第百九十五話 解体手順
オールドユニオンは、苛立っていた。
その苛立ちは怒号にはならない。
机を叩く者もいない。
ただ、報告書の紙をめくる音と、端末に映る新開市市長選の動向一覧が、会議室の温度を少しずつ下げていた。
新開市市長選。
オールドユニオンにとっても、影響力を広げる好機だった。
だが盤面は、すでに埋まりつつある。
OCMは白縫玲音――バンシーを押し出した。
日本国は刀禰ミコトを支援し、複数の政治団体まで送り込んだ。
アライアンスの使節は、候補者である以上に争点そのものの“試験官”になっている。
今さらオールドユニオンが候補を立てたところで、十把一絡げの有象無象に紛れるだけだ。
「票を取りに行く段階は過ぎた」
会議卓の一角で、低い声が言った。
別の声が問う。
「では、何を取りに行く」
数秒の沈黙のあと、返答は短かった。
「手順だ」
会議室の視線が、ひとりの男に集まる。
監査記録官、アザド・バラニ。
彼は資料を閉じると、感情の色をほとんど動かさないまま立ち上がった。
「新開市の列を作る手順は、すでに知られています。模倣もされている。だが――」
そこで、わずかに指先で机を叩く。
「列に対処する手順は、まだ属人的です。記録はあっても、運用できる者は限られる」
新開市の異常性を、オールドユニオンはずっと監視してきた。
熱狂。導線。群衆。映え。炎上。
それらはもはや“現象”ではなく、扱いを誤ればインフラを損なうリスク群だ。
そして今度の公開質疑は、そのすべてを呼び込む。
候補者自身が列を作らなくとも、支持者が作る。
支持者が作らなくとも、背後勢力が作る。
「強く見せる」ための演出は、必ず群衆を呼ぶ。
アザドは淡々と言った。
「候補は立てない。代わりに、後始末の設計に参加する」
会議室の空気が決まる。
それは選挙戦ではなく、運用戦への方針転換だった。
義弘の前に、アザド・バラニが再び現れたのは、その日の午後だった。
場所は市庁舎でも病院でもなく、公開質疑の会場設営が見える仮設管理棟の脇。
資材の搬入車が行き交い、スタッフが走り、遠くでは柵の位置で言い争う声がしている。
新開市らしく、選挙の前日にすでに現場は戦場だ。
義弘は杖をついていた。
退任したばかりで、肩書きはもうない。
だが現場の人間たちは、まだ彼を“完全な部外者”としては扱えないでいる。
そこへ、アザドが迷いのない足取りでやって来た。
「お久しぶりです、義弘氏」
礼はある。
だが世間話をする顔ではない。
義弘はアザドを見て、すぐに本題を読む。
「監査記録官がわざわざ来る時は、ろくな知らせじゃないな」
「知らせというより、確認です」
「用件は?」
アザドは設営中の会場へ一度だけ視線を向けた。
仮設の照明、候補者席、誘導柵、一般導線。
いまはまだ空の場所。だが明日には、熱と声で埋まる。
「新開市の列を作る手順は、すでに知られています」
義弘は眉ひとつ動かさない。
「知ってる」
「模倣もされています」
「それも知ってる」
「では」
アザドは頷き、真正面から問うた。
「列に対処する手順を、どれだけの人間が知っていますか」
義弘は数秒黙った。
その問いの意味を考える時間は、ほとんど要らなかった。
アザドは続ける。
「今回の公開質疑で、互いの勢力が自分たちを強く見せるために列を作ったら、新開市はどうなります」
「炎上する」
義弘の返答は即答だった。
「では、その炎上を、あなたと同じように解決できる者は?」
義弘の視線が細くなる。
問いの先を、もう見ている顔だった。
列を流す。
列をほどく。
群衆の熱を使い切らせ、インフラから引き離し、事故を起こさずに終わらせる。
それは警備だけでは足りない。善意だけでも足りない。
導線、心理、演出、圧力、撤退のタイミング――全部が必要になる。
義弘自身がそれをやってきた。
そして、もうひとりいる。
気に食わない。
だが認めざるを得ない。
「……オスカー・ラインハルト」
アザドは、そこだけは少しだけ満足そうに目を伏せた。
「同意します」
義弘はアザドを睨むように見た。
「だから何だ。わざわざ俺に言いに来た理由は」
アザドは感情のない調子のまま、しかし内容だけは露骨だった。
「あなたはすでに退任した。公式権限はない。だが、現場の運用を読める。オスカー・ラインハルトも同様です。彼は候補者――玲音の送り手であり、同時に列の制御者でもある」
「分かってる」
「ならば、あなたが動くべきです」
義弘の声が少し低くなる。
「命令か?」
「提案です。正確には、共同利益の確認」
アザドは一歩も引かない。
監査記録官らしく、言葉を置く位置が正確だ。
「オールドユニオンは、今回の市長選で候補を擁立しません。ですが、公開質疑の運用崩壊は望まない。新開市が列で燃えれば、誰が勝っても不安定化する」
「で、お前らは“善意で”助けるってか」
「善意ではありません」
アザドはきっぱり言った。
「投資です」
義弘の口元がわずかに歪む。笑いではない。
「正直だな」
「あなたも、分かっていて聞いている」
その通りだった。
オールドユニオンは候補を取れない。
だから手順に食い込む。
危機対応の設計に参加し、「助けた側」として新開市に足場を作る。
いやらしい。
だが、筋は通っている。
そして今は、そのいやらしさを嫌っている余裕がない。
義弘は一度、会場へ目を向けた。
明日、ここに候補者が並ぶ。
使節、刀禰ミコト、玲音、その他の有象無象。
その背後には、OCM、日本国、各政治団体、野次馬、配信者、支持者、反対派。
列の種は、もうそこら中にある。
燃えた時、間に合わないと死人が出る。
そういう街だ。そういう時期だ。
義弘は杖を握り直した。
「協力は受ける」
アザドは黙って聞く。
「だが、街の手綱は渡さない」
「承知しています」
「承知してる顔には見えないな」
「監査記録官は、安心させる職ではありません」
義弘は鼻で笑った。
嫌なやつだ。だが、使えるやつでもある。
「……真鍋と鳴海に話を通す。会場導線の再設計、列の発生ポイントの潰し込み、退避ルートの二重化。あと、候補者陣営の“見せ場”作りを制限するルールが要る」
「支持者の隊列形成、持ち込み物、拡声、煙幕・ジャミング類似物の禁止も」
「お前、嬉しそうだな」
「仕事です」
アザドは一拍置き、最後のカードを切るように言った。
「オスカー・ラインハルトへの接触は、あなたが行ってください。彼は“誰の依頼か”で反応を変える」
義弘の眉が寄る。
「分かってるよ」
分かっている。嫌というほど。
オスカーは有能だ。だが、誰のために働くかは常に選ぶ。
NECROテックの兄弟姉妹の利益を最優先に据え、その上で盤面を読む。
玲音を送り込んだのも、その延長線上だ。
それでも、今回ばかりは利害が重なる。
玲音が列に潰されれば、オスカーの盤面も崩れる。
公開質疑が炎上で破綻すれば、使節もミコトも玲音も一括で価値を落とす。
新開市ごと燃える。
義弘はため息を飲み込んだ。
「退任翌日にやる仕事じゃねえな」
その時、少し遅れてトミーが現れた。耳を立てたウサギは、事情を半分聞いていた顔で言う。
「だから言ったろ。肩書きだけ先に辞めたって」
義弘が振り返る。
「聞いてたのか」
「半分な。十分だ」
トミーはアザドをじろりと見てから、義弘に言う。
「列の作り方だけ流行って、畳み方だけ職人芸。そりゃ燃える。で、燃える前に呼ぶ相手がオスカー。最悪だけど正解」
「褒めてんのかそれ」
「新開市では最上級だ」
アザドは二人のやり取りを眺め、淡々と補足した。
「オールドユニオン側からは、観測班と監査記録要員を出します。現場介入はしません。介入が必要な場合は、必ず事前通告を」
「“しない”で済むように設計する」
義弘が言うと、アザドは小さく頷いた。
「それが理想です」
理想。
この街でその言葉を口にするには、ずいぶん冷たい言い方だった。
だが、今はそれでいい。
アザドが去ったあと、義弘はすぐに端末を取り出した。
まず真鍋。
会場運営の再確認、候補者陣営の演出制限、列発生ポイントの監視増強。
次に鳴海宗一。
KOMAINU部隊の配置と退避導線の二重化、野次馬導線の分離、突発的隊列形成への即応。
そして最後に、オスカー・ラインハルト。
発信ボタンの上で、指が一瞬だけ止まる。
気に食わない。
だが、気に食うかどうかの話をしている場合ではない。
義弘は通話を繋いだ。
呼び出し音は短かった。
オスカーはすぐに出る。
『義弘市長――いえ、もう違いましたね。何でしょう』
声は穏やかだ。
こっちの用件を半分以上読んでいる時の声音だった。
義弘は前置きを切る。
「公開質疑で列が燃える。お前の知恵を借りる」
向こうで、数秒の沈黙。
それは驚きの沈黙ではなく、条件計算の沈黙だった。
やがて、オスカーは静かに答えた。
『……玲音を潰させないため、ですね』
「新開市を燃やさないためだ」
『同じことです、今回は』
義弘は歯を食いしばりたくなるのを抑えた。
そういう言い方をする男だ。
だが、間違ってもいない。
「今夜、会えるか」
『会えます。資料を持っていきます。列の生成予測と、解体優先順位を』
義弘は短く息を吐いた。
「助かる」
『借りにしておいてください。私は借りを忘れませんから』
通話が切れる。
トミーが横で顔をしかめた。
「うわ、気持ち悪い会話」
「言うな。自覚してる」
義弘は端末をしまい、設営中の会場をもう一度見た。
明日、ここは討論の場になる。
だが同時に、熱狂の発生源にもなる。
票を奪い合う前に、場を守らなければならない。
それが新開市の選挙だった。
義弘はもう市長ではない。
それでも、街が燃える前に動く手順だけは、まだ体に残っている。
そして今夜、その手順に、オールドユニオンの監査記録官と、オスカー・ラインハルトが入り込んでくる。
分かっていて手を組む。
誰の思惑より先に、街を燃やさないために。
公開質疑の前夜は、すでに始まっていた。




