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第百六十一話 腹ごなし

 ニュースの見出しは、簡単だった。


――ネット犯罪者“ゴースト”アリス、逮捕。


 その文字は強い。強いからこそ、街はすぐに満腹になった。

 叫ぶ前に、消化が始まる。


 新開市民は列を作らなかった。

 作るほどの空腹がなかった。


 編集動画が回る。まとめ記事が並ぶ。考察が伸びる。

 “女王の檻”“中立性に懸念”“SOFFestの影”“家族の走り”。

 どれも見出しとしては完璧で、腹いっぱいになる。


 “映え”を食べすぎたのだ。


 人々は腹ごなしに、画面の中でだけアリスを消費した。

 現場へ行く理由が薄れる。止まって叫ぶ理由が薄れる。

 列は霧散していた。


 霧散している静けさは、勝利ではない。

 ただの休憩だ。



 庁舎の会議室で、アライアンスの使節は淡々と義弘を見た。


 礼儀正しい角度。温度のない言葉。自分たちを指す言葉は必ず“我々”。


「市長の手腕は評価する」


 褒め言葉なのに、胸が冷える。評価という言葉は、上から落ちる。


「インフラ維持の任務は達成された。よって、SOFFestは撤収する。高速機動隊は通常業務に戻す」


 撤退ではない。通常化だ。

 つまり、いつでも戻れるという意味だ。


 義弘は杖に手を置いた。膝が痛む。痛みは気にしない。気にすると、やるべきことが遅れる。


「……感謝はしない」


 義弘は言った。礼儀は守るが、媚びない。


「評価する」


 使節は同じ言葉を返した。感情はない。

 この会話は勝敗ではない。責任線の会話だ。


 廊下に出ると、別の圧が待っていた。


 日本国からの通知。権限逸脱。越権。手続きの逸脱。

 市長のリコール要求。


 義弘は紙を見て、折り畳んでポケットに入れた。


 気にしている暇がない。

 気にするほど、街が燃える。


 義弘が気にしているのは一つだけだ。


 アリスのNECROテックを直すこと。



 OCMの施設は静かだった。


 静けさは安全の顔をしている。だが安全の顔ほど、管理が深い。

 監視カメラの目は動かない。動かない目は逃げ道を減らす。


 アリスは、義弘が派遣した治安機関の監視のもとで、療養施設にいた。

 逮捕された“ゴースト”のはずなのに、彼女の周りだけが妙に日常に近い。


 同じNECROテックの治療者の少年少女たちがいた。

 彼らにとってアリスは英雄ではない。女王でもない。

 ただ、同じ側の大人だ。


 少年が恐る恐る言う。


「……ほんとに、ゴースト?」


 アリスは目を細め、鼻で笑った。口が悪いのは変わらない。だが刃は弱い。


「さあね。ネットの中の私に聞け」


 少女が言う。


「怖い?」


 アリスは少しだけ黙り、答えた。


「怖いに決まってるだろ。怖くない奴は、だいたい壊れる」


 言ってから、アリスは小さく付け足した。


「……でも、ここは壊す場所じゃない」


 その言葉に、少年少女たちは息を吐いた。

 彼らの安心は、編集動画の安心より重い。


 平穏だった。

 だからこそ、怖い。


 平穏はいつも、誰かが“準備”している時間だ。



 準備している者は、OCMの上層にいた。


 オスカーは修理室のガラス越しに、作業台を見ていた。

 音は少ない。光は白い。手だけが忙しい。


 作業台の上に並ぶのは、三機。


 バンダースナッチ。

 トウィードルダム。

 トウィードルディー。


 そしてもう一つ、別の影。


 シュヴァロフ。


 外装の傷だけを直す修理ではない。

 制御系。ログ。安全制限。フェイルセーフ。

 “完全修理”。


 完全修理という言葉は、優しい言葉に見える。

 だが優しい言葉ほど、縛るのに向いている。


 オスカーは穏やかな声で言った。


「安全のためだ」


 誰に言っているのか分からない。部下か、自分か、あるいは未来の責任者か。


 部下が言う。


「三機は復帰します。シュヴァロフも、完全に。……ただ、ログの扱いは」


 ログ。

 争点はいつもそこに集まる。

 何が記録されているか。誰の命令だったか。誰が責任を取るか。


 オスカーは表情を変えない。変えないまま、答える。


「整える。責任線を整える。整えた責任線だけが社会を生かす」


 社会を生かす。

 それは本当だ。だから怖い。


 オスカーは机に置かれた別の書類を手に取った。

 薄い紙の束。文章は整っていて、逃げ道がない。


 “運用再配備案(暫定)”


 内容は簡単だ。

 アリス本人は監視下で動けない。

 なら、三機――そして完全修理されたシュヴァロフを、別のNECROテックエージェントに使役させる。

 名目は「安全」「治療環境の安定」「再発防止」。

 裏の目的は「運用資産の再定義」。


 部下が息を飲む。


「シュヴァロフまで……ですか」


 オスカーは穏やかに言った。


「彼は道具ではない。だからこそ、管理が必要だ」


 矛盾している。

 矛盾しているのに、合理として成立してしまう。

 それがオスカーの怖さだった。


 窓の外に影が差す。


 OCM海外部門の圧が見え隠れする。

 “リスク資産は切り離せ”という冷たい正しさ。

 そしてオールドユニオンの匂いも混じる。

 “中立性の材料が欲しい”という、別の冷たさ。


 オスカーは、どちらにも笑わない。

 笑わないまま、ペンを取った。


 机上の紙は整いすぎている。整いすぎているから、止めにくい。

 止めにくい書類が、一番よく人を動かす。


 オスカーは署名欄の前で一瞬だけ止まった。

 止まった指が、子どもたちの嘆願を思い出す。


――生かしてください。


 その言葉は、書類に書けない。

 書けないから、オスカーは書類で生かすしかないと思ってしまう。


 オスカーは静かに、署名を入れた。


 不穏な承認だった。



 その夜、修理台の上で、三機の“目”が一度だけ灯った。


 バンダースナッチが、何も言わずに光る。

 トウィードルダムが、微かに角度を変える。

 トウィードルディーが、沈黙のまま焦点を合わせる。


 そしてシュヴァロフの起動チェックが走る。


 完全修理された目は、以前より澄んでいた。澄んでいるほど、冷たい。


 作業員が言う。


「正常。全系統、応答」


 オスカーはガラス越しにそれを見た。

 穏やかな顔のまま、短く呟く。


「……よし」


 “よし”は、安心の言葉に聞こえる。

 だが同じ“よし”が、誰かの自由を終わらせる合図にもなる。



 療養施設では、アリスが子どもたちとカードゲームをしていた。


 負けた少年が悔しそうに唇を尖らせる。


「ずるい」


 アリスは鼻で笑う。


「ずるくない。お前が弱いだけ」


 言い方は悪い。だが目は笑っている。

 子どもたちは笑う。笑い声は軽い。軽いのに、今は救いだった。


 窓の外は静かだ。列はない。

 代わりに、画面の中に列がある。編集動画の中の列。考察の中の列。


 腹ごなしの時間。


 アリスはふと、胸の奥が落ち着かないのを感じた。

 理由は分からない。分からないから、嫌な予感だけが残る。


 その予感は、修理台の上の“目”の光と、どこかで繋がっている。


 平穏は勝利じゃない。

 平穏は、次の利用の前の静けさだ。


 そして静けさは、いつも遅れて牙を出す。

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