第百六十九話 帰ってきた家族
玄関の鍵が回る音は、小さかった。
だが義弘には、それがやけに大きく聞こえた。
新開市はいつも騒がしい。騒がしい街で、静かな音ほど心臓に届く。
扉が開く。
入ってきたのは、人ではない。
シュヴァロフだった。
以前と変わらない。
変わらないということが、義弘の胸を少しだけ緩める。
変わらないものがあるだけで、人は踏ん張れる。
白い毛のウサギ――トミーが、椅子の背に乗ったまま片耳を揺らす。
「帰ってきたな」
義弘は杖に手を置いて頷く。膝はまだ治らない。痛みは残っている。だが痛みを理由に止まれる時期は終わっていた。
「……帰ってきた」
シュヴァロフは返事をしない。
返事をしないまま、室内の空気を読む。
読み終えると、迷いなく動き始めた。
床に落ちた小さな埃を拾い、食器を整え、温度の低い湯を沸かす。
義弘が膝を庇って立つより先に、椅子の位置が変わる。
痛みが出ない角度へ、当たり前のように生活が寄せられる。
“家事”というより、“支援”だった。
トミーが小さく言う。
「まめまめしい奴だ」
褒めているのか、皮肉なのか分からない。
分からないところがトミーらしい。
義弘は苦く笑いそうになって、飲み込んだ。
シュヴァロフが帰ってきた。
でもこれは、勝利の帰還ではない。
貸し出しが終わっただけかもしれない。
運用権が戻ったとは限らない。
トミーが、それを刺す。
「……借り物の帰還だ」
義弘は返さなかった。返せる言葉がない。
借り物でも、ここにいる。
ここにいる間だけでも、義弘は歩ける。
そして――アリスにとっては、家族が戻ったという事実になる。
その事実が、取引でしか得られないことが、義弘には苦かった。
その取引を整えた名は、オスカーだった。
連絡は短い。文章は整っている。逃げ道がない。
――日本国および外様サムライ隊責任者との調整を完了。
――アリスの処遇は緩和方向。
――療養施設での制限は一部解除。
――家族(機体)については“返還”を段階的に。
段階的に。
その言葉は優しい顔をして、首輪の形をしている。
いつでも締められる。いつでも緩められる。
鍵を握る者の顔は穏やかだ。
義弘は端末を置き、息を吐いた。
改善している。
少しずつ。確かに。
でも、正義が勝ったわけではない。
捕まっていない。裁かれていない。責任線も引けていない。
ただ、状況が“整った”だけだ。
整ったことが、いちばん怖い。
整ったまま次の暴挙が起きれば、誰も止められない。
止められないのに「ほら、普段は順調だろう」と言われる。
義弘はその未来が見える。
見えるから、腹の底が冷える。
国の提案で送り込まれた外様サムライ隊には、欠員が生じていた。
真田颯真の膝。
挫折の絵。
穴。
穴は埋められるためにある。
オスカーがそう考える男だと、義弘は知っている。
そして埋めるものが来た。
OCMから、NECROテックエージェント――モルテ。
街の会見映像で、モルテは外様サムライ隊の横に立っていた。
装束は外様の系列に寄せているのに、どこか“別の空気”がある。
強さを誇らない。前へ出ない。
中心にならないことを知っている。
話す声も、短い。
「任務を果たします」
それだけでいい。
それ以上言えば切り抜かれる。切り抜かれれば燃える。
モルテは燃やさない。
現場でも同じだった。
列ができかけたところで、声を張らずに流れを作る。
止まる場所を消す。
救護の道だけを残す。
外様サムライ隊は、それを“勝ち方”として学ぶ。
世論はすぐに変わる。
変わるほど怖い。
――国の隊にNECROがいるのが普通。
――協力が当たり前。
――正規化は現場で進む。
オスカーの狙いは完成に近づいた。
既成事実。
承認は宣言ではない。配置だ。
配置が先に成立すると、社会は後から理由を作る。
それが“順調”という言葉の正体だった。
義弘は、その順調さを苦々しく思っていた。
市民が怪我をしないのはいい。
列が事故にならないのもいい。
アライアンスが重さを持ち込む名目が立ちにくいのもいい。
全部いい。
だからこそ悪い。
正義が未決のまま、運用が整っていく。
運用が整うほど、暴挙はやりやすくなる。
暴挙は「必要な調整」と呼ばれ、誰も止めない。
義弘は机に手をつき、膝の痛みを無視しないまま立ち上がった。
「……二度と起こさせない方法を考える」
トミーが椅子の背で耳を揺らす。
「正義を?」
義弘は首を振った。
正義は遅い。遅いから負けることがある。
なら“仕組み”を先に作らなければならない。
「暴挙を、仕組みで止める」
トミーは短く言った。
「それが一番難しい」
「だからやる」
義弘の声は低い。低い声は、燃えない。
燃えない声で、燃えるものを止めたい。
それが市長の仕事だった。
同じ頃、OCM海外部門は怒りで熱かった。
ELEPHANTの骨格が流れた。
社内の資産管理が破られた。
そして今度は、モルテが“国の隊”へ。
資産が抜ける。人材が抜ける。責任線が薄くなる。
薄くなる責任線の中心に、オスカーがいる。
海外部門にとって、これは許し難い。
だが表で殴れば、オスカーは守りを固める。
義弘とアライアンスを敵に回せば、海外部門の側が損をする。
だから彼らは、水面下で動いた。
導線屋と。
オスカーを追い落とすには、新開市を再燃させるのが早い。
再燃させれば「オスカーの失政」になる。
失政になれば、正規化の主導権を奪える。
そして何より、海外部門は“得”が好きだ。
得が回るところに金を落とし、金で運用を買う。
導線屋は、金を嗅ぎ分ける。
匂いが変わったことを、導線屋はすぐ知った。
今までの匂いは「国内の薄い匂い」だった。
これからの匂いは「海外の硬い匂い」だ。
硬い匂いは、もっと危ない。
夜、義弘の家で、シュヴァロフは湯呑みを置いた。
義弘の座りやすい角度。
膝の痛みが出ない位置。
完璧な気遣い。
義弘は湯を飲み、息を吐いた。
静かだ。
静かすぎる。
静かな時ほど、街は次の燃料を溜めている。
静かな時ほど、誰かが水面下で角度を揃えている。
トミーが小さく言った。
「静かな時が、一番危ない」
義弘は頷いた。
危ない静けさの中で、家族が帰ってきた。
順調な配置が整った。
そして、新しい匂いが動き始めた。
次の火は、別の手で点けられる。




