第百七十一話 霧の街
褒め言葉ほど、首を絞める。
市議会の議場は、丁寧な言葉で満ちていた。
日本国急進派の影が差し、OCM海外部門の匂いが混じる。
誰も名乗らない。誰も責任線を引かない。
そのくせ、刃だけが増える。
「市長の資質は疑いようがありません」
発言者は、そう切り出した。
褒め殺しの典型だ。褒めた瞬間、逃げ道を塞げる。
「だからこそ責任が重い。だからこそ問います。――健康上、市長職の遂行に問題はないのでしょうか」
議場にざわめきが走る。
“健康”。
“膝”。
“過労”。
義弘の弱点が、行政の言葉に翻訳される。
義弘は杖を握った。
膝が疼く。疼きは怒りになる。怒りは燃料になる。燃料は列を呼ぶ。
ここで燃やしたら、相手の勝ちだ。
義弘は息を整え、行政の声で答えた。
「新開市の行政に問題はありません」
短く。誤読されないように。
言葉が長いと切り抜かれる。切り抜かれると燃える。
「治安と救護、指揮系統は機能しています。市長として職務は遂行できています」
“辞めたい”という本音は、飲み込む。
辞めたいのに辞められない理由は、ここでは言わない。
言えば弱点になる。
――街の中立。
――アリスの権利回復。
――今辞めれば新開市が属する。
その三つを、義弘は喉の奥に沈めた。
答弁を終えた瞬間、義弘の視界の端に、ひとりの男が映った。
ぼさぼさ頭。冴えない顔。
議場の空気に溶けるように座っている。
どこにでもいる、疲れた男。
だが、義弘は胸の奥がざわついた。
その男の視線が、義弘の顔に来ない。
義弘の“周囲”へ行く。
机の縁。照明の角度。議長席の高さ。
義弘が映る枠。
そして――義弘が少し身じろぎすると、男も半歩だけ位置を変える。
近づきもしない。逃げもしない。
ただ画角が崩れないように、半歩だけ。
義弘の背筋が冷えた。
説明できない不安。
だが説明できない不安ほど、正しいことがある。
義弘は男から目を逸らした。
逸らすしかなかった。議会は議会だ。今は燃やせない。
議会が終わる前に、端末が震える。
警報ではない。
“連絡”が、同時に何本も入る。
新開市内、連続トラブル。
外へ出ると、街が白かった。
煙幕。
煙は薄い霧ではない。濃密な霧のように漂い、視界を切る。
切られた視界は、人を止める。止まった人は密度になる。密度は列になる。
そして今日は、その列すら作らせない。
ジャミング。
通信が途切れる。指揮が割れる。救護が遅れる。
配信も安定しない。コメントも流れない。
“映え”が弱い。
普段の導線屋なら、映える角度に執着する。
なのに今日は違う。
映えを気にしていない――ように見える。
義弘はすぐに気づく。
違う。映えを捨てたのではない。
“群衆の映え”を捨てただけだ。
目的が変わった。
今日は、義弘を孤立させる日だ。
真鍋から連絡が来る。声が割れる。割れる声は焦りの証拠だ。
「市長、各所で同時発生です! 外様サムライ隊と治安機関、OCM運用枠でも手が足りません!」
手が足りない。
それが狙いだ。
数が多い。LCシリーズのパーツが流入している――報告が頭をよぎる。
“映えない”小さなトラブルが、同時に起きている。
小さいほど、責任線が引けない。
小さいほど、潰すのに人数が要る。
義弘は歯を食いしばった。
本当は導線屋を追いたい。
本当は匂いの元を断ちたい。
だが議会は議会で、責任・安全保障・配置を問う声が止まらない。
日本国急進派と海外部門の影が、追及の言葉になって襲う。
「市の判断は?」
「配置の根拠は?」
「保護区域は守れているのか?」
「またアライアンス介入を呼ぶのか?」
言葉の霧。
現場の霧。
二つの霧が、義弘の視界を同時に奪う。
考える時間が削られる。調査する余裕が削られる。
削られた義弘は、結局いつもの場所へ行くしかない。
現場へ。
義弘はサムライ・ヒーローとして飛び出した。
膝が痛む。
痛むから、走り方が制限される。
制限された動きは、舞台にしやすい。
そのことに、義弘は気づいていないふりをした。
気づいた瞬間、足が止まる。
止まれば負ける。
新開市の中心部は、霧の中だった。
煙幕が低く漂い、街灯の光が滲む。
滲む光は距離感を奪う。距離感が奪われると、人は近づく。近づくと密度が上がる。
だが今日は、人が近づけない。
ジャミングのせいで誘導も救護も声が届きにくい。
届かない声は、怖さになる。
義弘は声を張った。
「止まるな! 流れろ! ここから離れろ!」
声は霧に吸われる。
吸われる声は届かない。届かないほど、義弘は前へ出るしかなくなる。
前へ出れば中心になる。
中心になれば、導線屋の思うつぼ。
義弘は分かっている。分かっているのに止められない。
守らなければならないからだ。
背後で誰かが叫ぶ。
だが声が位置を示さない。霧の中で、声は方向を失う。
義弘は足を止めない。
止めないまま、霧の奥へ入る。
いつの間にか、味方の足音が消えていた。
真鍋の声も聞こえない。
外様サムライ隊の姿も見えない。
CRADLE IDOL GUARDの声も届かない。
義弘はそこで初めて、喉の奥が冷えるのを感じた。
孤立している。
孤立させられている。
霧は偶然じゃない。
同時多発のトラブルも偶然じゃない。
議会の追及の強さも偶然じゃない。
全部が一本の導線だ。
義弘は杖を握り直した。
膝が疼く。疼きが恐怖になる前に、息を整える。
「……導線屋」
口にした瞬間、霧が少しだけ動いた気がした。
まるで答えるみたいに。
霧の向こうから、足音がした。
急がない。走らない。
散歩するような足取り。
それがいちばん怖い。
影が近づく。影が光を切る。
そして影の輪郭が、翼のように広がった。
放熱板。
装甲のあちこちから、翼のように張り出した板が光を受け、影を増やす。
重いのに鋭い。鈍器の質量と刃物の輪郭。
腰に一本、刀状のブレード。
背中にもう一本。
物々しい雰囲気が、霧そのものを切り裂くように迫る。
最新型サムライ・スーツ――KOTETU。
そして、その中にいる男。
ぼさぼさ頭。冴えない顔。
議会で半歩だけ動いていた男。
義弘の胸が冷える。
説明不能だった不安が、ようやく形になる。
男の視線は義弘の顔に来ない。
義弘が映る枠へ来る。
霧。光。背景。距離。
この場が“絵”として成立する角度。
男はゆっくりと止まり、翼の影を落とした。
義弘は低く言う。
「……お前は誰だ」
男は笑わない。
笑わないまま、静かに言った。
「ここの“映え”は……」
言葉の途中で、男は半歩だけ位置を変えた。
義弘が最も“映る”角度へ。
そして言い切る。
「あんたと俺だけのものだ!」
霧が揺れた。
揺れた霧の向こうで、街の騒音が遠ざかる。
世界が狭くなる。
狭くなるほど、絵が強くなる。
導線屋は群衆の映えを捨てて、義弘の映えだけを欲しがっている。
義弘の膝が疼いた。
疼きは痛みだ。痛みは遅さだ。遅さは、狙われる。
そして目の前の男は、それを“最高”だと言った。
旧式を終わらせるための舞台が、今ここに完成した。




