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第百五十五話 中立の檻

 病室のテレビは、朝から同じ映像を流していた。


 死者ゼロ。負傷者多数。逮捕者多数。


 “幸い死者はいなかった”という言い回しが、安心のために繰り返される。だが義弘には、安心より先に腹の底へ沈むものがあった。

 死者がいないのは、奇跡ではない。ぎりぎりの線で、偶然が勝っただけだ。


 机の上のスマートフォンが震えた。義弘の指が伸びるより先に、白い毛のウサギが跳ねるように椅子へ乗った。


 トミーだった。


「見たか」


 義弘は画面を見たまま頷いた。膝が痛む。膝だけじゃない。体が重い。だが重さを言い訳にできる日は、とうに終わっている。


「……現場は?」


 トミーは耳を揺らし、淡々と報告する。


「列は散った。散っただけだ。形を変えた列が増えてる。今の新開市は《サムライ・ウィーク》じゃない。《アリス・ウィーク》だ」


 義弘の眉がわずかに動いた。侮辱に近い言葉だった。国家のイベントが、都市の混乱で塗り替えられている。


「市民は?」


「『返せ』だ。簡単な言葉ほど強い。返せ、返せ、返せ。……見物も混ざってる。正義の顔も混ざってる。あいつら、また祭りを作る」


 トミーは一拍だけ置いて、続けた。


「アリスは拘束されたまま。使節は笑わない。笑わない奴ほど頑固だ」


 義弘は息を吐いた。息が白くならない。見えない寒さが、胸の奥で固まっていく。


「……行く」


 看護師の顔が浮かぶ。止められる。医師の声が浮かぶ。叱られる。

 でも、止まる理由はない。止まったら、街が止まる。


 義弘はベッドの端に手をついた。膝が抗議する。抗議の痛みを無視して立とうとした瞬間、トミーが短く言った。


「英雄ごっこはやめろ。市長だろ」


 その言葉が、義弘の背中を支えた。英雄で立てば折れる。市長で立てば、折れても戻れる。


「……分かってる」


 義弘は杖を取った。膝を庇いながら、歩幅を小さくする。格好は悪い。だが格好を気にした瞬間、政治は負ける。



 庁舎前の空気は、薄いのに重かった。


 列がある。昨日の列とは違う。武装でもない。突進でもない。デモ行進という名の列だ。

 プラカードはまちまちで、声だけが揃っている。


「アリスを返せ!」


 揃った声は、音の壁になる。音の壁は、人の心を押す。押された心は、正しさを固める。


 沿道の端末の光が増える。光が増えるほど、街は一つの絵に固定される。


 CRADLE IDOL GUARDの四人が、遠巻きに誘導をしている。彼女たちは「散れ」と言わない。「歩け」と言う。「止まるな」と言う。止まらなければ、潰れにくい。

 だが彼女たちの声は、いつでも切り抜かれる。切り抜かれれば、弾圧の声になる。


 義弘はそれを見た。見て、歯を食いしばった。

 この街は、正しい声が正しく届かない。


 庁舎の中は静かだった。外の熱が壁にぶつかって、低い唸りに変わっている。


 会議室に通される。椅子が硬い。膝が痛い。

 机の向こうに、アライアンスの使節がいた。


 礼儀正しい角度で頭を下げる。温度がない。


「我々は規範を維持する」


 義弘は先に言った。感情ではなく、行政の言葉を選ぶ。ここで怒鳴れば、外の列に火をつける。


「拘束の根拠を示してほしい。期限もだ。再発防止の代替案も提示する。市民への説明責任がある」


 使節は瞬きの間を変えない。瞬きを変えない人間は、言葉を変えない。


「我々は規範を適用する。例外は外す」


 義弘は踏み込む。膝が痛む。だが痛みより、街の重さが痛い。


「例外を求めているわけではない。出口を求めている。出口がない拘束は、燃料になる。見ただろう。列は散っていない。形を変えた」


 使節は答えをずらさない。ずらさないことで、相手に諦めを押し付ける。


「中心が手元にある限り、混乱は管理できる」


 中心。手元。管理。

 義弘の背中が冷える。それはつまり、拘束が“鎮静”ではなく“装置”になっているということだ。


「……アリスは人だ」


 義弘が言った。短い。だが短いほど刺さるべき言葉だった。


 使節は淡々と返す。


「我々は感情で動かない。規範で動く」


 義弘は拳を握りそうになって、ほどいた。拳を握れば映像になる。映像になれば「市長が激怒」と切り抜かれる。切り抜かれれば外の列が太る。

 太らせたくない。太れば潰れる。


「面会は認めるのか」


 使節は答える。


「検討する。だが解放ではない」


 飴だ。条件付きの飴。飴を出すのは、鞭を振るう準備だ。



 同じ建物の別室で、オスカーが書類を机に置いた。


 第三案――監督付きの移送・保護。切り捨てでも、無条件解放でもない。中心の熱を下げるための枠だ。


 オスカーは穏やかな声で言った。


「列は中心を欲しがる。中心を消せば別の中心を作る。なら中心の熱を管理する。これが現実的だ」


 使節は書類を受け取らない。受け取らない礼儀は、拒否の礼儀だ。


「それは例外だ」


 オスカーは表情を変えない。変えないまま押す。


「例外ではない。運用だ。事故再発の確率を下げる」


 使節は短く、刃を置く。


「我々は例外を外す」


 その一言で、会話は政治から宗教になる。宗教になった規範は、折れない。折れないから怖い。


 オスカーの脳裏に、子どもたちの拙い動画がよぎる。

 『消さないでください』

 『生かしてください』


 それは合理に勝てない。だが合理の内部に穴を開ける。穴から、情が漏れる。漏れた情は、決断を遅らせる。

 遅らせることは罪でもあり、救いでもある。


 オスカーは言葉を選んだ。


「なら、我々が枠を変える。枠が人を殺すなら、枠が間違っている」


 使節は顔色を変えない。変えないまま、圧だけを増やす。


「我々は中立だ」


 中立。

 その言葉が出た瞬間、オスカーは理解した。中立が口にされるとき、中立はもう傷ついている。



 午後、上から圧が来た。


 会見。通達。あらゆる言葉が、丁寧に、冷たく、新開市を撫でる。


 《サムライ・ウィーク》が《アリス・ウィーク》に塗り替えられている。

 国家の面目が潰れている。

 安全ではなく、面子が焦げている。


 要求は、正しい言葉で包まれている。


 収束。

 回復。

 責任の所在。

 再発防止。


 義弘はそれを聞きながら、歯を食いしばった。上は自治を愛さない。上は結果を愛する。結果のためなら、街の皮膚を剥ぐ。


 そして、こういう匂いを嗅ぎつける者が必ずいる。


 オールドユニオンが動く。表では正義を語り、裏で材料を集める。

 「アライアンスの中立性は保たれているのか」

 この問いを、最もよいタイミングで投げるために。


 OCMの内部も割れる。海外部門は硬くなる。「切れ」と言う。

 オスカーは第三案を握る。だが第三案は、政治のテーブルに載った瞬間、例外に見える。


 例外に見えた瞬間、規範は刃になる。


 夕方、使節の端末に短い通信が届いた。


 氷の母からだ。


 文章は少ない。少ないほど重い。

 動くほどのことではないから、母は動かない。だが“懸念”という言葉だけで、現場は凍る。


――新開市におけるアライアンスの中立性は保たれているか。


 使節は読み、すぐに返信を打つ。指が迷わない。迷わない指は、迷わない判断を持つ。


――我々は中立だ。

――規範は例外を外す。

――混乱は管理できる。


 送信。


 送信された瞬間から、中立は“証明を求められる概念”になる。

 証明が必要になった中立は、もう中立ではない。



 夜、義弘は会見台に立った。


 膝が痛む。顔色は良くない。声も万全ではない。

 だが言葉は折れなかった。折れれば外の列が刃になる。刃になれば、また誰かが倒れる。


 フラッシュが焚かれる。端末が上がる。光が増える。

 光が増えるほど、絵が固定される。


 義弘は、固定されても意味が残る言葉を選んだ。短く、行政の言葉で。


「アリスは市の問題だ。企業でも治安でもない。市の問題だ」


 ざわめきが起きる。ざわめきは切り抜きの準備だ。

 義弘は間を置かず、続けた。


「市として出口を作る。拘束の根拠、期限、運用、そして中立性の説明を求める。市民に説明する責任がある」


 “出口”。

 その言葉が、外の列に届く。届いた瞬間、列は熱くなる。熱くなるほど危ない。

 だが出口がないなら、列はさらに燃える。燃えるなら、出口を言うしかない。


 会見の最後、義弘は一度だけ息を吐いた。


「誰も死なせない。昨日も、今日も」


 その言葉は正しい。正しい言葉は、時に一番燃える。

 燃える言葉は、導線屋の角度を揃えさせる。


 同じ夜、会見映像が流れる画面の端に、別の映像が割り込む。


 アライアンス使節が、淡々と記者に答えている。


「我々は規範を適用する。例外は外す」


 記者が問う。


「中立性への懸念が出ていますが」


 使節は間を置かない。間を置かない言葉は、刃だ。


「我々は中立だ」


 中立。

 その二文字の上に、テロップが乗る。


“中立性に懸念”


 文字は小さいのに、街を切る。


 外では列がまだ叫んでいる。


「アリスを返せ!」


 内では規範がまだ言っている。


「例外は外す」


 そしてその間で、義弘の膝は痛み、オスカーのペンは止まりかけ、氷の母の一言が凍りついたまま残っている。


 中立の檻は、音を立てずに閉まっていった。

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