に、わざと難しいルールを押し付ける。
「はい、“怖い顔禁止”な。
怖い顔すると、相手が勝った気になる。
だから笑え。笑えないなら、せめて変な顔しろ」
子どもがぷっと吹き、涙が引っ込む。
トミーはそれを見て、耳を揺らす。
「ほら。今の顔、最強。
狼が見たら逃げる」
もちろん逃げない。
でも笑いが戻る。
戻るだけで、施設は一段守られる。
会議室では、義弘が膝を押さえながら、全員の顔を順番に見ていた。
顔色。声。瞬き。
疲労のサインを、戦場のサインとして読む。
「……削られてる」
誰に言うでもなく、義弘が呟く。
アリスが即座に返す。
「分かってる。こっちのミス待ち。
“今日も来なかった”って思わせて、明け方に来るやつ」
玲音が唇を噛む。
「でも、もう毎日“来る”って思ってる。
思ってても疲れる」
義弘は頷いた。
疲れる。
思っていても疲れる。
だから奇襲が刺さる。
「だから、いま寝ろ」
義弘が言った。
全員が一瞬固まる。
今寝ろ?
この状況で?
義弘は言葉を重ねる。
「眠るべき人を眠らせるのが指揮官の仕事だ。
寝ないで守れるのは、映画の中だけだ」
アリスが不機嫌そうに言う。
「私が寝たらログが——」
「ログは死なない。人が死ぬ」
義弘は遮った。
「交代で寝ろ。
アリス、二時間。玲音、次に二時間。エージェントは三交代を戻せ。
医療スタッフは無理にでも座らせろ。
トミーには子どもを頼め。すでに頼んでるだろうが」
トミーの名が出て、玲音が少しだけ笑った。
「……頼りになるな」
「毒舌だがな」
義弘は短く言って、膝をさすった。
「一番危ないのは、みんなが“今日は来ない”と思った朝だ。
夜明け前。
光が差して、気が緩む瞬間に来る」
アリスが目を細める。
「……来るなら、そこだね」
「来る」
義弘は断言した。
経験が言っている。
外周の車内で、ヴェラはモニタを見ていた。
物流点検は順調。
報道は食いついている。
施設側の疲労は増している。
ヴェラは端末に短い指示を送る。
【監査の届け出、治安機関へ再送。到着遅延を理由にできるよう記録。
物流点検を継続。医療は止めるな。遅らせろ。
夜明け前、移行】
彼女は深く息を吸わない。
心拍も乱れない。
緊張があるほど世界が静かに見える。
その静けさを、彼女は少しだけ楽しんでいた。
「……退屈ではない」
小さく呟き、窓の外の暗さを見た。
空はまだ黒い。
黒い方が、狼は動きやすい。
夜が深くなると、外のカメラも少しずつ疲れていった。
配信者は充電を気にし始める。
報道車両のスタッフは交代で仮眠に入る。
「絵」が薄くなる時間帯が来る。
それが、ヴェラの待っていた瞬間だった。
午前四時二十七分。
療養施設の外周で、静かな指示が飛ぶ。
声は小さい。
足音は揃っている。
余計な音がない。
WEREWOLFが、敷地内の門へ向かう。
PANTHERが裏の導線へ滑り込み、抜け道を塞ぐ。
EAGLEが上空で旋回を一段低くし、通信を“切断ではなく遅延”へ落とす。
半拍遅れる。
半拍ずれる。
半拍の差が、守る側を殺す。
治安機関への届け出は出してある。
到着が遅れている。
その“遅れ”は、ヴェラの言い訳になる。
彼女は端末を閉じ、WEREWOLFの装甲内で淡々と言った。
「強制執行に移行」
言葉が冷たい。
しかし形式は整っている。
それが一番怖い。
施設内で、最初に異変に気づいたのは、義弘だった。
眠りかけていたわけではない。
ただ、耳が戦場の音を拾った。
床の微かな振動。
遠くの金属音。
そして、通信の半拍遅れ。
義弘は目を開き、膝の痛みを無視して立ち上がった。
「……来た」
会議室にいた玲音が瞬時に反応する。
「何が」
義弘は短く言う。
「夜明け前だ。言っただろ」
アリスが端末を開く。
遅延。
外周カメラが半拍ずれている。
外の動きが、妙に滑らかだ。
「……EAGLE」
アリスが吐き捨てるように言った。
「来てる。強襲、来てる!」
トミーが廊下から飛び込んでくる。耳がぴんと立っている。
「子ども起きた。泣きそう。どうすんだ」
「奥へ」
義弘が即答する。
「トミー、子どもと動けない患者の区画へ。
玲音、装甲起動。
アリス、ログ確保しながら施設内導線の節を押さえろ。
エージェント、予定通り。入口、階段、医療区画。順番を守れ。ヒーローになるな、通路を守れ」
義弘の声が、施設内の空気を一段締めた。
誰もが動く。
疲労で鈍くなっていた体が、命令で戻る。
玄関ホールの自動ドアが、ゆっくりと開き始めた。
外の暗さが、薄く室内へ流れ込む。
その闇の中から、重い足音が聞こえる。
WEREWOLF。
そして、ヴェラの声。
丁寧で、冷たい。
「安全確保のため、強制執行に移行します。
抵抗は、医療安全を毀損します。
——ご協力ください」
アリスが歯を食いしばる。
「協力? ふざけんな」
義弘が低く言う。
「来た以上、やるだけだ」
玲音のサムライスーツが、静かに起動音を鳴らした。
夜明け前の狼は、ついに噛みに来た。




