第百七十七話 空白のゴースト
病院の天井は、白すぎた。
白は清潔の色で、同時に空白の色だった。
義弘はその空白の下で、呼吸だけをしていた。
過労。
心身の衰弱。
膝の骨折。
“戦って負けた”というより、“削られ尽くした”結果だった。
ベッドの横には、シュヴァロフがいた。
無言で、椅子の位置を整える。毛布の端を揃える。水のコップを義弘の利き手側に寄せる。
家事というより、支援。生活そのものの補助。
白い毛のウサギ――トミーは、ベッド柵の上で耳を揺らした。
「映えた結果がこれか」
義弘は返せない。返す力がない。
返せない言葉が、病室に沈む。
トミーは続ける。
「死なないだけで上出来だ。……でも街は死ぬかもな」
シュヴァロフが一度だけ顔を上げた。
顔を上げても、言葉は出ない。言葉が出ない分だけ、病室の静けさが重くなる。
空白は、同時に二つ生まれていた。
義弘が倒れた。
そしてアリスが消えた。
療養施設から行方不明。
監視がいたのにいない。首輪があるのにいない。
さらにもう一つ――義弘のサムライスーツも所在不明だった。
“消えた”という事実は、それだけで火種になる。
逃亡だと決めたい者がいる。
救出だと言いたい者がいる。
何かが始まったと気づいている者もいる。
真鍋は、判断を急がなかった。
急いだ判断はいつも、誰かの“得”になるからだ。
真鍋がやったのは、空白を埋めることだった。
制度設計の初試験は、望んだタイミングでは来ない。
“市長の不在”。
真鍋は市長相談役としての経験を持つ。
その経験を、血の気のない手続きに変える。
「行政の暫定運用を回す。治安配置は鳴海。外様とOCM運用枠は範囲指定。アライアンス窓口は一本化」
短い命令が飛ぶ。
短い命令は燃えない。燃えない命令だけが現場を救うことがある。
鳴海宗一が頷く。
息子の恒一郎は、政治の席には出ない。彼は義弘の会社の社長だ。
だから支えるのは“現場の外側”だ。資金と雇用と物流。街の胃袋。
「市の中立が崩れれば、街の経済が死ぬ」
恒一郎の言葉は、政治ではなく現実だった。
現実の言葉は強い。強いが、映えない。
映えない方がいい。
今は、映えないことが救いになる。
だが映えは止まらない。
速報が飛ぶ。
――市長、重傷。
――暗殺未遂は本物だった。
同時に、錆の編集動画がまだ回っている。
“神回”。
霧の中で同時に抜かれる刀。
翼の影。
格好良い義弘。
格好良い敗北。
“重傷”と“神回”が同居して、世論が混線する。
「かわいそう」
「でも格好良い」
「市長、主人公すぎる」
「次はある?」
次。
その言葉が一番危ない。
市議会と日本国急進派は、それを突く。
「やはり健康上問題がある」
「職務遂行不能では?」
「市長は辞任すべきでは?」
辞任。
その単語が、制度として動き始める。
義弘がいない間に、“辞めさせる手続き”が現実味を帯びる。
真鍋は歯を食いしばった。
義弘が辞めたい本音を知っているからこそ、辞めさせられる形は許せない。
辞めるなら、辞め方がある。
辞めさせられるのは、属する導線になる。
オスカーの計算も変わった。
義弘がいないと街が燃える。
街が燃えれば、正規化計画も燃える。
燃えれば、兄弟姉妹の得が削れる。
それだけは許せない。
オスカーは表向きに“借り”を返す形を取った。
交換条件なしで、アリスの処遇改善を前へ動かす。
監視の見直し。
拘束条件の緩和。
――ただし、今アリスは行方不明だ。
制度の改善が、本人不在で進む皮肉。
オスカーは穏やかに言う。
「市長が倒れたままでは、全てが不利だ」
その言葉は義弘への心配ではない。
計算だ。
計算が優しい顔をすると、怖い。
怖いのは、導線屋の間で流れ始めた噂だった。
“市長の生霊”。
市長は倒れた。
でも映像では格好良く立っていた。
なら生霊が動ける――そういう馬鹿げた理屈が、導線屋の間では“映える”。
噂は勝手に育つ。
「市長の生霊が来る」
「恥かかせた奴をボコボコにして捕まえる」
「幽霊だ」
馬鹿げている。
だが導線屋の世界では、馬鹿げたものほど力を持つ。
そして――噂は“事実っぽいもの”を伴い始めた。
数人の導線屋が、サムライスーツの人物に制圧され、治安機関に引き渡された。
殺されない。
ただ、殴られて、押さえ込まれて、捕まる。
“捕まえるために殴る”という冷たい優しさ。
それが噂に肉をつけた。
生霊は本物だ、と。
錆はそれを、端末の画面で見ていた。
“台無し”を作ったアリスの目。
それがまだ瞼の裏に残っている。
だから錆は、余計に慎重になっていた。
KOTETUを、返却する。
OCM海外部門と日本国急進派に。
スポンサーの手元へ戻す。手元へ戻せば、責任線が薄くなる。
薄い責任線は、次の舞台に必要だ。
錆は倉庫の外れを歩く。走らない。走ると映えない。
端末を見ても、顔は動かない。
その前に――立っている影があった。
義弘のサムライスーツ。
義弘モデルの強化装甲。
派手さはない。だが“守る”形が残っている。
錆の喉が、初めて乾いた。
「……まさか」
錆は半歩だけ下がる。
下がった瞬間、足元の影が長く伸びた。
街灯の角度が、最も不気味な枠を作る。
「……幽霊…!?」
サムライスーツの人物は、ゆっくりと首を傾けた。
錆のように、画角を整える動きではない。
相手そのものを見る動き。
そして、その声が出た。
低い。冷たい。
でも“人”の声だ。
「そう、私が“ゴースト”だ」
錆の呼吸が止まった。
幽霊ではない。
最強のネット犯罪者。
アリス。
義弘の皮を着て、アリスが立っていた。
空白を埋める者は、制度ではなかった。
幽霊でもなかった。
“ゴースト”だった。
その瞬間、錆の舞台がまた始まる予感だけが、静かに膨らんだ。




