第百七十二話 ゴーストの反撃
療養施設のテレビは、霧の街を映していた。
煙幕。
白く濃密な霧が路地を埋め、街灯の光が滲む。
滲む光は距離感を奪い、距離感が奪われると人は止まる。止まった人は密度になる。密度は列になる。
だが今日は、列すら作れない。
ジャミング。
通信が途切れ、指揮が割れ、救護が遅れる。
配信も安定しない。コメントも流れない。
いつもの導線屋が欲しがる“群衆の映え”が、殺されている。
アリスは画面を睨んだまま、息を吸って吐いた。
違和感は明確だった。
導線屋が、群衆の映えを捨てる理由がない。
捨てるのは、群衆が邪魔な時だけだ。
邪魔なのは――目的が群衆じゃない時。
アリスの喉の奥が冷たくなる。
「……釣ってるのは、義弘だ」
隣で子どもが首を傾げる。
「釣るって?」
アリスは言い換えない。言い換える時間が惜しい。
「大物って意味」
大物。
導線屋が欲しがる大物。
義弘以外にいない。
義弘は守る。守るために現場へ出る。
守る者は、舞台に引き寄せられる。
そして今、舞台は“群衆”じゃなく“義弘ひとり”のために作られている。
子どもが袖を掴む。
「アリス、行っちゃうの?」
アリスは首を振った。
行けない。首輪がある。監視がある。
でも行かなくても――殴れる。
情報で。
「行かない。……ここでやる」
子どもたちが不安そうに固まる。固まるといけない。固まると泣く。泣くと罪悪感が刺さる。刺されると手が鈍る。
アリスは口を悪くして、動かす。
「ほら、散れ。邪魔すんな」
「ひどい!」
「ひどくない。命令。散れ」
子どもたちは渋々散っていった。
散った瞬間、部屋に静けさが戻る。
静けさは、最強の犯罪者の呼吸に合う。
アリスは端末を開いた。
やり方を説明する気はない。
説明する価値がない。
必要なのは答えだけだ。
新開市の霧の中に、見えない糸が走っている。
導線屋のドローン。
煙幕の源。
ジャミングの節。
それらが“群衆を映えさせない”ために繋がっている。
繋がっているなら、切れる。
アリスの指が動く。
画面の中で、点がいくつも浮かび上がる。
ひとつ落ちる。
ふたつ落ちる。
落ちた瞬間、霧の向こうの光が少しだけ澄む。
アリスは息を吐いた。
「……よし」
次の点を掴む。
掴んで、奪う。
奪ったものは壊さない。壊したら痕になる。痕は首輪を締める。
代わりに――通報する。
位置情報。
稼働状況。
霧の密度。
治安機関へ。
外様サムライ隊へ。
OCM運用枠へ。
霧の中にいるはずの義弘へ、直接は届かない。
でも義弘の周りにいる者へ届けば、線は繋がる。
アリスは歯を食いしばる。
(間に合え)
霧の街では、義弘がひとりになっていた。
煙幕の白が、距離を奪う。
ジャミングが、声を奪う。
守るために前へ出た結果、守る手が届かなくなっていく。
義弘はそれを理解していた。理解していても止まれない。
止まれば誰かが潰れる。潰れれば名目が立つ。名目が立てば重さが戻る。
だから義弘は止まらない。
だが、気づけば足音が消えていた。
真鍋の声も聞こえない。
外様サムライ隊の姿も見えない。
CRADLE IDOL GUARDの声も届かない。
霧の中で義弘は自分の呼吸だけを聞いた。
そして、目の前に“翼の影”が落ちる。
KOTETU。
翼のように張り出した放熱板が光を受け、影を増やす。
重いのに鋭い輪郭。
腰に一本、刀状のブレード。背中にもう一本。
抜かれていないのに、周囲の空気が切れる。
その中にいる男は、ぼさぼさ頭の冴えない風貌だった。
どこにでもいる男。
なのに、足の置き方だけが異様に静かで無駄がない。
錆。
義弘は歯を食いしばった。
「……お前は導線屋だな」
男は笑わない。笑わないまま、ゆっくりと首を傾けた。
その視線は義弘の顔に来ない。
義弘が映る枠へ来る。
霧。光源。背景。距離。
義弘の背中が一番“成立”する角度。
錆は低い声で言った。
「ここの映えは、あんたと俺だけのものだ」
義弘の膝が疼く。
疼きが、弱点の存在を知らせる。
錆はその弱点を知っている。
導線屋として義弘を観察し、癖を知り尽くしている。
錆は強くない。
サムライ・ヒーローとしては素人だ。
それでも勝てる。
“舞台”の方で勝てる。
義弘が一歩引くと、錆は半歩だけ前に出た。
義弘が壁を背にしようとすると、錆は先に“絵が強い角度”を取る。
義弘がアンカーで有利な場所を取ろうとしても、錆はそれ以上に有利な場所を取ってくる。
有利とは、戦術じゃない。
画角だ。
義弘が守りの姿勢を取るほど、錆は嬉しそうに“枠”を整える。
錆のブレードが抜かれる。
腰の刃。
背中の刃。
二本の刀状ブレードが、霧の中で光を割る。
刃の数は、言葉の代わりだ。
義弘は刀を構える。
構えは正しい。正しいほど、旧式に見える。
錆は低い声で言った。
「あんたは今、最高に“映え”てますよ!」
その言葉が、霧より冷たかった。
刃が走る。
義弘は受ける。受けた瞬間、膝が軋む。
膝の軋みは、遅れになる。
遅れは次の刃を呼ぶ。
義弘は踏ん張る。踏ん張った瞬間、足元が滑る。
霧で湿った路面。
導線屋が選んだ“滑る角度”。
義弘の体勢が崩れる。
錆の刃が、義弘の装甲を削る。
削り方が“殺す”ではなく“終わらせる絵”を作るように正確だ。
義弘の視界が揺れた。
――危ない。
危ないのに、助けが来ない。
霧とジャミングが、助けを切っている。
義弘は歯を食いしばる。
ここで倒れたら、“旧式退場”が完成する。
完成させるわけにはいかない。
だが、膝が言うことを聞かない。
錆が一歩踏み込み、直撃を入れた。
義弘の体が浮き、地面に叩きつけられる。
倒れ伏す義弘。
霧の中で、音だけが大きい。
その音が、どこかで録られている気がする。
録られているなら、負けだ。
錆が近づく。ゆっくり。散歩するように。
とどめの角度を探している。
錆は刃を上げた。
「これで、完成だ」
“殺す”ではない。
“完成”。
その言葉が、錆の信仰だった。
療養施設で、アリスの端末が小さく跳ねた。
霧の中の点がひとつ、こちらを見返してくる。
義弘の位置に繋がる糸。
アリスの喉が熱くなる。
「……間に合え」
アリスは最後の点を落とし、最後の位置を送った。
治安機関へ。
そして――シュヴァロフへ繋がる運用枠へ。
その瞬間、背後で扉が乱暴に開いた。
監視員が駆け込んでくる。治安の顔。
声が硬い。
「アリス! 何をしている!」
アリスは振り向かない。振り向いたら止まる。止まったら終わる。
指だけが動く。最後の送信。
監視員が腕を掴む。
「やめろ!」
アリスは掴まれた腕を振りほどかない。振りほどけば暴力になる。暴力になれば首輪が締まる。
代わりに言う。短く、誤読されないように。
「私が止めたら、誰かが死ぬ」
その一言で、監視員の動きが一瞬止まる。
止まった一瞬が、アリスの勝ちだった。
送信が完了する。
霧の街で、翼の影が揺れた。
とどめの刃が落ちる、その瞬間――
横から、影が突っ込んできた。
シュヴァロフ。
完全修理された機体の動きは無駄がない。
戦うためではない。遮蔽し、押し退け、命を繋ぐための突撃。
錆の刃が空を切る。
切った刃の先に、義弘はいない。
シュヴァロフが義弘の前に“壁”を作っていた。
壁と言っても、KOTETUの重さとは違う。
“守る形”としての壁だ。
錆が半歩下がる。半歩で角度を取り直す。
取り直した瞬間、霧の向こうから別の足音が近づいてくる気配がした。
治安機関。
外様サムライ隊。
OCM運用枠。
アリスが送った点が、線になり始めている。
錆は理解した。
このまま続ければ、舞台は“二人の映え”ではなく“群衆の事故”に戻る。
それは錆の望みじゃない。
錆は刃を下ろし、霧の中で穏やかに言った。
「……今日はここまでだ」
義弘は地面に伏したまま、息を吐いた。
シュヴァロフが少しだけ姿勢を変え、義弘を隠す。
錆はゆっくりと後退した。
翼の影が遠ざかる。
背中の刃が、霧の光を一度だけ裂いた。
錆は最後に、義弘へ言い残す。
「また後日」
“次の映え”の予約。
それが一番気持ち悪かった。
錆は霧に溶けた。
療養施設で、アリスは掴まれた腕のまま息を吐いた。
監視員が低く言う。
「……やったな」
アリスは顔を上げない。
上げたら泣きそうになる。泣けば弱い。弱さは首輪を締める。
アリスは短く言った。
「やった。……必要だった」
監視員は返せない。返せない言葉が、部屋に落ちる。
霧の街では、義弘が生きている。
それだけで、今日は勝ちだった。
ただし、KOTETUの翼の影は消えていない。
“次”は確定している。
旧式を終わらせるための舞台は、まだ閉幕していなかった。




