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第百九十二話 推薦状

 体力が戻る、というのは、静かに寝ていられなくなるということでもある。


 義弘はまだ膝に不安を残していた。

 歩けば痛む。立ち続ければ熱を持つ。

 だが、寝込んでいた頃のような鈍い倦怠は薄れてきていた。


 そして新開市は、そういう回復を嗅ぎつけるのが妙に早い。


 「市長が面会できるらしい」

 「推薦の話を聞くかもしれない」

 「いま会えば、次の市長戦で有利になる」


 そんな噂が回った翌日から、面会希望が雪崩れ込んだ。


 市庁舎の調整室は、朝から地獄だった。


 真鍋の机には面会申請、推薦依頼、政策資料、動画メッセージ、支持者署名の束。

 紙だけでは足りず、端末には配信URLと“候補予定者”の自己紹介動画が並ぶ。


「……誰が『面会は短時間で』なんて書いたんですか」


 真鍋がこめかみを押さえたまま言う。


 鳴海宗一が無表情で答える。


「書いたのは私です。『短時間』の定義が新開市側で壊れました」


「壊したのは新開市側じゃなくて新開市そのものです」


 そこへトミーがひょいと顔を出した。

 耳をぴんと立て、一覧表を覗き込む。ウサギなのに嫌な監査役みたいな顔をしている。


「自称・新時代サムライ行政論者。アリスの意志を継ぐ市政。刀禰ミコト推し市民代表。真鍋さんを市長にする会の代理人。グランド・コンコルディア系政策研究家。列の経済効果コンサルタント……」


 一覧を指でなぞって、鼻を鳴らす。


「推薦を受けに来たんじゃなくて、街を食いに来た面子だな」


 真鍋が即座に返した。


「お前は黙って茶でも運べ」


「茶を運ぶと面接官扱いされる。俺は賢い」


 義弘はその会話を、調整室の奥の椅子に腰を下ろしたまま聞いていた。

 疲れを隠せるほど万全ではないが、もう病人の顔だけで済む段階でもない。


「順番に入れろ」


 短く言う。

 真鍋がほんの一瞬だけ顔をしかめたが、頷いた。


 止めても別の形で押しかける。

 なら、見るしかない。


 面会は、文字通り魑魅魍魎だった。


 自称・新時代サムライ行政論者は、開始三分で刀の流儀と税制改革を同じ熱量で語り始めた。

 アリスの意志を継ぐと言い張る男は、本人の許可を取っていないと確認された瞬間に真鍋の視線が冷えた。

 刀禰ミコト推しの市民代表は、刀禰ミコトの推薦に見せかけて、最後に自分への推薦依頼を滑り込ませた。

 「真鍋さんを市長にする会」の代理人は、真鍋本人の目の前で熱弁を振るい、当人に「帰ってください」と言われても笑顔を崩さなかった。

 グランド・コンコルディア系の理屈屋は、中立を語りながら文書の半分で外部介入の恒常化を提案した。

 列の経済効果コンサルタントは、列を“資産”と呼んだ時点でトミーの耳が露骨に寝た。


 面会が進むほど、調整室の空気は重くなる。


 義弘は最初、苛立っていた。

 次に呆れた。

 そして終盤には、別の意味で寒気を覚えていた。


 誰も、新開市を運営する話をしていない。


 人気。象徴性。発信力。

 正義。改革。秩序。成長。

 言葉はいくらでも出る。


 だが、


 中立性。

 インフラ優先。

 列を排除せず流す判断。

 治安機関との即応連携。

 アライアンス・日本国・OCMとの距離管理。

 街の特異性と異常性を、壊さず、燃やさず、回す技術。


 そこに踏み込める者が、ひとりもいない。


 最後の候補者が出て行ったあと、義弘は椅子にもたれたまま天井を見た。


「……駄目だ」


 真鍋が静かに問う。


「誰が、ですか」


 義弘は首を振った。


「誰が、じゃない。全員だ」


 トミーが机の端に座って足をぶらぶらさせる。行儀は悪いが、言うことは妙に芯を食う。


「人気投票の準備は満点。街の取扱説明書は全員未読」


 義弘は苦い顔のまま頷いた。


「説明書そのものが、そもそも無い」


 その言葉で、真鍋の目が止まった。

 書類の山ではなく、義弘の顔を見る。


 義弘は低く続けた。


「俺が降りる降りないの前に、街を回す基準が候補者に見えてない。このまま選挙やったら、誰が勝っても同じ穴だ」


 真鍋は反射的に反論しかけて、やめた。

 面会の議事メモを見れば、否定できない。


 中立は“雰囲気”では維持できない。

 新開市は、善意だけで回る街ではない。


 しばらく沈黙が落ちた。


 その沈黙を破ったのは、義弘だった。


「……なら逆に使う」


「何をです」


 真鍋が問う。

 義弘はゆっくりと視線を戻し、口にする。


「推薦だ」


 トミーが片耳を上げる。


「誰を」


 義弘は、いちばん嫌な名前を選ぶように答えた。


「アライアンスの使節」


 調整室の空気が、今度は別の意味で止まった。


「却下です」


 真鍋の返答は速かった。

 即断即決。珍しくないが、今回の速度は本気だった。


「炎上します。阿ったと言われます。市長選を国際問題化しかねません。というか既に半分そうです」


 トミーも珍しく真面目な顔をした。


「勝てるかどうかで言えば、たぶん低い。出馬すらしない可能性が高い。で、推薦した側だけ“アライアンスの犬”って見出しを食う」


 義弘は二人の反対を最後まで聞いた。

 どちらも正しい。全部分かっている顔で、頷く。


「だから効く」


 真鍋が眉をひそめる。


「……は?」


「誰も中立を本気で見てないから、いちばん嫌な顔を推薦する」


 義弘の声は静かだった。

 叫ばない。だからかえって重い。


「俺が欲しいのは、勝てる候補じゃない。新開市に必要な要素を、候補者全員に突きつけることだ」


 真鍋の目が、わずかに見開かれる。

 義弘は続ける。


「使節が普段うるさく言うだろ。中立性、インフラ・システムの保全性、公平性。あれを“推薦理由”として表に出す。俺が支持する」


「……争点にするために」


 真鍋が、義弘の意図を言語化する。

 義弘は頷いた。


「そうだ。使節が出るかどうかは二の次だ。俺が推薦した時点で、他の候補は無視できなくなる。『人気あります』『正義です』だけじゃ通らなくなる」


 トミーが腕を組んだまま鼻を鳴らす。


「推薦状で殴る気か。性格悪くなったな、市長」


「最初からだ」


 義弘は即答した。


 真鍋はまだ渋い顔のままだった。

 だが反対の角度が変わっている。案そのものではなく、実行時の損害を計算し始めた顔だ。


「問題は使節本人です。出馬しない可能性が高いどころか、“我々”の規範に触れると判断されれば、その場で切ります」


「分かってる」


「さらに、義弘さんの推薦が結果的にアライアンスの面子を潰す危険があります」


「それも分かってる」


「分かった上でやるんですね」


 真鍋の問いに、義弘は一拍おいて答えた。


「将来の新開市の中立を守るための必要経費だ」


 その言い方に、真鍋は短く息を吐いた。

 止められない時の息だ。


「……分かりました。説得の文面は作ります。失礼のないやつを」


「失礼のない内容で失礼な依頼になるけどな」


 トミーが言う。

 義弘は苦笑した。


「それはそうだ」


 使節との会談は、その日の夕方に組まれた。


 場所はアライアンスの管理区画に近い、簡素な会議室。

 飾り気はない。余計なものもない。

 新開市の喧騒から半歩ずらしたような空間だった。


 義弘は杖をついて入った。

 真鍋が同行する。

 トミーもいる。なぜか通された。通す側ももう慣れている。


 使節は既に座っていた。

 いつもの温度の薄い顔。礼儀はある。遠慮はない。


「義弘市長。中立条件草案の件かと思いましたが」


「半分はそれだ」


 義弘は正面に座り、杖を脇へ立てかける。

 膝がわずかに疼いたが、顔には出さない。


「もう半分は、市長選の話だ」


 使節の目がわずかに細くなる。

 警戒の合図だ。


「……聞きましょう」


 義弘は回りくどく言わなかった。


「俺は、あなたを新開市長候補として推薦したい」


 会議室の空気が静まる。

 真鍋でさえ、この瞬間だけは呼吸を浅くした。


 使節は数秒、何も言わなかった。

 驚いてはいない。計算している。


「理由を」


「勝たせたいからじゃない」


 義弘は先にそこを切った。


「新開市に必要な基準を、候補者全員に見せるためだ。中立性、インフラ・システム保全性、公平性。あなたがいつも言うそれを、推薦理由として表に出したい」


 使節は即座に返した。


「“我々”の名を、市長選の争点生成に使うと」


「そうだ」


「中立性の観点から、極めて問題がある提案です」


「分かってる」


「さらに、私が出馬しない場合、推薦自体がアライアンスの面子を傷つける可能性がある」


「分かってる」


「出馬した場合でも、義弘市長がアライアンスに阿ったと見なされるのは確実です」


「それも分かってる」


 使節は、そこで初めて小さく息を吐いた。

 珍しい反応だった。


「ではなぜ、そこまでして」


 義弘の返答は、静かだった。


「今ここで争点化しない方が、あとで高くつく」


 真鍋が視線を上げる。

 義弘は使節を見たまま続ける。


「候補者を何人も見た。人気は語る。正義も語る。発信力も語る。だが誰も、この街の中立運用を“技術”として理解してない」


 拳は握らない。

 声も荒げない。

 そのぶん言葉が刺さる。


「俺が降りた後にそこを外したら、新開市はまた誰かの盤面になる。日本国でも、OCMでも、導線屋でもだ。……あなたらにとっても都合が悪いだろ」


 使節は否定しない。

 義弘はさらに一歩踏み込む。


「俺が叩かれるのは構わん。阿ったと呼ばれてもいい。だが次の市長選で、中立とインフラ保全を避けて通れない形にしたい」


 トミーが横から小さく差す。


「要するに、取扱説明書を配る前に試験範囲を発表したいってことだ」


 真鍋が睨む。


「雑だが、今回は合ってる」


 使節はトミーの言葉を無視し、義弘へ視線を戻した。


「確認します。あなたは“私を当選させたい”のではなく、“私の存在を基準として使いたい”のですね」


「そうだ」


「率直ですね」


「取り繕っても、あなたにはバレる」


 会議室に、短い沈黙。


 使節は指先を組み、しばらく考えた。

 “我々”の規範。

 個人としての裁量。

 面子。

 新開市の将来的な中立性。

 義弘の真意。

 全部を秤にかける顔だ。


 やがて、使節は口を開いた。


「“我々”として、いまここで回答はできません」


 真鍋の肩がわずかに下がる。想定内。

 だが使節は続けた。


「ただし、個人として検討する余地はあります」


 義弘の目が細くなる。

 拒絶ではない。


「条件があります」


「言ってくれ」


 使節は一本ずつ指を折るように述べた。


「第一に、中立条件草案を公開前提で整えること。候補者全員が参照できる形にする」


 真鍋が即座にメモを取る。

 そこは既に想定していた。


「第二に、推薦の文言に制約を設ける。特定政策の約束、アライアンスによる支援の示唆、勝利を目的とする表現は禁止」


「争点提示に限る、ってことだな」


「そうです」


「第三に」


 使節は義弘をまっすぐ見た。


「候補者への公開質疑の場を設けること。私個人が出るか否かに関わらず、中立性・インフラ保全性・公平性について、候補者が答える場です」


 真鍋が顔を上げた。

 それは半ば査問だ。

 だが、いまの新開市には必要な査問でもある。


 義弘は数秒考え、頷いた。


「受ける」


 使節はさらに念を押す。


「なお、私が最終的に推薦受諾を見送る可能性は残ります」


「構わん。その場合でも、条件を表に出せれば意味はある」


 使節の口角が、ごくわずかに動いた。

 笑ったのかどうか分からない程度に。


「……理解しました。個人として、条件付きで保留します」


 保留。

 だが前進だ。


 義弘は椅子の背にもたれず、使節に向かって小さく頭を下げた。


「助かる」


「まだ助けてはいません」


「それでもだ」


 使節は立ち上がる。


「中立条件草案の修正版と、公開質疑の枠組み案を。早急に」


 真鍋が即座に応じる。


「今夜中に第一次案を送ります」


 トミーがぼそりと言った。


「また徹夜だな」


「お前が言うな」


 真鍋の返しは反射だった。

 だが少しだけ、調整室にいた時より顔色が戻っている。


 会談を終えて会議室を出ると、新開市の夜風が少しだけ生ぬるかった。


 遠くでまた歓声が上がっている。

 誰かが勝手に候補を名乗ったのか、バンシーの動画が伸びたのか、刀禰ミコトの配信で何かあったのか。理由はひとつではないだろう。


 義弘は杖をつきながら歩く。

 膝は痛む。だが足取りは止まらない。


 真鍋が横で確認する。


「本当にやるんですね。公開質疑まで」


「やる」


「地獄になりますよ」


「もう地獄だ」


 即答だった。


 トミーが前を跳ねるように歩きながら、肩越しに振り返る。


「推薦状で街の試験範囲を決める市長、か。わりと性格悪くて好きだぞ」


 義弘は苦笑した。


「褒めてるのか、それ」


「この街じゃ最大級の賛辞だ」


 夜の新開市は、相変わらず勝手に熱を上げている。

 市長選はまだ始まっていない。

 だが、義弘はようやく一つ、始めたいものを始めた。


 誰を勝たせるかではない。

 何を答えられなければ、この街の市長になれないのか。


 その基準を、表に引きずり出すための推薦状だった。

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