第十八話 供給と血縁
“形式的”。
その言葉ほど、刃のように研がれたものはない。
津田グループ本社の最上階、会議室の窓は新開市の中枢リングの方角を切り取っていた。建設途中の円環が、霞の向こうに影として浮かぶ。
そこに、義弘の名も、アリスの名も、街の騒ぎも――全部つながっていると、誰もが知っていた。
机の上には一枚の文書。
国際連合、通称“オールド・ユニオン”。
公用の文面。丁寧な敬語。国家間の礼儀。
しかし、内容は明快だった。
バイオ・オイルの安定供給を保証せよ。
保証できない場合は、供給統制に協力せよ。
遅延、減産、輸送不全が発生した場合の責任所在を明記せよ。
要するに――首根っこを掴みにきている。
義弘は椅子に深く座り、文書を指で弾いた。
紙が鳴る。
「形式的、ねえ」
乾いた笑いが漏れた。
笑いと言うより、呆れの吐息だった。
会議室の扉が開く。
入ってきたのは、スーツの男だった。
津田 恒一郎。
四十五。義弘の息子。
父と同じ“津田”の顔をしているのに、目の焦点がまるで違う。父は相手の弱点を見た。息子は数字の欠損を見た。
彼は挨拶もしない。
それが忙しさの証明で、それが怒りの証明だった。
「父さん」
呼び方は家族だ。声は会議だ。
「これ、見た?」
義弘は文書を指で弾いたまま言った。
「見た。読んだ。味わった。…で?」
「“で?”じゃない」
一郎の声が一段硬くなる。
「供給を保証しろって言ってるんだ。保証できなければ統制に協力しろって。
“形式的”って書いてあるけど、これは脅迫だ。――いつものことだけどな」
義弘は肩をすくめた。
「脅迫は脅迫だ。形式的な皮を被った、丁寧な暴力」
一郎は席に着かず、立ったまま机越しに父を見た。
「暴力って言葉で濁すな。
止まったら、死ぬ。
俺はその“死ぬ”の責任を引き受けてる」
義弘は視線を上げた。
息子の目の下の薄い影が見える。
眠れていないのではない。“眠らない”顔だ。
「お前が引き受けてるのは責任か?」
「そうだ」
即答。
迷いがない。だから怖い。
「責任だ。供給の責任。契約の責任。輸送の責任。
…父さんの“遊び”が、それを揺らす」
義弘の指が止まった。
“遊び”。
義弘が投げ出したものの名を、息子はその言葉で呼ぶ。
「遊び?」
「そうだろ」
一郎は淡々と言った。淡々としているから攻撃だ。
「父さんは今、都市でサムライの真似事をしてる。
配信が燃える。世論が荒れる。監査が入る。封鎖が強まる。
その結果、輸送の許可が遅れる。保険料率が跳ねる。契約の更新が止まる。
――供給が揺らぐ」
義弘は口角を僅かに上げた。笑いではない。
「それは、俺のせいじゃなくて“世論”のせいだ」
「世論のせいにするな」
一郎は初めて声を荒げた。
荒げたのは怒りより、疲労だった。
「世論が動くのは、父さんが表に出るからだ。
父さんが“物語”になるからだ。
それが嫌なら、表に出るな」
義弘は目を細めた。
「お前が言うか」
一郎の眉が動く。
「……何を」
義弘は椅子の背に体重を預け、窓の外を見た。
中枢リングの影を見ながら言う。
「俺がどれだけの夜を、会社のために売ったと思う。
脅迫じみた会合に、何回座った。
中立の顔をした連中に、何回、舌を噛み切りそうになった。
…お前が今座ってる席は、俺が血で買った席だ」
一郎は即座に返す。ここで躊躇しない。
「分かってる」
義弘の眉が僅かに動いた。
「分かってる。父さんが守ったのは事実だ。
だからこそ――」
一郎は言葉を探す。
探して、刃にする。
「だからこそ、父さんが今それを燃やすのが許せない」
義弘の胸の奥が、焼ける。
昔の焼け方だ。
世間に売国扱いされた時の焼け方。
家族が視線を逸らした朝の焼け方。
「燃やしてない」
「燃えるんだよ。父さんが動くと」
一郎の声が低くなる。
低いまま、正しさが増す。
「オールド・ユニオンが言ってるのは、供給の“保証”だ。
保証の裏にあるのは、統制だ。
統制の裏にあるのは、介入だ。
介入の裏にあるのは、武力だ」
義弘は目を伏せた。
否定できない。否定できないから苛立つ。
一郎は続ける。
「父さんが“自由”に動けば動くほど、彼らは正義の顔をしやすくなる。
『不安定だ』『危険だ』『管理すべきだ』って。
父さんは、相手に口実を与える」
義弘は、ゆっくりと息を吐いた。
肺の奥が痛む。前の戦いの損傷がまだ残っている。
「…俺は、守ってる」
「何を」
「街を。…人を」
一郎の目が細くなる。
「父さんが守ってるのは、父さんの名誉だ」
その言葉が、会議室の空気を切った。
義弘は笑わなかった。
怒鳴らなかった。
その代わり、しばらく黙った。
黙り方が、政治屋の黙りだった。
言い返せば勝てる。
勝っても、何も救えない。
一郎はその沈黙を“肯定”と受け取ったらしい。
視線が少しだけ柔らかくなる。柔らかくなった分だけ痛い。
「父さん。俺は父さんを嫌いじゃない。
…でも、俺は供給を止められない」
義弘は目を上げた。
息子の口元が固い。
固いのは父譲りだ。
「止めるな」
義弘の声が低い。
「止めるな。
供給は止められない。止めたら死ぬ。
だから――狙われる」
一郎が頷く。
「そうだ。だから、俺たちは“保証”しなきゃいけない」
義弘は皮肉を浮かべた。
「保証ね。
保証って言葉は、首輪の別名だ」
一郎は、初めて視線を逸らした。
逸らした先に、窓の外の中枢リングがある。
「首輪でもいい」
一郎は言った。
声が小さくなる。
小さくなるのは弱さだ。
「首輪でもいいから、命をつなぐ」
義弘はその言葉に、怒ることができなかった。
怒る資格がないわけではない。
怒ることができないのは――息子が正しいからだ。
義弘は椅子に背を預けたまま、言った。
「…お前は俺より大人になったな」
一郎は首を振る。
「大人じゃない。逃げられないだけだ」
それが息子の告白だった。
義弘の胸が、また焼ける。
同じ時間、新開市では別の“首輪”が締まっていた。
街は封鎖線で切り分けられ、監査モードの表示があらゆる画面にちらつく。
それでも人々は、画面から目を離せない。
飢えている。
娯楽に。英雄譚に。炎上に。
そして、その飢えは市場だ。
市場は、空席を嫌う。
OCMが悪役同然になったその席に、光る看板が差し込まれる。
――HARBORLIGHTコンソーシアム。
ハーバーライト。
港の灯り。救いの灯り。
そう名乗るには、少しだけ眩しすぎる。
広場の大型スクリーンに、短い広告が流れた。
「都市の安全と娯楽を、両立させる」
次の瞬間、広告は消えた。
代わりに、叫び声が上がる。
「うわっ、何だあれ!」
「止まれ! 止まれって!」
「子どもが――!」
路地から飛び出してきたのは、作業用ドロイドだった。
普段は荷物を運び、路面を掃除し、警備の真似事をする、馴染みの機体。
――だった。
今は違う。
センサーが暴走したように左右へ振れ、腕が無差別に伸びる。
運搬用の爪が、人の肩を掠める。
「暴走だ!」
誰かが叫ぶ。
暴走――その言葉は、今の新開市で一番分かりやすい恐怖だ。
ドローンやドロイドは、安い。大量。
一台が狂えば、十台が狂う。
そして、狂うタイミングはなぜか“映える”場所だった。
人が集まる広場。
照明がある。高所がある。観客がいる。
――カメラが入りやすい。
空を見上げると、複数のカメラドローンが既に“最適位置”にいた。
不自然なほどに。
誰かが呟く。
「…また、撮ってる」
撮影=戦場。
義弘が逆算し始めた世界が、街の空に広がっている。
暴走は一台では終わらない。
別の角から、警備用のドロイドが走り出す。
その後ろから、点検用の小型ドローン群が旋回し、群衆の頭上で危険な高度を取る。
「OCMの機体だ!」
「またOCMかよ!」
「いい加減にしろ!」
世論は単純だ。
単純だから操れる。
そして操る側は、複数いる。
ハーバーライトの中核。
配信を設計するARCADIA MEDIA。
暴走のトリガを仕込むBASILISK SYSTEMS。
鎮圧の英雄を用意するGOLIATH RESPONSE。
責任転嫁の文書を整えるLANTERN LEGAL。
役割分担が滑らかすぎて、もはや産業だった。
その産業の舞台に、アリスが引きずり込まれる。
灰色のフード。セーラー服の上にパーカー。
口元を覆うスカーフ。
小学生に見える背丈。
――だが今、彼女の上にはOCMのサムライ・スーツの外装が被さっている。
広告のような塗装。企業の刻印。
世間が勝手に貼り付けたラベル。
「来た! あの子だ!」
「ゴーストじゃなくて、ヒーローになったんだろ?」
「やっべ、可愛い」
「いや中身メタボのオタクだって」
「どっちでもいい、倒せ!」
好き勝手な声が飛ぶ。
声が飛ぶ場所には、必ずカメラがいる。
アリスは歯を噛んだ。
「……うるさい」
首輪回線がちらつく。
――《OCM指令:鎮圧に協力せよ》
――《監査:市民被害を抑えよ》
正しさが二重に締まる。
どちらも彼女を守らない。
どちらも彼女を使う。
それでも、暴走ドロイドが子どもに向かって腕を伸ばした瞬間、アリスの身体が先に動いた。
「バンダースナッチ」
足元から影が滲む。
群体が息をする。
ハウンドが走り、シェルが壁になり、スワームが空に薄い霧を撒く。
ドロイドの腕が子どもへ伸びるより早く、シェルが割り込んだ。
硬い音。
子どもは尻餅をつき、泣きそうな顔で見上げる。
アリスは怒鳴りそうになって止めた。
怒鳴れば撮られる。
撮られれば物語になる。
物語になれば首輪が固くなる。
だから、低い声で言った。
「下がれ。…走るな。転ぶ」
自分でも笑いそうになる。
まるで現場の大人だ。
“ヒーロー”の言い方だ。
子どもは頷き、親が引きずるように連れて行く。
群衆が歓声を上げた。
歓声の質が、救助ではなく“見世物”だ。
「かっけぇ!」
「今の壁ドロイド何!?」
「やべ、配信回ってる!」
回っている。
回っているから危ない。
暴走ドロイドが次の動きを見せる。
不自然に“攻撃的”だ。
作業用のはずなのに、関節の制御が戦闘寄りに寄せられている。
仕込み。
アリスの背筋が冷える。
その瞬間、別の“英雄”が現れた。
派手なサムライ・スーツ。
光沢。ロゴ。広告。
複数人のチーム。
背後にスポンサーのドローンがついている。
「下がってろ、OCMの少女!」
先頭のヒーローが叫ぶ。
言葉がすでに台本だ。
「ここは俺たち“が”鎮圧する!」
歓声が倍になる。
カメラが寄る。
カメラの寄り方が、戦闘の寄り方ではない。広告の寄り方だ。
アリスは吐き捨てたくなる言葉を飲み込み、バンダースナッチを動かす。
彼女がしたいのは“鎮圧の絵”ではない。
被害ゼロだ。救助だ。撤収だ。
だが舞台は、殴り合いを求める。
ヒーロー達が派手に突っ込む。
暴走ドロイドが倒れる。
倒れる度に火花が散り、歓声が上がる。
そして次の暴走機体が、まるで順番待ちのように現れる。
マッチポンプ。
燃料は恐怖。
火種は暴走。
風は配信。
アリスは歯を噛んだ。
「……こっちは、救助してんだよ」
その言葉さえ、マイクが拾う。
拾われた言葉は、後で編集される。
“ヒーローらしい台詞”として。
最悪だ。
封鎖線の端に、無彩色が滑るように現れた。
広告も派手さもない、治安装備の無骨さ。
KMU-02 “KOMAINU(狛犬)”。
鳴海 宗一。
バイザー越しの視線が、アリスでもヒーローでもなく、群衆の導線を追う。
「下げろ。そこは落ちる」
短い指示。
現場の言葉。
部下が動き、封鎖線が引かれる。
正しい封鎖。正しい誘導。
正しいからこそ、観衆が押し返してくる。見たがる。
鳴海は配信者の腕を掴み、物理的に下げた。
乱暴ではない。事故を止める手つきだ。
「撮ってる暇があるなら、そこを退け」
配信者が喚く。「表現の自由だ!」
鳴海は返さない。自由の議論は後だ。事故は今だ。
しかし封鎖線の“正しさ”も利用される。
暴走ドロイドが、導線の狭い場所へ誘導されるように動く。
まるで、事故を起こすために。
鳴海の口元が固くなる。
「……台本か」
アリスはその言葉に、背筋が冷える。
台本。
撮影=戦場。
義弘の言っていた通りだ。
その時、スクリーンに一瞬だけロゴが映った。
ハーバーライト。
港の灯り。救いの灯り。
そして次の瞬間、ヒーローチームのスポンサー名が読み上げられる。
広告が、鎮圧の歓声の中に紛れる。
アリスの胸がむかつくほど冷える。
救助が、商品になっていく。
バンダースナッチのハウンドが一体、暴走ドロイドの腕を受けて転がった。
ライトが消える。息が止まる。
アリスは反射で手を伸ばしそうになって止めた。
止めた瞬間に、心が痛む。
「……っ」
毒が出ない。
出す余裕がない。
代わりに、低く言った。
「あとで直す。…絶対」
その言葉を、彼女自身が一番信じた。
夜。
津田グループ本社の会議室。
義弘は窓の外を見ていた。
中枢リングの影が、街の騒ぎと同じ色に見える。
一郎は席に着いた。
疲れたように、しかし逃げないように。
「父さん。オールド・ユニオンは、次は“供給監視団”を寄越す」
義弘は、笑わないまま言った。
「形式的な照会の次は、形式的な監視だ。
そして形式的な統制。
…最後に形式的な介入」
一郎は頷いた。
頷くしかない。
「だから、父さん。もう表に出るな」
義弘の指が窓枠を叩いた。
軽く。怒りではない。癖だ。
「…言うな」
「言う」
一郎の声が強くなる。
強くなるのは、息子も父に似ている。
「父さんが守ったものを、父さんが燃やすな」
義弘は目を閉じた。
言い返せない一拍が来る。
言い返せば勝てる。
勝っても供給は守れない。
その一拍が、親子の確執の再燃だった。
火種は消えていなかった。
消していないのは義弘も一郎も同じだ。
義弘は目を開けて言った。
「供給は止められない。止めたら死ぬ。
だから――狙われる」
一郎が低く言う。
「だから、保証する」
義弘は吐息で笑った。
「保証って言葉は首輪の別名だ」
一郎は、視線を逸らさずに言った。
「首輪でもいい。命をつなぐ」
義弘の胸が焼ける。
息子の正しさが、痛い。
同じ時刻、新開市のスクリーンでは、派手な殴り合いだけが切り取られて流れていた。
“OCMの少女ヒーロー”が、バンダースナッチを従え、暴走を止める。
“新しいスポンサーのヒーロー”が、街を救う。
救助の静かな手つきは映らない。
怖さの原因は語られない。
映える瞬間だけが残る。
そして画面の隅に、またハーバーライトのロゴが一瞬だけ映る。
空いた席に、別の者が座ろうとしている。
その席は、血と油で滑る。
アリスの視界に、首輪回線の通知が浮かんだ。
《権限再移管:進行中(元所属)》
アリスは舌打ちした。
「ヒーローなんて、呼ぶな」
その声も、どこかで拾われる。
拾われて編集されて、商品になる。
義弘は窓の外を見たまま呟いた。
「……戦場は、街だけじゃないな」
供給も。
家族も。
配信も。
全部が戦場だ。




