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第百九十四話 静かな退任

 退任というものは、もっと騒がしいものだと思っていた。


 義弘は、新開市市議会に向かう車の窓から朝の街を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 通りには人がいる。配信している者もいる。店先では朝の仕込みの音がする。

 いつもの新開市だ。


 ただ、その視線の向きが少し違う。


 誰もが、次を見ている。

 公開質疑。候補者。使節。刀禰ミコト。バンシー。

 新しい中心が、誰になるのか。


 その熱の中で、現職市長の辞職願提出は、確かにニュースではあっても、街の熱狂の中心ではなかった。


 義弘はそれを不快とは思わなかった。

 むしろ、少しだけ肩が軽くなった。


 市議会の控室は、忙しくなかった。


 失礼な忙しさではない。

 礼はある。挨拶もある。

 だが全員、頭のどこか別の場所で別の時計を見ている。


「義弘市長、本日は……いえ、提出の件、承っております」


 事務局の職員が丁寧に頭を下げる。手には書類の束、耳には通話用の端末。

 その端末から漏れる声が、公開質疑の会場設営の話をしているのを、義弘は聞こえないふりをした。


「お疲れさまです」


 別の職員が言う。

 その直後に「すみません、候補者の陣営から確認が――」と走っていく。


 新開市らしい、と義弘は思った。


 大げさな花束も、勝手なファンファーレもない。

 ただ、実務だけが正しく動いている。


 真鍋が隣で書類を確認しながら、小さく言った。


「……静かですね」


 義弘は辞職願の最終欄に目を落とす。


「ありがたい」


 真鍋がちらりと見る。


「そうですか?」


「列で見送られるよりマシだ」


「それはそうですね」


 真鍋は即答した。

 ここだけは迷いがない。


 義弘は苦笑し、署名を入れる。

 ペン先が紙を滑る音は、驚くほど小さい。


 それで終わった。


 サムライ・ヒーローとして刀を抜いた時よりも、暴走ドローンと向き合った時よりも、アライアンスの使節を口説いた時よりも、ずっと小さな音で、義弘の市長としての手続きは一区切りついた。


 議会棟を出る頃には、退任のニュースはすでに速報欄のひとつになっていた。


 もちろん扱いは大きい。

 だが同時に流れているのは、


 【公開質疑の参加候補一覧(更新)】

 【アライアンス使節、質疑ルールへの追加要望】

 【刀禰ミコト陣営、政策チーム拡充】

 【白縫玲音陣営、現場運用案を公開へ】


 街は、もう次の戦いの準備に夢中だった。


 トミーが端末を覗き込み、耳をぴくりと動かす。ウサギのくせに、ニュースの匂いだけは妙に嗅ぎ分ける。


「退任速報、三番目だな」


「高い方だろ」


 義弘が言うと、トミーは肩をすくめた。


「新開市基準だと、だいぶ高い。普通なら“元市長の退任”は朝の天気の下」


 真鍋が疲れた顔のまま口を挟む。


「やめてください。ほんとうにそうなりかねない」


 義弘は少し笑った。


「……俺らしい終わり方だ」


 誰も否定しなかった。

 否定できない、ではなく、それがいちばん合っていると分かっていたからだ。


 見送りは、大げさなものにならなかった。


 市庁舎の裏手、資材搬入口の横。

 人目を避けるためというより、誰かが勝手に配信を始めない場所を選んだ結果だった。


 そこにいたのは、真鍋、トミー、鳴海宗一、そしてシュヴァロフ。

 アリスは療養施設から映像回線で繋がっている。画面の端に施設の白い壁が見え、時々子どもの声が混ざる。


 鳴海が先に口を開いた。


「市長職、ご苦労さまでした」


 簡潔で、重い一言だった。

 KOMAINU部隊を率いて泥の現場を踏んできた男の言葉は、短くても十分だった。


 義弘は頷く。


「お前らがいなかったら、とっくに街ごと詰んでた」


「それは市長の仕事です」


「いや、現場の仕事だ」


 鳴海はほんの少しだけ口元を動かした。笑ったのかどうか分からない程度に。


 トミーが前に出る。


「市長辞めても、相談先は変わらない気がするけどな」


 義弘が眉を上げる。


「やめろ。せっかく肩が軽くなったのに」


「肩書きだけ先に辞めたって話だ。面倒ごとはたぶん継続」


 毒舌だが、声はいつもより少し静かだった。


 真鍋はタブレットを閉じ、珍しく仕事の話をしなかった。

 数秒迷ってから、真っ直ぐ言う。


「……助かりました。何度も。市長としても、個人としても」


 義弘は返事に困った顔をして、頭をかく。


「そういうの、柄じゃないだろお前」


「今日は言います。次はまた言いません」


 真鍋の言い方があまりに真鍋で、義弘は笑ってしまった。


 回線の向こうでアリスが舌打ちまじりに言う。


『しんみりしてんじゃないよ。どうせまた呼ばれるくせに』


 口も悪い。いつも通りだ。


『でも……まあ。おつかれ』


 最後の二文字が少し小さくなった。

 背後で子どもたちが「アリス言えた!」と騒ぎ、アリスが『うるさい!』と怒鳴る。

 その騒がしさに、義弘は目を細めた。


「ありがとな」


 画面のアリスは、ふいっと顔を背ける。

 だが回線は切らない。


 シュヴァロフは何も言わず、義弘のそばに静かに立っていた。

 金属と樹脂の小さな駆動音だけが、いつもの距離感を作る。


 義弘はその姿を見て、少しだけ姿勢を正した。


「お前にも助けられた」


 シュヴァロフの光学部がわずかに明滅する。

 返答なのか、ただの制御反応なのかは分からない。

 分からなくていい気もした。


 派手な拍手も、花束も、記念撮影もない。

 だが義弘には、これで十分だった。


 熱烈に惜しまれるより、性に合っている。

 静かに、いつもの顔ぶれに見送られる方が。


 一方その頃、新開市は静かどころではなかった。


 公開質疑の場を目前にして、街のあちこちで“準備”の名を借りた戦争が始まっていた。


刀禰ミコト陣営


 日本国から複数の政治団体が支援に入った。

 政策ブレーン、メディア対応担当、スピーチ監修、危機管理広報。

 並んだ肩書きだけ見れば中央選挙の前線だ。


「“推しには優しくしたいけど”は削りましょう」


「やだ。そこ削ると私じゃない」


「しかし、インフラ保全性の説明の直後に入れると軽く見えます」


「軽く見えない言い方に直して」


 会議室でミコトが腕を組む。

 送り込まれたプロたちは手強いが、刀禰ミコト本人も簡単には型にはまらない。


 新開市の空気に乗るには、整えすぎると死ぬ。

 それを彼女は勘で知っていた。


玲音バンシー陣営


 オスカー率いるOCMは、静かに、徹底して盤面を整えていた。


 現場実績の整理。

 救護導線の運用記録。

 中立性・保全性・公平性に対する玲音の回答案。

 NECROテック当事者の視点を、感情論だけで終わらせない資料化。


 玲音は配信画面を前に、訓練を繰り返す。

 応援コメントが流れるテスト環境。わざと速度を上げる。わざと褒める文面を混ぜる。


「白縫さん、ここで一拍おきましょう。視線が固定されます」


「……はい」


「“ありがとうございます”の後に、論点へ戻る橋を作る。昨日は出来ていました」


 オスカーは少し離れた位置で見ている。

 口を出しすぎない。

 だが、出すべきところには正確に出す。


「玲音。君の強みは、当事者性だけではありません。君がそれを運用の言葉に翻訳できることです」


「はい」


「そこを失わないでください。歓声にも、敵意にも」


 玲音は頷く。

 その顔にまだ若さはある。だが、もう“顔だけの新顔”ではなかった。


その他の候補者たち


 有象無象も黙ってはいない。


 急ごしらえの想定問答集。

 政策を勉強した“ふり”の動画。

 ニュース番組への売り込み。

 匿名アカウントによる印象操作。

 互いの粗を探して切り抜きを投げ合う小競り合い。


 中には、公開質疑のルール解釈を巡って、まだ始まってもいない場に抗議文を出す候補までいた。


 新開市はそれら全部を飲み込み、燃料に変える。


 祭りと選挙と制度設計が、同時に進んでいた。


 夜遅く、公開質疑の会場予定地では、設営の灯りがまだ消えていなかった。


 仮設の照明。配線。導線整理。警備の動線確認。

 「列を作るな」と言いながら、どうせ列ができる前提で柵の位置を決める新開市の実務は、妙に熟れている。


 真鍋はそこで再び仕事モードに戻っていた。

 タブレットを片手に、スタッフへ指示を飛ばす。


「候補者席の間隔、もう少し空けて。カメラの抜きで煽り構図になる」

「使節側の入退場導線は一般導線と絶対に交差させない」

「質疑順は公開抽選、でも進行台本は事故前提で三案作る」


 トミーは脚立の上で会場を見回し、ぼそりと言う。


「退任した市長より、退任した市長の作った地獄の方が元気だな」


 義弘は少し離れた場所から会場を眺めていた。


 もう市長ではない。

 少なくとも肩書きの上では。


 だが、目の前で組み上がっていくのは、まぎれもなく自分が押し出した争点の舞台だった。

 中立性。インフラ・システムの保全性。公平性。

 新開市の市長に必要な条件を、誰も避けて通れない場。


 喧騒の中心から半歩退いた場所で、義弘は杖に手をかける。

 膝はまだ痛む。だが立っていられる。


「……始まるな」


 誰に言うでもなく漏らした声に、風が少しだけ答えた気がした。


 義弘は市長を降りた。

 だが、新開市の条件はまだ降りていない。


 静かな退場のあとで、街はうるさい開幕を迎えようとしていた。

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