第百五十話話 規範と信徒
朝の通知は、誰の体温も持っていなかった。
新開市の端末に一斉に落ちた文面は、整いすぎていて、逆に怖い。語尾に怒りも優しさもない。あるのは“正しさの角”だけだった。
――規範適用。
――例外は外す。
――現場行動は許可制。
――撮影区域・通行区域の再設定。
――違反は即時隔離。
隔離。言葉が冷たく、きちんと刺さる。
CRADLE IDOL GUARDの控室では、四人が同じ紙を同じ速度で読み終えた。読み終えたあとに残る反応は、それぞれの癖の形をしていた。
久世玲奈は、インカムを机に置いて短く言った。
「了解」
声が短いのはいつも通りだ。だが目だけが冷える。綺麗なフォームで立ち、綺麗なフォームで従う。従うほど、自由が削れるのを本能で嫌う。
水無月みのりは、規範の条項の数字を追い、目が勝手に輝いた。輝きは喜びじゃない。数字が動く瞬間に目が反応してしまう癖だ。
「撮影区域、半径が……うわ、これ、滞留点が増える。抑えるための枠なのに、列ができる場所が固定される……視聴維持率、上がるやつ」
言ってから、しまったように口を閉じる。上がるのは、火の方だ。
三枝つばさは、心配そうな顔のまま断定した。
「規範で事故は減る。でも別の事故が増える。人は縛られると、縛られない場所で暴れる。――暴れる」
最後の“暴れる”が、必要以上に刺さった。善意で断定されると、未来が確定してしまうみたいに感じる。
綾瀬ひかりは、笑ってしまった。緊張すると笑いながら早口になる癖が出る。
「えへへ……ごめん、笑ってる場合じゃないんだけど、こういうの、炎上の火種が増える形だよね……! でも大丈夫、文言は作れる。安心は作れる。作るしかない……!」
笑いが、焦りの蓋になっている。
四人は同時に思う。昨夜の余韻が、これで完全に終わる、と。
アリスは、通知を見ても眉一つ動かさなかった。
端末に積み上がる批判は、もう数え切れない。世論、ファン、導線屋、過激ファン、OCM内部、そしてCRADLE IDOL GUARDにまで飛び火している。
――コンサート放棄。
――暴言。
――乱暴。
――英雄気取り。
――危険。
――要監視。
アリスはNECROテックエージェント“ゴースト”として活動してきた。その頃から、他者に嫌われることは仕事の一部だった。批判も攻撃も、身体に当たる雨みたいなものだ。濡れるが、骨までは届かない。
だから平然としていられる。
ただし、雨の音が変わるときがある。自分を打つ雨ではなく、自分の周りを打つ雨になったときだ。
シュヴァロフが、その音を気にしていた。何か言いたげに口を開き、結局閉じる。そういう“気がもむ沈黙”が、アリスには一番面倒だった。
さらに、入院中の義弘から届くメッセージは、いつもより短く、心配性になっていた。
――無理はするな。
――君が倒れたら意味がない。
――守る順番を間違えるな。
守る順番。アリスはその言葉に、口の中で苦いものを転がした。言われなくても分かっている。分かっていてやっている。だからこそ、心配されると腹の底が詰まる。
そしてトミーは、相変わらず毒舌だった。
「炎上の燃料、まだ足りないのか? お前が喋るたび足されてる。芸術だな」
笑っているのか、呆れているのか分からない声。アリスは返せなかった。返した瞬間、また切り抜かれる。返さないと、トミーはまた刺す。どちらにしても面倒だ。
そこへ、アライアンスが出張ってきた。
使節が現場の外周に立っている。名札も腕章もない。あるのは、礼儀正しい角度と、氷みたいな目だけだ。自分たちを指す言葉は必ず“我々”。
「我々は規範を適用する。例外は外す。氷の母が動くほどの事態にしないために」
“氷の母”という単語が出るたびに、空気が一段だけ冷える。動かないのに、動くより怖い。
使節は続けた。
「必要なら高速機動隊――F.QRE.D.QVEの即応も可能だ。ただし我々は、動かさずに済ませたい」
動かさずに済ませたい。つまり、動かせるということだ。
アリスはようやく息を吐いた。閉口するのは、批判ではない。制度と心配と毒舌と、冷たい根回しが同時に来ると、言葉の置き場所がなくなる。
「……好きにしろ」
吐き捨てたその声すら、誰かに拾われれば“素材”になる。
それでもアリスは、素材にされることを前提に動き始めた。
炎上は“映え”だ。
アリスはそれを、感情ではなく事実として受け取っていた。映えは視線を集める。視線が集まれば列ができる。列ができれば、導線が生まれる。
なら、列を使えばいい。
列に“映え”を食わせるだけ食わせて、こちらの都合のいい方向へ誘導する。熱を抱え込んで、逃げ道を作る。自分が悪役を引き受ければ、人はそっちを見る。危険の方から目が逸れる。
古い手だ。だが効く。
効くはずだった。
アリスはわざと、カメラが集まる場所に出た。目に映えるように、立つ位置を選ぶ。横からでも正面からでも撮れる角度。人が“物語”を作りやすい画角。
人は、狙い通り集まった。集まって、端末を掲げた。光が増えた。光が増えるほど、背中が熱くなる。背中に刺さる視線が熱を持つ。
アリスはその熱を、表情で受け止めた。怒りでも笑みでもなく、ただの無関心で。
「ほら、撮れよ」
声は低く、切り捨てるようだった。
「お前らの好きな“絵”だろ」
群衆がざわめく。ざわめきは、拡散の準備音だ。
アリスは続けた。口が悪いのは変わらない。だが言葉は計算されている。切り抜かれても、ある程度意味が残るように。
「その代わり、邪魔すんな。救急の道は空けろ。……死にたきゃ勝手に死ね。巻き込むな」
怒鳴り声が上がる。怒鳴り声は、列を太くする。
太くなった列が、アリスの狙った“外側”へ動き始める。危険地点から離れる。導線屋が仕込んだ一点に寄せない。ここまでは思惑通りだった。
アリスは、“悪役”のまま、群衆を誘導する。誘導というより、視線の引っ張りだ。自分を囮にして、危険を外す。
それは自己犠牲的に見えた。
見えてしまった。
折原連は、その映像を見た。
彼は現場にいない。前に出るタイプではない。けれど“列”の音はどこにいても聞こえる。今日の列は、いつもより硬い。熱くて、太い。
折原は、熱を逃がすつもりで、ひとつの投稿を打った。短い、誤解されにくい言葉。音楽家の手癖で、余白のある文章にした。
――見世物じゃない。道を空けろ。
――彼女は、ずっとそれをやっている。
それだけ。余白のつもりだった。
だが余白は、群衆にとって“書き込み放題の壁”になる。
投稿は切り抜かれ、装飾され、合言葉になった。
――彼女は、ずっとそれをやっている。
――叩かれても、守っている。
――今度は、私たちが守る番だ。
善意が、列を作り始めた。
これは導線屋の列ではない。悪意ではない。むしろ真逆だ。真逆だから怖い。
“信徒”の列。
信じる列は、止まらない。止めると悪になる。悪にならずに止める方法は、ほとんどない。
折原は気づく。自分の投稿が旗になっていることに。
慌てて追記しようとする。だが、追記は追記としては読まれない。追記もまた切り抜かれ、別の意味を貼られる。
列は、制御不能になっていく。
CRADLE IDOL GUARDの四人は、異変を早く嗅いだ。
水無月みのりが一番最初に言った。目が輝いてしまう癖を呪うように。
「数字、変だ。……炎上の伸びじゃない。称賛の伸び。称賛の方が怖い。視聴維持率が落ちない。落ちないってことは、“離れない”ってこと」
離れない。離れない列は、滞留する。滞留する列は、事故の温床になる。
三枝つばさが、心配の顔で断定する。
「感動は麻薬になる。麻薬は量が増える。量が増えたら、倒れる人が出る。倒れたら、救急が詰まる。詰まったら、死ぬ」
断定が早い。早いから刺さる。刺さるから動ける。
久世玲奈は短く切った。
「散らす」
「散らせないよ!」綾瀬ひかりが笑いながら早口になった。「だって今、みんな“善意”なんだよ!? 善意って言われたら止まれないの。止めたらこっちが悪者になる……!」
ひかりは息を吸って、早口のまま言葉を整えた。広報の癖で、火の種類を見分ける。
「でも……絵を変える。絵を変えれば列が変わる。『彼女を守る』じゃなくて『道を空ける』に焦点を戻す。今すぐ、公式で“目的”を固定する」
彼女は端末を叩き、短い文面を作る。瞬時に安心を演出できる声は、文字にも乗る。
――お願い:現場付近は救急優先です。
――応援は“道を空ける”ことでお願いします。
――集まらないでください。散らばってください。
短く、柔らかく、しかし逃げ道のないお願い。
三枝つばさがそれに“善意の断定”を添える。
――命を守るために必要です。
――今すぐ、です。
久世玲奈は動く。フォームが正しいまま、人を押し返す位置につく。威圧感が出るのを自覚していない。だが今は、それが必要だ。
「戻って。そこは詰まる」
短く切るたび、列はほんの少しずつ崩れる。崩れ方は遅い。善意の列は、ゆっくりしか崩れない。
水無月みのりが、崩れた列を自然に流す。列の空気を読むのが異様に上手い。
「こっち、空いてる。……そう、そっち。自然に。自然に動いて」
四人の行動は、わずかに効いた。わずかにしか効かないのが、また怖い。
列はまだ強固だった。
その列の中心にいるのが、アリスだ。
アリスは、自分が餌を撒いて、想像以上に大きい魚が釣れたことに気づいた。
魚は善意でできている。善意は殴れない。散らせない。言葉を強くすると、信徒はさらに燃える。弱くすると、信徒は勝手に補強する。
アリスは、叩かれるのには慣れている。叩かれても平然でいられる。だが信じられるのは、別の重さだ。信じる列の熱は、背中ではなく足元に溜まる。足元が熱くなると、逃げ道がなくなる。
アリスの口が、珍しく止まった。
そこへトミーの声が入る。毒舌は平常運転だ。
「お前、英雄になったな。よかったじゃねえか。……最悪だな」
アリスは睨む。睨んでも、言葉が出ない。
シュヴァロフが、どうにか明るく振る舞おうとして失敗する。
「……やっぱり、無理してるんじゃないか」
そして入院中の義弘から、また短いメッセージが届く。
――守る順番を間違えるな。
――自分を守れ。
自分を守れ。言われてしまった。言われた瞬間、アリスは反射で吐き捨てたくなる。「余計なお世話だ」と。けれど吐き捨てれば、また切り抜かれる。吐き捨てなければ、胸の奥が詰まる。
詰まりは、列を太くする。
アリスは息を吐き、やっと言葉を選んだ。
「……道を空けろ」
声は低い。いつもの毒舌よりは穏やかだ。穏やかな方が怖い。
「私を守るな。救急を守れ」
正しい。正しすぎる。
信徒は頷く。頷いて、さらに集まる。
善意は、命令に従っても密集する。従っているつもりで、列を強固にする。
アリスは悟る。自分の作戦は半分成功し、半分失敗した。危険は外したが、別の危険を生んだ。
制御不能な列。
その頃、OCMの別室で、オスカーは数字を見ていた。
彼の顔は穏やかだった。穏やかさが、怖い。
「……面白い」
部下が言う。
「アリスの支持が増えています。反発も、同じくらい」
オスカーは頷いた。
「英雄は便利だ。守る名目で動かせる。攻撃する名目でも動かせる」
彼は、社内の別派閥の名前を一覧で眺めた。オスカーに敵対する勢力。正規化に反発する勢力。利用できる勢力。切り捨てる勢力。
「彼女を擁護する文言を出す。公式の安心と同じだ。……踏み絵になる」
「踏み絵?」
「英雄をどう扱うかで、必ず割れる。割れたところを拾う。拾わないものは捨てる」
冷たい。だが合理的だ。
オスカーは、英雄の列を“囮”に変換する。社内の敵対勢力を炙り出す餌にする。外の世論も同じだ。熱は管理できる。管理できないのは無秩序だけだ。
彼は、短い声明案に目を通した。
――市民の安全のため、現場の協力をお願いする。
――秩序ある支援を。
――正規化された枠組みを。
どれも、正しい言葉だ。正しい言葉は、よく切れる。
現場の外周で、アライアンス使節は“結果”を見ていた。
列が、導線屋の仕込みとは別の形で生まれている。善意の列が、危険になる。危険は、規範の正当性になる。
使節は、無駄な動きをしないまま、インカムに短く言った。
「我々は規範を適用する。例外は外す」
誰かが尋ねる。
「アリスも、ですか」
「例外ではない」
善意の列も、例外ではない。過激ファンも、例外ではない。導線屋も、例外ではない。例外がないということは、誰でも縛れるということだ。
使節はさらに言った。
「F.QRE.D.QVEは動かさない。動かさずに済ませる。……ただし、置く」
“置く”。
その一言で、外周の要所に影が差した。目立たない装備。目立たない立ち位置。映えない統制。だが、それが一番長く残る。
列は、少しだけ震えた。震えたが、消えない。善意の列は、震えても消えない。
夕方、空の色が薄くなるころ。
コンサートホールの灯りは、もう消えている。余韻の場所は閉じた。けれど余韻の代わりに、別のものが残った。
信徒の列だ。
信徒の列は、夜の街へ出ていく。自発的に。善意で。誰かを守るつもりで。守るつもりが、密集を生む。密集が、事故を呼ぶ。事故が、制度を呼ぶ。
アリスはその列を見送った。止めたい。止められない。止めれば、悪になる。悪になってでも止めるべきか。止めたら、今度は救急が詰まるかもしれない。
アリスは、静かに息を吐いた。
叩かれるのは慣れている。
信じられるのは、慣れていない。
その夜、通達が回った。
――明日から、規範を適用する。例外は外す。
そして、どこかで導線屋が、その通達を読み、黙っていた。
絵は、今度は“救い”の形をして固定された。




