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第百五十一話 守るための分裂

 規範の初日は、静かに始まった。


 街は一見、落ち着いている。いつもなら交差点の角に溜まる群れが、今日は溜まらない。テープが引かれ、簡易ゲートが立ち、立つ場所と歩く場所が“正しく”分けられている。


 正しい。正しすぎて、息が詰まる。


 要所には、目立たない装備の人影が“置かれて”いた。高速機動隊F.QRE.D.QVE――出動ではない。配置だ。映えない統制が、街の輪郭を硬くする。そこに立つ者たちは声を荒げない。荒げないから、余計に怖い。


 現場の外周で、アライアンスの使節が淡々と運用を見ていた。笑わない。礼儀だけが正確だ。自分たちを指す言葉は必ず“我々”。


「我々は規範を適用する。例外は外す。氷の母が動くほどの事態にしないために」


 周囲の担当者は頷く。頷きは従属だ。従属は秩序だ。秩序は安全だ――そう言い切れるほど、世界は単純じゃない。


 コンサートホールの控室では、CRADLE IDOL GUARDの四人が、同じ文面を同じ速度で読み終えた。


 読み終えたあとに残る反応は、それぞれの癖の形をしていた。


 久世玲奈は、机に置いたインカムに指を添え、短く言った。


「了解」


 短い言葉が現場を動かす。本人は動かしている自覚がない。動きが綺麗で、フォームが正しい。その正しさが、そのまま威圧になることにも。


 水無月みのりは、条項の数字に目が吸い寄せられ、勝手に輝いた。輝きは喜びじゃない。数字が動く瞬間に目が反応する癖だ。


「撮影区域、半径が……ここ、滞留点になる。規範で“止まる場所”が固定される。固定は危ない。列ができる」


 みのりの口から「列」が出るたび、空気が硬くなる。


 三枝つばさが、心配そうな顔のまま断定する。


「規範で事故は減る。でも過剰は事故を生む。縛られた人は、縛られない場所で暴れる。――暴れる」


 最後の断定が、少しだけ刺さりすぎた。刺さるから、動ける。動けるから、救える。つばさの正論はいつもそうだ。


 綾瀬ひかりが、笑ってしまった。緊張すると笑いながら早口になる癖が出る。


「えへへ……ごめん、笑ってる場合じゃないのに、これ火種が増える形だよね……! でも大丈夫、文言は作れる。安心は作れる。作るしかない……!」


 笑いが焦りの蓋になっている。


 四人の間に、細い亀裂が走る。誰かが悪いわけじゃない。守り方が違うだけだ。守り方が違うとき、現場は最も危ない。


 久世玲奈が言う。短く切る癖が、無自覚に相手を追い詰める。


「迷う時間はない」


 水無月みのりが、静かに返す。迷わない現場が怖いのを知っている。


「迷わない現場が、一番詰まる」


 三枝つばさが、心配の顔で断定する。


「二人とも正しい。だから“限度”を決める。今日の現場は“散らす”より“流す”」


 綾瀬ひかりが、早口でうなずきながら、言葉に変える。


「うん。『禁止』じゃなくて『お願い』で流す。お願いの形で固定する。……固定って言葉、嫌だけど」


 嫌でも使う。嫌でも守る。そういう日だ。


 アリスは、規範の境界線の外に立たされていた。


 境界はただのテープだ。だがテープは、銃より人を止めることがある。止められるのが正しいと、多数が信じているからだ。


 アリスは苛立っていた。苛立ちを表に出すと切り抜かれるので、表情は動かさない。ただ、目だけが鋭い。


 使節が、近づいてくる。礼儀正しい角度で頭を下げるが、温度はない。


「あなたも例外ではない」


 アリスは鼻で笑った。


「知ってる」


 言葉は短い。短いほど、切り抜かれやすい。それでも短くなるのは、余計な言葉が命取りになるからだ。


 そこへ、トミーの声が入る。小さな影が、テープの近くで跳ねた。白い毛の、垂れ耳のウサギ。相変わらず毒舌だ。


「お前、黙るの下手だな。黙った顔が一番燃える」


 アリスは睨む。睨むと燃える。燃えると列ができる。列ができると詰まる。詰まると死ぬ。


 最悪の方程式だ。


 シュヴァロフが近くで落ち着かない。気を揉む表情が隠せない。アリスはそれを見るのが一番面倒だった。


 さらに、入院中の義弘から短いメッセージが届く。


――無理をするな。

――守る順番を間違えるな。

――自分を守れ。


 自分を守れ。その言葉だけが、胸の奥で詰まった。批判は雨だ。濡れるだけだ。だが心配は、骨まで届く。


 アリスは息を吐き、使節に言った。


「……好きにしろ」


 使節は頷いた。頷き方が正確すぎて、余計に冷たい。


「我々は好きにするのではない。必要をする」


 必要。正しい言葉はよく切れる。切れた刃は、味方にも当たる。


 事故は、“悪意”の顔をしていなかった。


 だから怖い。


 規範の境界のすぐ外に、人が集まり始めた。集まり方は穏やかだ。声も荒れていない。彼らは怒っているのではなく、手伝いに来た。見守りに来た。守りに来た。


 アリス信奉の列。


 彼らは善意で並び、善意で立ち止まる。立ち止まる場所が、規範で固定された“撮影区域の外縁”と重なっていた。


 水無月みのりの予感通りだ。列ができる場所が固定されると、列は必ず太くなる。太くなった列は、自分の重さで潰れる。


 綾瀬ひかりの端末が震える。コメントが増える。映像が増える。称賛が増える。


――彼女を守れ。

――私たちが守る番だ。

――道を空けろ。彼女のために。


 “彼女のために”。


 善意は、目的をひとつに固定すると強い。強すぎると危ない。


 三枝つばさが、心配の顔で断定する。


「このままだと倒れる。倒れたら連鎖する。連鎖したら救急が詰まる。――今、動く」


 久世玲奈はすでに動いていた。正しいフォームで、列の横に立つ。腕を上げるだけで、圧が生まれる。


「戻って。そこ、詰まる」


 短く切る。善意の人間は言い返せない。言い返すと自分が悪者になるからだ。だから黙って頷く。頷いて、しかし動かない。


 動かない善意は、石になる。


 水無月みのりが、列の空気を読む。押し返すのではなく、自然に流す。選んだ気にさせる。


「こっち、空いてる。……そう、そっち。見守るなら、散らばって。散らばった方が見える」


 みのりの言葉は柔らかい。柔らかいが、導線を変える。


 そのとき、上空を小さな影が横切った。


 暴走ドローンの残党――なのか、模倣犯なのか、判別できない速度で飛ぶ。


 群衆が一斉に顔を上げた。


 顔が上がると、足が止まる。足が止まると、後ろが押す。後ろが押すと、前が崩れる。


 転倒は、怒号より速い。


 最初の一人が膝をつき、次の一人が肩を掴み、掴まれた肩が崩れ、列が波になる。波は救助に見えて押し合いに変わる。押し合いはパニックに変わる。


 その瞬間だけ、列は“敵”の顔をした。


 アリスは境界の外から見ていた。見ているだけで、身体が動く。だがテープがある。規範がある。例外がない。


 アリスの拳が震えた。震えた拳は、怒りの拳に見える。怒りの拳は切り抜かれる。切り抜かれた拳は、また列を太くする。


 最悪の循環だ。


 綾瀬ひかりが、笑いながら早口になる。焦りの声が“安心”を作ろうとして歪む。


「大丈夫、大丈夫です、落ち着いてくださいね! 深呼吸、深呼吸! いま押さないで、押さないでください! ゆっくり、ゆっくり――!」


 声は明るい。明るいから、逆に切り抜かれる危険がある。“演出”“隠蔽”と叩かれる危険がある。それでも、今は声が必要だった。


 三枝つばさは、心配の顔で断定する。断定は刺さる。刺さるから止まる。


「押したら倒れる。倒れたら怪我する。怪我したら救急が詰まる。――押さないで」


 久世玲奈は、正しいフォームで人を押し返す。押し返し方が綺麗すぎて、威圧に見える。


「下がって。今」


 水無月みのりは、崩れた列を流す。流す場所を先に作っておく。空気の逃げ道を作る。


「左、空いてる。左へ。……そう、左。足元見て。見て、歩いて」


 四人の動きは、わずかに効いた。わずかにしか効かないのが怖い。


 群衆の中で、誰かが叫んだ。


「彼女を守るんだろ! アリスを!」


 その叫びが、列をもう一度固める。


 固まった列は、事故の形になる。


 アリスは、とうとう口を開いた。


 境界の内側に入れない。入った瞬間、例外になる。例外は外す。正しさが壁になる。


 だから、言葉だけを投げる。投げた言葉も切り抜かれる。だが投げないと死ぬ。


 アリスは低い声で言った。


「私を守るな」


 声が通った。通ってしまった。


「救急を守れ。……道を空けろ」


 正しい。正しすぎる。


 善意の列は頷く。頷いて、しかしまだ動きが遅い。頷きが遅いのは、信じているからだ。信じているほど、判断が固まる。


 アリスは歯を食いしばった。叩かれるのは慣れている。信じられるのは慣れていない。信じられる熱は、足元を焼く。


 トミーが、境界の端でぼそりと言った。ウサギの小さな声は、意外に刺さる。


「お前のせいにされるぞ」


 アリスは返さない。返した瞬間、また火種になる。


 アライアンス使節は、転倒事故を見ていた。


 事故は規範の正当性になる。規範は強化の理由になる。理由があれば、氷の母は動かない。動かないために、現場は冷える。


 使節はインカムに短く言った。


「我々は規範を強化する。例外は外す」


 誰かが尋ねる。


「アリスも、ですか」


「例外ではない」


 淡々とした声。淡々としているほど、恐ろしい。


 使節は続けた。


「F.QRE.D.QVEは動かさない。動かさずに済ませる。……ただし、置く場所を増やす」


 “置く”。


 その一語で、街がさらに硬くなる。


 事故のあと、ホールの裏口に戻ったCRADLE IDOL GUARDの四人は、互いの顔を見た。


 言うべきことが多すぎて、言葉が出ない。言葉を出すと、分裂が表に出る。分裂が表に出た瞬間、切り抜かれる。切り抜かれた分裂は、炎上の燃料になる。


 それでも、内部の亀裂は消えない。


 久世玲奈が短く言った。


「押し返しが必要だった」


 水無月みのりが静かに返す。


「押し返すほど固まる。固まった列は潰れる」


 三枝つばさが心配の顔で断定する。


「二人とも正しい。でも正しさがぶつかると事故になる。次は“ぶつからない手順”を作る」


 綾瀬ひかりが笑って、早口で言う。笑いは焦りだ。焦りは、守りたい証拠だ。


「うん、手順を文章にする。言葉で固定する。固定したら燃えるかもしれないけど、燃える前に命が守れればいい……!」


 四人は同じ方向を見ている。守る方向だ。けれど、守り方が違う。


 それが分裂だ。


 分裂を抱えたまま、現場へ戻らなければならない。


 夕方、空が薄くなるころ。


 端末には新しい映像が流れていた。転倒する群衆。押し返す玲奈。断定するつばさ。誘導するみのり。笑顔で叫ぶひかり。境界の外で立つアリス。冷たい目の使節。映えない影のF.QRE.D.QVE。


 誰かが悪い。誰かが正しい。どれも半分正しい。だから最悪だ。


 OCMの別室で、オスカーはそれらを眺めていた。穏やかな顔で。


「ほらね」


 誰に言うでもなく呟く。


「秩序が必要だ。枠組みが必要だ。……そして英雄が必要だ」


 英雄。便利な言葉。守る名目で縛れる言葉。


 新開市は、守るために引いた線で、少しずつ二つに割れていく。


 その夜、通達が回った。


――規範を強化する。

――例外は外す。


 そして、善意の列は消えなかった。


 消えない列を、導線屋がどこかで見ていた。悪意は、善意を素材にするのが得意だ。


 街の余韻は、もう音楽ではなくなっていた。

 余韻は、硬い息と、細い線と、群衆の重さになって残った。

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