第百七十四話 日課
錆の朝は、規則正しい。
ぼさぼさ頭のまま、鏡も見ずに腕立てをする。
呼吸は一定。回数は数えない。数えるのは喜びが混じるからだ。
喜びは不要だった。
鍛える理由も単純だ。
強くなりたいわけじゃない。
勝ちたいわけでもない。
KOTETUを“長く、綺麗に”着るため。
舞台に立つ身体を、舞台に合わせて作るだけ。
汗を拭いても、表情は動かない。
次に錆がやることも日課だった。
端末を開き、導線屋のSNSを立ち上げる。
画面の中は、祭りだった。
錆の編集映像が、内輪のタイムラインを埋めている。
霧の中の斬り合い。
同時に抜かれる刀。
翼のような影。
旧式の背中。
コメントが踊る。
神回
最高の対
旧式、最高に映えてた
次回予告が刺さった
これが“物語”だ
錆、天才
錆はそれを無感情に眺める。
褒められて嬉しくない。
自分の評価はどうでもいい。
大事なのは一つだけだ。
義弘が映えていること。
錆にとって、それが世界で一番の喜びだった。
仲間が報告を投げてくる。
朗報
市長、委縮してない
普通に動いてる
制度とか根回しとかやってるらしい
“次”あるぞ
その瞬間だけ、錆の胸の奥が温かくなる。
委縮していない。
逃げない。
舞台に出てくる。
錆は心底、嬉しかった。
嬉しいのに、顔は動かない。
顔が動くと、義弘が映えない。
そんな理屈が、錆の中では自然に成立している。
錆は短く入力する。
いい
それだけで十分だった。
タイムラインの空気が少し変わった。
褒め言葉の密度が、一瞬だけ下がる。
その隙間に、異物が入ってくる。
いつもの仲間の口調ではない。
丁寧で、硬くて、体面を気にする文章。
OCM海外部門の匂いだった。
義弘に打撃を与えられたことを喜ばしく思う
次はオスカー指揮下のOCMドローン・サムライ・ヒーローにも打撃を与えられるか
すぐ後に、別の硬い匂いが重なる。
日本国急進派。
我々としても同意する
次の段階として、OCM運用枠の弱体化は可能か
“責任線”は薄く保てるか
錆はそれを読み、何も感じないまま返す。
政治の言葉が嫌いでも好きでもない。
錆にとって政治は、舞台の背景にすぎない。
錆は短く助言する。
企業は不利となれば体面なく撤退を選ぶ
撤退されると舞台が消える
難しい
淡々とした現実主義。
錆は脅さない。煽らない。
ただ“舞台が消える”のが嫌なだけだ。
その返信に、別の導線屋が乗る。
なら撤退できない形にすればいい
“重い”の準備を始める
タイムラインがざわつく。
それだ
いまは霧で分断できた
次は“重さ”で固定できる
角度を揃えれば勝手に列になる
予算は来てる
部材も来てる
錆はそれを眺める。
作り方を語らない。
語る必要がない。
必要なのは「準備が始まった」という事実だけだ。
“重い準備”。
スポンサーは満足する。
導線屋は興奮する。
錆は興奮しない。
興奮は群衆のための感情だ。
錆のための感情は、義弘が映えるかどうかだけ。
錆は、ふと指を止めた。
オスカー指揮下のOCMドローン・サムライ・ヒーロー。
その言葉の奥に、別の像が浮かぶ。
シュヴァロフ。
三機――バンダースナッチ、トウィードルダム、トウィードルディー。
コロボチェニィク、グリンフォン。
元を辿れば、それらは“アリスのドローン”だ。
錆の胸の奥が、静かに熱を持つ。
もし、彼らに打撃を与えられるなら。
アリスは黙っていない。
アリスが現場に引き出される。
アリスが出れば、義弘は必ず守る。守るために舞台へ出る。
群衆の映えなんて要らない。
配信のコメントなんて要らない。
義弘とアリスと自分。
それだけで、世界一の絵が成立する。
錆は理解する。
“重い準備”は、スポンサーのためじゃない。
導線屋のためでもない。
義弘を、再び舞台に立たせるための導線だ。
錆は端末を置いた。
立ち上がり、ぼさぼさ頭のまま部屋を出る。
仲間たちが準備している場所へ。
重い準備をする手を増やすために。
彼は走らない。
走ると映えないからだ。
歩く。散歩するように。
廊下の途中で、錆は独り言を落とした。
「守れ」
声は低い。熱はない。
「守った瞬間が一番綺麗だ」
その言葉が、次の舞台の合図になった。




