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第百五十四話 「アリス・ウィーク」

 朝のニュースは、数字から始まった。


 死者ゼロ。負傷者多数。逮捕者多数。


 “幸い死者はいなかった”という言い回しが、どの局でも繰り返された。幸い、という言葉がつくほどの夜だったのだと、遅れて街が理解する。


 画面の中では、同じ映像が何度も流れている。


 路面に溶ける透明の獣の「音」――VX-07 HOUNDの乾いた打音。

 壁のように進む影――VX-14 ELEPHANT。

 女王の背中――アリス。

 その背後の三つの影――バンダースナッチ、トウィードルダム、トウィードルディー……と断定する者もいれば、「正体不明の随伴」と呼ぶ者もいる。


 不明は燃料だ。燃料は世論を太らせる。


 新開市は《サムライ・ウィーク》のはずだった。だが今、画面もネットも、その名称を口にしなくなっていた。


 代わりに出るのは、もっと短い呼び名だ。


《アリス・ウィーク》


 短い言葉ほど、拡散が速い。拡散が速いほど、街の呼吸がそれに合わせてしまう。


 昼前には、街の中心に新しい列ができていた。


 昨日の列は解散した。高速機動隊とOCMの圧と、アリス側のドローンの“影”によって、物理的には散らされた。散らされたはずだった。


 だが列は、形を変えるだけで消えない。


 今度の列は、デモ行進だ。


 プラカードは統一されていない。紙も布も段ボールもある。文字の癖もバラバラだ。だが書かれている言葉だけが揃う。


――アリスを返せ。


 声も揃う。


「アリスを返せ!」


 揃うほど危ない。揃った瞬間、列は目的を持つ。目的を持った列は、自分の正しさを信じる。信じた正しさは、他を踏む。


 列の先頭には、モブのサムライ・ヒーローが混ざっていた。義弘ではない。別人のサムライが、別の流儀で「守る」を掲げている。正義の顔が、また揃う。


 沿道には、見物人が群がる。見物人は列に触れていないつもりで、列の重さを増やす。端末の光が増えるほど、列は固まる。


 そして列の縁――境界線の影には、導線屋の匂いが混じっていた。誰も叫ばない。ただ、角度だけが揃う。足の止まる場所が、半歩だけずれる。

 「映えるデモ」が、静かに育つ。



 CRADLE IDOL GUARDの四人は、遠くからそれを見ていた。昨日は事故を止め、今日は列を守る役に回る。しかし守る姿ほど、見方によっては“抑え込む側”に見える。


 綾瀬ひかりは、いつものように笑いそうになって、飲み込んだ。笑えば切り抜かれる。切り抜かれれば燃える。燃えれば列が太る。


 久世玲奈は、短く言った。


「こっちが悪者になる」


 三枝つばさは心配の顔で断定する。


「どっちでもいい。倒れたら怪我する。怪我したら救急が詰まる。――それだけは止める」


 水無月みのりは、地図を見ながら、列の空気を読む。


「止まる場所が固定されてる。固定は危ない。……流すしかない」


 四人の仕事は、派手じゃない。派手じゃない仕事ほど、重要なのに。



 その頃、アライアンスの使節は庁舎の会議室にいた。


 言葉は丁寧で、温度がない。自分たちを指す言葉は必ず“我々”。


「我々は規範を維持する。例外は外す。氷の母が動くほどの事態にしない」


 誰かが恐る恐る言う。


「しかし……市民の反発が」


「反発は現象だ。現象には原因がある。原因を管理する」


 管理。正しい言葉だ。正しすぎて、街の皮膚を剥ぐ。


 F.QRE.D.QVEは増員配置される。鎮圧ではない。再発防止運用だと言う。言い方を選ぶほど、やっていることの輪郭が濃くなる。


 使節の眼は、窓の外の列を一瞥して、すぐ戻った。


「我々は、火を囲う」


 囲うための檻が、今まさに作られようとしていた。



 拘束施設の内部は、音が少なかった。


 規則の音だけがある。扉の開閉。靴の硬い音。機械の短い電子音。

 窓の外は見えない。外の光も見えない。見えないものは、不安になる。だが不安を外へ吐ける場所がない。


 アリスは椅子に座っていた。手は自由ではない。自由ではないことが、誰かの安心材料になっているのが腹立たしい。


 彼女は黙っている。黙っているほど、外では勝手な物語が増える。


 女王は檻にいる。

 守護者は封印された。

 彼女を返せ。


 外の音は届かないはずなのに、届いている気がした。届いているのは“音”ではなく、熱だ。熱は、壁をすり抜ける。


 アリスは小さく息を吐いた。


「……好きだね、私を道具にするの」


 独り言は、誰の耳にも入らない。入らないから安全だ。安全な言葉ほど、虚しい。


 バンダースナッチ、トウィードルダム、トウィードルディーの所在は知らされていない。没収されたのか、隔離されたのか、不明のままだ。不明は燃える。燃えるほど、外の列は太る。


 ここにいるだけで、街を太らせている。


 それが、いちばん最悪だった。



 OCM本部の会議室では、別の数字が並んでいた。


 ブランド毀損。法務リスク。事故再発確率。海外投資家の反応。自治体との関係。


 海外部門の声は、通話越しでも冷たい。


「中心がある限り列は再発する。切り離しが必要だ。契約解除。責任の外部化。処理を」


 処理。人を処理と呼べる温度の低さが、企業の強さだ。


 オスカーは画面を見たまま、表情を変えなかった。変えないことで、場を支配する。


「あなた方の懸念は理解する」


 理解はする。だからこそ冷たくなれる。冷たくなれる者ほど、決断が早い。


 オスカーは書類の束の一番上を指で押さえた。そこには“切り捨て”の文言が整っていた。正しく、無駄がなく、逃げ道がない。


 逃げ道がない文章は、よく切れる。


 部下が言う。


「アリスを切れば、列は――」


「弱まる可能性がある」


 オスカーの声は穏やかだった。穏やかだから、怖い。


「だが別の中心が生まれる可能性もある。列は中心が欲しい。中心が消えれば、中心を作る」


 彼は知っている。中心は人ではない。現象だ。


 そこへ、別の束が机に置かれた。


 封筒には手書きの文字。ぎこちないペン跡。宛名はオスカー。


 中身は嘆願だった。


 NECROテック患者の少年少女――治療室の中で暮らす子どもたちが、ニュースとネットでアリスを知った。戦闘の正義も政治も知らない。ただ、画面の中の背中だけを見た。


 怖いのに立っていた背中。

 叩かれても立っていた背中。

 自分たちと同じ、怖さを持っているように見えた背中。


 動画もある。拙い。編集もない。照明も暗い。ただ、目だけが真剣だ。


『お願いです』

『消さないでください』

『助けてって言える人が、いなくなります』

『アリスを返して、じゃなくて』

『アリスを、生かしてください』


 “返せ”ではない。

 “生かせ”。


 その言葉は、列とは違う。列の言葉は熱い。子どもの言葉は冷たい。冷たいから、骨に届く。


 オスカーの指が、紙の角を押さえたまま止まった。


 兄弟姉妹――という言葉が、彼の中で古い引き出しを開ける。閉じたはずの引き出しが、勝手に開く。


 オスカーは一瞬だけ、視線を落とした。落とした視線は、感情の痕跡だ。痕跡はすぐ消す。だが消しても、残るものは残る。


「……切るのは簡単だ」


 誰に言うでもなく呟いた。


 部下が息を飲む。


「しかし」


 オスカーは、切り捨て書類の束を裏返した。


 裏返すだけで、場の空気が変わる。合理が一段、後ろへ下がる。


 オスカーは、別の紙を取り出した。白紙に近い。だが上部に短い見出しがある。


 移送・保護・監督付きの――第三案。

 切り捨てでも、無条件解放でもない。

 中心を消さずに、中心の熱を管理しようとする案。


 危険だ。政治的には“例外”に見える。

 例外は、使節が最も嫌う。


 それでもオスカーは、ペンを取った。


 子どもたちの嘆願は、彼の合理を壊さない。合理の中に穴を開ける。その穴から、情が染み出す。情は判断を鈍らせる。だが鈍りは、時に人を人に戻す。


 オスカーは静かに言った。


「処理ではなく、管理で行く。……この街は、中心を消すとさらに燃える」


 部下が言う。


「海外部門が反発します」


「反発は現象だ。現象は管理できる」


 彼は使節の言葉を借りた。借りた瞬間、自分が嫌になった。だが嫌になっても、手は止めない。


 政治は好き嫌いで動かない。動かした瞬間に死ぬ者が出る。



 その夜、庁舎の廊下で、オスカーと使節は向かい合った。


 使節は礼儀正しい角度で頭を下げる。温度はない。

 オスカーも同じように頭を下げる。温度を見せない。


 オスカーは、第三案の書類を差し出した。表情は穏やかなまま。


「再発防止は必要だ。だが切り捨ては、列を別の形で増やす。監督付きの移送で熱を下げる」


 使節は紙を受け取らない。受け取らないことが、拒否の礼儀だ。


「それは例外だ」


 オスカーは言う。


「例外ではない。管理だ」


 使節は、やはり淡々としていた。淡々としているほど、逃げ道がない。


「我々は規範を適用する。例外は外す。氷の母が動くほどの事態にしないために」


 “氷の母”が出た。出た瞬間、この会話は個人ではなく、構造の会話になる。構造は人を潰す。潰すほど安全になるという発想が、ここにある。


 オスカーは一歩も引かない。引けば簡単だ。簡単な方へ行けば、子どもたちの目が死ぬ。


 彼は穏やかに言った。


「なら、我々の枠を調整する。枠が人を殺すなら、枠が間違っている」


 言い切った。言い切った瞬間、部屋の温度が下がる。


 使節は、ゆっくりと頷いた。頷き方が正確すぎる。


「我々は例外を外す」


 その一言が、刃だった。


 同じ夜、街の外ではデモの列がまだ細く続いていた。


「アリスを返せ!」


 その声は熱い。熱いほど危ない。

 熱い声の上に、明日の決定が落ちてくる。


 オスカーの第三案は、政治の入口に立っただけだ。

 入口に立った瞬間が、一番危険だ。


 例外は外す。

 その刃が、明日どこへ振り下ろされるのか――誰もまだ知らない。

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