第205話 敷地内
OCM海外部門は、書類が遅いことを知っていた。
正確には、書類が遅いのではない。
書類が遅くなるように、相手が“守る”から遅いのだ。
療養施設の側は受領しても署名しない。
受領時刻を記録し、文面を真鍋へ回し、ミコトへ回し、監査の線で押し返す。
紙の戦いに紙で返してくる。
時間を稼ぐ。
海外部門は、その時間が致命的だと判断した。
権限テーブルの再構築が終わっていない。
オスカーが戻れば、形勢が変わる。
ならば、時間を買う。
アキレス腱を握って、時間を買う。
そして海外部門の時間の買い方は、いつだって同じだった。
実力行使。
療養施設の外周に、複数の影が落ちた。
WEREWOLFが、三機。
PANTHERが、二機。
EAGLEが、ひとつの空を支配するように旋回する。
行進ではない。
“進入”だ。
施設の敷地境界線を、迷いなく越える。
門の前の防護柵を、勝手に“施設内導線の一部”として扱う。
車両の静かな移動。
装甲の作動音。
通信の遅延。
誰かが息を呑む間もなく、現場は海外部門の速度で塗り替えられていった。
鳴海宗一のKOMAINU部隊が外周から寄せようとする。
だが境界線の向こうは“OCM敷地内”。
踏み込めば、政治的な負け筋が発生する。
鳴海の無線が短く唸る。
「……クソ」
真鍋の声が返る。冷たいが焦っている。
『鳴海さん、越えるな。越えた瞬間に“侵入者”はこっちになる。
市長、いま法務ラインで止めてる。だけど現場は……』
「現場は紙じゃ止まらねえ」
鳴海は歯を食いしばった。
そしてそれを、施設内にいる者たちも知っている。
施設内では、アリスがすでに動いていた。
シュヴァロフが低く駆動音を鳴らし、玄関ホールの影へ滑り込む。
アリスは端末を一瞬だけ閉じると、毒のある声で言った。
「来た。……来やがった」
玲音はサムライスーツのロックを確認しながら、短く答える。
「籠城戦だ」
「籠城って言葉、ほんと嫌い」
アリスは吐き捨てたが、目は笑っていない。
患者の部屋の扉が閉まる音が重なる。
動けない者たちは動けない。
機器音が、いつもより大きく聞こえる。
NECROテックエージェントたちが、施設内の節に配置される。
廊下の角。階段口。医療区画の前。
誰も“勝てる”顔はしていない。
それでも守る顔をしている。
アリスは一度だけ、施設の奥を振り返った。
涙目の子ども。唇を噛む年長患者。
大人のエージェント。
みんな、彼女を見ている。
アリスは舌打ちし、言う。
「……怖いなら、目を閉じろ。
でも耳は開けろ。私が“止まれ”って言ったら止まれ。勝手に英雄ごっこするな」
誰も笑わない。
でも誰も逃げない。
最初に突っ込んできたのは、PANTHERだった。
低い。速い。
施設外周の植え込みを裂き、非常口付近の通路へ滑り込む。
HOUNDのような透明さではない。
見えた時にはもう横腹を取っている、黒い矢だ。
シュヴァロフが即座に反応した。
床を蹴るような加速で突進し、PANTHERの進路へ身体を入れる。
金属と硬質樹脂がぶつかる。
火花。
衝撃。
壁の掲示板が剥がれ、紙が舞う。
アリスが歯を食いしばる。
「シュヴァロフ!」
シュヴァロフは押し負けない。
だが、勝てない。
PANTHERは“戦う”のではなく“通る”ために動いている。
シュヴァロフが受けに回った瞬間、PANTHERは姿勢を低くして、壁際の隙間へ滑るように抜けようとする。
施設内の幅と角度を知っている動きだ。
――勝てるように計画している。
その事実が、アリスの背筋を冷たくした。
アリスは端末を一瞬開き、フロア図の上へ赤い点を走らせる。
PANTHERの進路予測。
次の角。
次の節。
「そこ、来る! 角の前、塞げ!」
NECROテックエージェントが二人、廊下の節へ飛び出す。
しかし、その瞬間、上空のEAGLEが薄く旋回し、施設内の通信が“切断ではなく遅延”へ変わった。
声が、半拍遅れる。
情報が、半拍遅れる。
半拍の遅れは、戦場では致命傷になる。
エージェントの動きがわずかに遅れ、PANTHERはその隙間を正確に抜ける。
まるで、こちらの遅れを知っていたかのように。
「……遅延かよ」
アリスが吐き捨てる。
完全遮断ではない。
だから混乱する。
繋がっているつもりで繋がっていない。
人間の判断だけを鈍らせる嫌な電子戦だった。
WEREWOLFが、玄関ホールへ入ってきた。
歩幅は大きくない。
威圧のための歩幅ではなく、室内戦の歩幅だ。
足音は重いのに、無駄がない。
先頭のWEREWOLFの装甲に、見覚えのある意匠。
あの名刺の女だ。
ヴェラ・クラウス。
彼女は玄関の中央に立ち、まるで訓練場の教官のように周囲を見回した。
恐怖と緊張の匂いを嗅ぎ、そこから楽しげな静けさを作る胆力がある。
「……抵抗は記録しました」
日本語は完璧に近い。
丁寧なのに、情けがない。
「本作戦は資産管理です。
抵抗は医療安全を毀損します。施設の管理権限に従ってください」
アリスが一歩前へ出る。
「資産って言うなって言ってんだろ。耳ねえのか」
ヴェラは目を細めない。
表情が薄いまま、アリスを見る。
「用語は契約上、そうなっています。もちろん、患者さまの安全を――」
「それを盾に突っ込んでくる時点で嘘だ」
アリスが言い切った瞬間、WEREWOLFが動いた。
アリスに向かって“殴る”のではない。
アリスを“壁際へ追い込む”ための動きだ。
押し込み。
角度。
距離の詰め方。
相手の反射を誘う手。
アリスはNECROテックで応答する。
動きを先読みし、足元をずらし、反撃のラインを作る。
だがヴェラの動きは、“強い”のではなく“正しい”。
勝てるように作られた状況で、正しい手順で勝ちに来ている。
アリスの反撃が空振った瞬間、WEREWOLFの手がアリスの肩へ伸びた。
掴む。
押す。
壁へ。
そして“制圧”。
アリスは歯を食いしばり、肘で装甲の隙間を叩く。
だが隙間がない。
隙間がないように作ってある。
シュヴァロフが玄関へ戻ろうとする。
しかしPANTHERが横から割り込み、シュヴァロフの体を廊下の節に押し付ける。
火花が散る。
NECROテックエージェントが駆け込む。
だがWEREWOLF二機目が入ってきて、エージェントの動きを“止める”。
止める方法も、戦闘ではなく制圧だ。
関節を外さない。
骨を折らない。
動けないように角度を取る。
“傷を増やさずに抵抗を減らす”という、企業軍事の最適解。
誰かが叫ぶ。
「患者区画に行かせるな!」
それが遅延で半拍遅れ、PANTHERがその半拍で通路の先を取る。
施設が、少しずつ削られていく。
玲音がサムライスーツで前に出た。
装甲の可動音。
腰の刃。
背中の熱の匂い。
玲音の心拍が上がる。
群衆の視線に硬直する弱点があるはずだが、今は違う。
ここには兄弟姉妹がいる。
動かせない患者がいる。
見物の歓声ではなく、守るべき沈黙がある。
玲音は集中した。
だがヴェラは、その集中を崩す準備をしていた。
玲音が一歩踏み込んだ瞬間、EAGLEの遅延が一段強くなる。
玲音のHUDに表示される味方位置が、ほんの僅かだけズレる。
そのズレが、玲音の踏み込み角度を変える。
ヴェラはその角度を待っていた。
WEREWOLFが玲音の刃を受ける。受ける角度が完璧で、刃が滑る。
滑った刃は壁の手すりを削り、火花が散る。
その火花の瞬間、PANTHERが玲音の足元へ低く入り、玲音の重心を崩す。
玲音は堪える。
しかし堪えた瞬間、ヴェラのWEREWOLFが“制圧の手”を差し込んだ。
腕を取る。
肩を押す。
膝を固定する。
刃を持つ腕を、床へ向ける。
玲音の装甲が軋む。
玲音の歯が鳴る。
力負けではない。
負けるように作られた場所で、負けるように誘導されている。
玲音は理解する。
「……最初から、僕をここで倒す段取りか」
ヴェラは玲音を見下ろし、薄い表情のまま答えた。
「あなたは“橋”です。橋は落とします」
玲音の息が詰まる。
言葉が冷たすぎて、逆に理解が早い。
その瞬間、玲音の視界の端で、アリスが壁際に押さえ込まれているのが見えた。
シュヴァロフが廊下の節でPANTHERと噛み合ったまま動けない。
エージェントが制圧されている。
患者区画へ向けて、別のWEREWOLFが進む。
玲音の胸に、熱いものが湧く。
「……やらせるか」
だが言葉の次が続かない。
ヴェラの制圧が、完璧に近い。
玲音は動けない。
その時、玄関ホールの端で、誰かが無理やり息を吸った音がした。
そして、重い足音。
杖の音ではない。
刀の鞘が床を擦る音。
「……そこまでだ」
声はかすれていた。
だが芯がある。
義弘だった。
膝の固定具。
顔色の悪さ。
汗。
それでも、サムライ・スーツの一部を無理に着込んでいる。
無謀だ。
誰もが思った。
当人以外は。
ヴェラが顔を上げる。
一瞬、興味の色が差した。
「元市長」
義弘は返事をせず、玲音を押さえ込むヴェラのWEREWOLFへ斬りかかった。
刃が空を切る音。
足が止まりかける。
膝が悲鳴を上げる。
それでも義弘の一太刀は、“倒す”ためではなく“局面をずらす”ための太刀だった。
ヴェラの制圧の腕が一瞬だけほどける。
玲音の腕が自由になる。
「玲音、立て!」
義弘の声が割れる。
玲音が反射で身体を捻り、制圧の角度から抜ける。
抜けた瞬間、玲音は膝をついて息を吐いた。
義弘はその前に立ち、刃先を下げずに言った。
「ここは——俺たちの“病室”だ」
アリスが壁際から顔を上げる。
目が、驚きと怒りと、わずかな安堵で揺れる。
「……バカ」
それだけ言った。
言い方は酷いが、声が震えていない。
それがアリスの安堵だった。
ヴェラは義弘を見て、静かに言った。
「ここは私有地です。OCMの敷地内ですよ、元市長殿」
義弘は刃を構えたまま、挑発のように笑った。
「それがどうした。警察を呼ぶのか?」
その言葉が、玄関ホールの空気を変えた。
ここで義弘を本気で傷つければ、政治の絵がひっくり返る。
膝を故障している義弘が悪化したら、新開市のイメージが致命的になる。
元市長が“民間企業に病院同然の施設で襲われた”という絵は、海外部門にとって高すぎる。
ヴェラは一瞬で計算した。
そして、戦闘を止めた。
手を上げる。
WEREWOLFが一斉に動きを緩める。
PANTHERが低い位置で待機へ移る。
EAGLEの遅延が薄くなる。
「……作戦中断」
ヴェラの声は淡々としていた。悔しさも怒りもない。
「本件は資産管理。不要な負傷は目的外です」
義弘は刃を下げない。
「目的外? 人を資産って言いながらよく言う」
ヴェラは薄い笑みを浮かべる。
「言葉は契約です。あなたは物語ですね」
その一言に、義弘の眉が動く。
ヴェラは続ける。
「新開市は物語で動く。あなたはその中心にいた。
だから今日、あなたが出てきた時点で、我々はコスト計算を変えます」
義弘は唸るように言う。
「……お前、戦場を楽しむだけじゃないな」
「楽しいのは、緊張があるからです」
ヴェラの声が、ほんの僅かに柔らかくなる。
柔らかくなった分だけ、怖い。
「緊張がない作戦は、退屈です。
しかし退屈を避けるために目的を捨てるほど、私は未熟ではありません」
睨み合いになる。
玲音が立ち上がる。
アリスが壁際から離れる。
シュヴァロフがPANTHERの前で身体を低くし、まだ戦えると示す。
エージェントが立ち上がり、患者区画の扉の前に並ぶ。
海外部門のWEREWOLFたちも、隊列を崩さない。
攻撃の角度を失わない位置で、しかし撃たない。
床に落ちた紙が、風もないのに揺れていた。
その頃。
新開市の別の場所では、別の戦争が始まっていた。
元急進派が雇った“プロ”たちが、療養施設の騒乱を面白おかしく加工し始めていたのだ。
報道のプロは、カメラ位置を選ぶ。
騒乱のプロは、群衆の喉を詰まらせる。
市民活動のプロは、正義の言葉を借りる。
切り抜きが流れる。
《民間企業が“資産”と称し患者を強制移送!?》
《ゴーストが籠城! 無法地帯・新開市!》
《市長は何をしている?》
《元市長、敷地内で斬り込み!》
“事実”は短く切られ、意味が歪む。
そしてその歪んだ意味が、新開市の列に餌として投げ込まれる。
市庁舎のミコトの端末に、通知が雪崩れ込んだ。
全国報道入り。
トレンド入り。
抗議のテンプレ。
署名フォーム。
「選挙やり直し」列の再燃。
ミコトは歯を食いしばり、しかし目を逸らさなかった。
「……来た」
正義の手順は、今度は“映像の戦場”で試される。
療養施設前での睨み合いは、中断に過ぎない。
本当の戦いは、これから増える。
ヴェラは、WEREWOLFの装甲越しに、遠くの街のざわめきを聞いているように見えた。
そして、まるで次の作戦を待つ兵士のように、落ち着き払っていた。
「中断です、元市長殿。次は——」
言葉の続きを、彼女は口にしなかった。
言わなくても、誰もが理解していた。
次は、もっと厄介な形で来る。




