第十七話 氷の母と三匹の影
義弘の隠れ家は、病室のようで、作業場のようで、そして妙に“家庭”だった。
床には清掃用シートがぴたりと敷かれ、角が揃っている。
傷ついた装甲片は、まるで食器のように種類別に並べられ、乾燥剤と一緒に保管されている。
部屋の片隅には、温度管理のパネルが点いていて、設定が「人間の快適」ではなく「熱限界の再発防止」になっていた。
義弘はベッド代わりの硬い寝台で、息を浅くしていた。
強制冷却で白く痕が残った腕はまだ硬い。胸の奥がずっと焼けている。
そこへ、黒い影が近づく。
シュヴァロフ――闇そのものみたいな戦闘ドローンが、無言で保温シートを掛け直した。
角を揃え、皺を伸ばし、端を折り込む。
まるで布団だ。
トミーが寝台の端で耳を揺らした。
「……お前、戦闘担当だよな? なんでそんな主婦スキル高いんだよ」
シュヴァロフは返事をしない。
代わりにトミーの前へ、清掃用の布をすっと差し出した。
“働け”という圧だけがあった。
「はいはい、拭けばいいんだろ拭けば」
トミーは悪態をつきながら床を拭き始める。
シュヴァロフはそれを見届け、今度は義弘の水分補給パックを用意した。
吸い口を少し角度調整してから、義弘の口元へ。
義弘は、短く笑うでもなく息を吐いた。
「……世話焼きだな」
シュヴァロフは、ほんの少し首を傾けた。
言葉はなくても、「当然だ」と言っているように見える。
それが、この街の不思議だった。
最強の戦闘ドローンが、誰よりも丁寧に“看護”をする。
その温かさがあるから、次の“氷”は刺さる。
天井の端末が、静かに点滅した。
都市の共通回線――監査配信に切り替わる合図。
新開市のあらゆるスクリーンが、同じ顔を映した。
整った顔立ち。染み一つない健康的な肌。
ブロンドの髪、青い瞳。静かで美しい物腰。
美しく年老いつつある女性。
“氷の母”。
彼女は微笑んでいた。
微笑が、氷結の前触れだと知っている人間だけが、背筋を固くした。
「新開市の皆様。アライアンス極東方面調停者として、状況の安定化を宣言します」
声は柔らかい。丁寧で、気遣いに満ちている。
同時に、言葉の隙間がない。逃げ道がない。
「責任追及が目的ではありません。
中立性とインフラ維持――それが私たちの使命です」
“中立”。
その言葉が出た瞬間、街は息苦しくなる。
「本日より都市システムは監査モードに移行します。
通信帯域は制限され、夜間の移動は許可制になります。
市民の皆様の安全のため、区域封鎖を実施します」
優しい言い方で、生活が切り落とされる。
そして彼女は微笑んだまま、ほんの少しだけ視線を横に滑らせた。
「……空いた席に、別の者が座ろうとしています。
ですが、今は席の話ではありません。
まず、街を守りましょう」
誰もが理解した。
OCMの失地を狙う“何か”が動き出している、と。
次に、さらに薄い氷を一枚足した。
「オールド・ユニオンから照会が来ています。形式的なものです。
誤解が生じないよう、私たちは透明性を保ちます」
形式的。
その言葉ほど信用できないものはない。
映像が切れた。
スクリーンが通常放送へ戻る。
その瞬間、街は舞台ではなく檻になった。
同じ頃、OCMの上層部は、檻の中で暴れていた。
会議室の空気は乾ききっている。
誰もが端末を叩き、数字を叫び、責任を押し付ける。
「視聴率攻撃の波及が想定より大きい!」
「スポンサーが離れる!」
「アライアンスが監査モード? 冗談じゃない!」
「レギオンの成果だと? 誰が漏らした!」
「第三者ハッカーだ、そう言えば――」
その声の渦の中心に、ただ一人、静かな男がいた。
眉目秀麗。
いかにも仕事ができる企業人という外観。
髪もスーツも、乱れという概念を排除している。
オスカー・ラインハルト。
彼の机の片隅には、小さな鉢植えがあった。
サボテン。
棘が短く、丸い品種。土は乾きすぎず湿りすぎず、完璧に管理されている。
オスカーは、誰かが怒鳴るたびに鉢の位置を数ミリ直した。
まるで会議室の雑音を、そこへ逃がすように。
「……感情は議事録に残りません」
声音は低く、静かだ。
しかし会議室の音が一つ落ちる。
「残るのは数字だけです。
いま必要なのは責任追及ではなく損失の停止。整理です」
誰かが噛みつこうとした。
「君は冷たすぎる」
「人が――」
オスカーはサボテンの土を指で確かめた。
「サボテンは余計なことを言わない。助かる」
その一言で、会議室の空気が凍った。
“余計なこと”に、人間の叫びが含まれていると理解できたからだ。
オスカーは視線を上げた。
「アライアンスは怒りません。彼らは責任追及ではなく整理をする。
なら我々は先に回収する。資産を」
資産。
その言葉が、人の形をした“何か”を連れてくる。
オスカーは端末を一度だけ操作した。
会議室の通信が、別回線へ切り替わる。
「NECROテック・エージェント小隊へ。命令」
暗い回線の向こう側。
三つの影が立っている。
リッチ。
レヴェナント。
ドッペル。
オスカーの声は、業務の音だった。
「リッチ。損傷ゼロで回収。交渉権限は与える。結果は必須」
「レヴェナント。最短で無力化。民間被害ゼロ。計算しろ」
「ドッペル。現場の物語をこちらに戻せ。必要なら声を盗め」
一拍。
「津田義弘。排除または無力化。可能なら事故に見せろ。
ログは残すな。残る数字は、こちらが選ぶ」
通信が切れる。
オスカーはサボテンに霧吹きを一度だけ吹きかけた。
水滴は棘を伝い、土に落ちる。
「余計な雑音が増えた。……整える」
彼の整える対象に、人間も含まれている。
封鎖された新開市では、空気の流れが変わった。
街角の配信者が追い払われる。
避難所の端末の電波が細くなる。
飯屋の無音配信は、途切れ途切れになり、客は苛立ちと不安を混ぜて舌打ちする。
それでも街は、見ていた。
見られることに飢えていた。
そして彼女は、見られる側に立たされていた。
アリス。
灰色のフードは深い。
口元を覆うスカーフの下で、歯が鳴る。
OCMのサムライ・スーツ。
広告と企業カラーの衣装。
ただし今夜、それは“舞台衣装”ではなく“工具”だった。
首輪回線が二重に締まる。
――《OCM指令:逸脱禁止》
――《監査:通信制限》
――《移動:許可制》
――《治安回復:最優先》
文字が現実より強い。
アリスは苛立って指先を動かし、視界のUIを叩くように閉じた。
閉じても消えない。首輪は目の裏にある。
「……きっしょ」
呟く。毒で蓋をする。
蓋をしても、焦りは漏れる。
シュヴァロフはいない。
付きっきりで義弘を看護している。
その分、アリスの心の“背中”が薄い。
舞台裏で、双子が控えていた。
トウィードルダムとトウィードルディー。
救助と工作の担当。目が真剣だ。
そして、アリスの足元から影が滲む。
バンダースナッチ。
群体。
LC残骸と市販ドロイドと作業用マイクロドローンが、ひとつの生き物みたいに統合された混成。
黒い外装パッチ。
灰色の補強テープ。
手縫いみたいな配線束。
まとまりがないのに、まとまっている。
群体が一斉に向きを揃えると、輪郭が浮かぶ。
センサー球が“目”になり、割れた装甲板が“口”になる。
ライトが淡く点滅し、息をする。
アリスがしゃがむと、犬サイズの小型機――ハウンドが一瞬だけ距離を詰めた。
懐いている。
アリスは苛立ちのまま手を伸ばし、触れそうになって止めた。
“可愛い”と思った瞬間が、弱さになるのが怖い。
その時、監査回線の端に、異物が入り込んだ。
静かな声。
「ゴースト」
呼び方が丁寧すぎる。
丁寧だから怖い。
アリスが顔を上げる。
影が一つ、封鎖線の端に立っていた。
背が高い。姿勢がまっすぐ。制服のような外套。
首元に、目立たない首輪型インターフェース。
リッチ。
彼は一礼した。
礼儀正しい動き。まるで会合。
「あなたを尊敬しています。あなたの調整は――美しい」
アリスは反射で毒を返す。
「うるさい。褒めるな。気持ち悪い」
言ってから、心のどこかが痛む。
褒め言葉に慣れていない。慣れることを拒否している。
リッチは嬉しそうに頷いた。
「その反応も合理的です。……ですから、帰還してください」
「帰らねえよ」
「命令です。私の意思ではありません」
柔らかい声で、檻を閉める。
アリスが舌打ちした、その瞬間。
――踏み込む足音が、ない。
代わりに、空気が押される。
レヴェナントが距離を詰めていた。
いつの間に、という速さではない。
いつの間にかそこにいる、という“最短”だ。
がっしりした体格。腕と肩の骨格が強化フレームに置換され、服の上から輪郭が分かる。
顔は無表情。まばたきが少ない。
そして口だけが動く。
「角速度、0.72……更新」
「最短距離、再計算」
「接触まで……二秒」
声量は一定。息は乱れない。
猛烈に襲い掛かってくるのに、興味がない。
アリスの毒が、余る。
「は? 何言って――」
言葉が刺さらない。
刺さる相手がいない。
彼はアリスを見ていない。軌道を見ている。
アリスは反射的に後退し、サムライ・スーツの脚部制動を滑らせた。
壁面をスケートのように滑る。
バンダースナッチが一瞬で“壁”になる。
シェルが装甲板と建材パネルを展開し、避難路の前にバリケードを作る。
レヴェナントは止まらない。
止まる必要がない。
壁を“避ける”最短を選び、梁へ足をかけ、角度を変える。
「衝撃減衰、許容外」
「更新」
アリスの背中に冷たい汗が走る。
シュヴァロフがいれば、こういう圧を受け止めてくれた。
今はいない。だから焦りが露出する。
その焦りの一瞬を、誰かが待っていた。
「……きっしょ」
アリスの声だった。
違う。
口元は動いていない。
背後。
普通に見える影が、普通に立っている。
目だけが乾いている。
ドッペル。
彼はアリスの声で、アリスの言葉をなぞった。
「首輪つけたまま噛みつく、でしょ?」
気味が悪い。
怒りより先に、胃が嫌な形に縮む。
「やめろ……!」
「わかった。……やるよ」
今度は、別の記憶の言葉。
アリスが自分を裏切ったと感じた瞬間の言葉。
OCMの命令を受諾した時の、心の傷口を指で抉る。
アリスの視界が揺れた。
揺れた瞬間、リッチの帯状拘束具が伸びる。
「抵抗は理解できます。……拘束します」
帯が、関節を狙う。
痛めないために、正確に。
アリスは歯を食いしばり、指先を跳ねた。
「ダム! ディー!」
双子が動く。
工作の手が、街の隙間を使う。
足場が一つ、ずれる。
梁の固定ピンが一本だけ抜ける。
抜ける方向は、民間の導線ではない。
バンダースナッチのスワームが空中に“薄い霧”を作った。
視界が白くなる。
ライトの瞬きが息のように揺れる。
アリスは霧の中で壁面を滑走し、拘束帯をぎりぎりで避ける。
レヴェナントが追う。
「最短距離、更新」
「……無駄」
その無駄を作るのが、アリスの仕事だ。
戦闘ではない。
救助と逃走の構造を作る。
バンダースナッチのハウンドが走る。
囮が“アリスの動き”を真似て別方向へ散る。
シェルが壁になる。
スワームが霧を濃くする。
それでも追跡は鋭い。
三匹の影は、役割分担で迫る。
その時――封鎖線の向こうで、別の無彩色が滑るように現れた。
走っていない。急いでいない。
なのに、いつの間にかそこにいる。
無彩色の鎧。
広告も派手さもない、治安装備の無骨さ。
胸部と肩が厚く、脚部は踏ん張りの構造。背面ユニットは薄いが幅広い。
KMU-02 “KOMAINU(狛犬)”。
そのバイザーの向こうに、固い目があった。
目がまず見たのはアリスでもNECROでもない。
群衆の導線だ。
「下げろ。そこは落ちる」
短い声。
現場の言葉。怒鳴りではない。指示だ。
鳴海 宗一。
封鎖線の現場運用官。
高速機動隊の人間の顔。
彼は配信者を押し退け、民間を後ろへ流し、シールドを広げた。
壁。
守護。
同時に、檻。
「封鎖を維持。逃がすな、だが追い詰めるな。――挟め」
部下が動く。
封鎖線が“正しく”動く。
正しく動くことで、アリスの逃げ道も削られる。
悪意じゃない。事故を止めるための手順だ。
だから厄介だ。
リッチが鳴海に一礼した。
「協力に感謝します」
鳴海は返さない。
返さず、淡々と言った。
「俺はお前らに協力してない。事故を止めてるだけだ」
レヴェナントが鳴海の方へ顔を向けることもなく、数式を呟いた。
「衝撃減衰、許容外」
「民間、近い」
「……回避」
回避。
彼は本当に“民間被害ゼロ”を計算している。
恐ろしいほどに。
その瞬間、鳴海の通信に、別の声が滑り込んだ。
微笑の声。
『市民被害ゼロ。だが不確定要素は逃がさない』
氷の母だ。
鳴海の口元が固くなる。
命令ではない、と言い聞かせるように。
「現場は正義の舞台じゃない。事故の現場だ」
彼は自分に言った。
そして封鎖線を、ほんの少しだけ締めた。
アリスの胸が締まる。
逃げ道が細くなる。
そこへ、ドッペルの声。
「戻る」
アリスの声で。
空っぽで。
ただの素材として。
「……っ!」
アリスは怒鳴りそうになって止めた。
怒鳴れば“物語”になる。
物語になれば首輪が固くなる。
だから、構造で逃げる。
「バンダースナッチ、壁。双子、上!」
群体が壁になり、足場が生まれ、アリスのスーツが壁面を滑る。
レヴェナントが追う。
リッチが拘束帯を投げる。
ドッペルが声で一拍ずらす。
冷たい狩り。
街が舞台から檻に変わる瞬間。
その檻の外側で、義弘は立ち上がろうとしていた。
寝台の端に手をつく。
右腕が死んでいる。身体が拒否する。
それでも立つ。立たないと、子どもが狩られる。
その前に、黒い影が立った。
シュヴァロフ。
看護の手つきで義弘の肩を押し戻す。
母性で止める。
トミーが叫ぶ。
「止めんな! ジジイ行かせろ!」
シュヴァロフはトミーに清掃用シートをもう一枚押し付けた。
“黙って働け”の圧が増す。
義弘は歯を噛んだ。
「……今は、戦えない」
悔しさが、胸の焼ける痛みより熱い。
シュヴァロフは首を傾ける。
“分かっている”と言うように。
次の瞬間、シュヴァロフの身体の輪郭が変わった。
家庭の影が、戦闘の影へ戻る。
背中の巨大な腕が、戦闘用に位置を変える。
爪が伸びる。
光学迷彩が、闇へ溶ける準備をする。
看護の手つきから、狩りを止める手つきへ。
義弘は、その背中に低く言った。
「……頼む。守れ」
シュヴァロフは返事をしない。
返事の代わりに、扉へ向かう影が濃くなる。
一方、氷の母は、街の上から全てを見ていた。
監査映像。封鎖線。NECRO小隊の動き。バンダースナッチの壁。
配信者の端末。避難所の通信。飯屋の無音配信。子どものごっこ遊び。
飢え。
それもデータだ。
彼女は微笑んだまま、鳴海に言う。
『秩序を維持して。事故は起こさないで』
鳴海は短く返す。
「了解」
その声が、硬い。
氷の母は次に、義弘へ回線を伸ばした。
寝台から立ち上がろうとする男へ。
過去に激しい駆け引きをした男へ。
要求を受け入れ、個人的なつながりを持たせた男へ。
『津田義弘。協力してください』
優しい。
通告だ。
『あなたが彼女を説得しなさい。従えば守る。
従わなければ――排除します』
義弘は息を吐いた。
怒りが湧く。
だが怒りで戦えない。言葉で戦う。
「中立って言葉は便利だな」
義弘は低く言った。
「中立の名で子どもを狩れば、中立は物語として死ぬ。
あなたが守るのはインフラだろう。
なら、インフラの上に乗る“信頼”を殺すな」
氷の母の微笑が、ほんのわずか硬くなる。
硬くなっても微笑は崩れない。
『……あなたはいつも、相手に誤りを思い知らせる方法を知っている』
義弘は返した。
「今夜は、あなたが知る番だ」
アリスは、追い詰められながらも“回収”を成立させなかった。
バンダースナッチが壁になり、囮になり、霧になって、道を作る。
双子が工作で足場を作り、封鎖線の隙間を一瞬だけ広げる。
その一瞬を、アリスのスーツが滑る。
だが代償はある。
ハウンドの一体が、レヴェナントの拳の余波で弾けた。
ライトが消え、息が止まる。
アリスの胸が痛む。
毒が出ない。出す余裕がない。
「……っ、ごめん」
小さく言った。
言った瞬間、スワームが一斉に淡く点滅した。
息をする。慰める。
その“慰め”を、ドッペルが盗む。
「ごめん」
アリスの声で。
空っぽで。
アリスの喉が詰まる。
そこへ、シュヴァロフの影が落ちた。
闇が、闇を切る。
巨大な腕がレヴェナントの進路へ滑り込み、衝突を“受け止めずに”逸らす。
一撃離脱の奇襲。
狡知と技巧。
舞踏のような動き。
レヴェナントが数式を呟く。
「干渉……外乱」
「更新」
リッチが丁寧に言った。
「あなたも……美しい」
シュヴァロフは返事をしない。
返事の代わりに、アリスの背後を守る位置へ移る。
母性の影だ。
アリスは息を吐いた。
シュヴァロフの影があるだけで、背中が戻る。
だが封鎖線は残る。
鳴海がいる。氷の母がいる。
逃げ道は狭いままだ。
そして、遠いところでオスカーの声が、切れた通信の余韻のように響く気がした。
“整える”。
終幕は、勝利ではなく“回収の失敗”だった。
氷の母は微笑んだまま宣言する。
「本日はインフラを優先します。
回収は後日にしましょう」
見逃しではない。
借りを作る宣言だ。
鳴海は封鎖線を少し緩め、市民を逃がす導線を作る。
それは正しい。
正しいが、アリスにとっては“逃げる許可”ではない。
NECRO小隊は撤退した。
撤退の仕方も業務的だ。怒りも悔しさもない。
リッチが最後に一礼する。
「あなたを尊敬しています。次は、もっと丁寧に回収します」
レヴェナントは数式を呟き続ける。
「最短距離……次回」
「収束……予測」
ドッペルが、アリスの声で呟いた。
「戻る」
空っぽの宣告。
最悪の模倣。
そして、監査映像の端に一瞬だけ、OCMではないロゴが映った。
すぐ消えた。誰も説明しなかった。
空いた席に、別の者が座ろうとしている。
同時に、オールド・ユニオンからの照会ログが更新される。
形式的。
形式的という言葉ほど、形式的ではない。
アリスの視界に、首輪回線の通知が浮かぶ。
「権限再移管:準備中(元所属)」
アリスは歯を食いしばった。
毒を吐こうとして、飲み込んだ。
バンダースナッチが足元で息をする。
シュヴァロフの影が背中にある。
双子が黙ってついてくる。
守るものがある。
だから逃げる。
氷の母は微笑み続ける。
オスカーはサボテンを整える。
鳴海は事故を止める。
誰もが“守る”と言う。
その言葉が、一番怖い。




