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第百四十八話 固定された絵

 ホールの天井は高く、音は絹みたいに滑って客席の上を撫でていた。照明は温度を持たないはずなのに、舞台の上だけ少し熱い。演奏が始まって十分、客席は「平和」という言葉の形をした沈黙に馴染み、息を吸うタイミングさえ揃っていく。


 アリスは関係者通路の端で腕を組み、壁にもたれていた。黒いジャケットの内側で、NECROの脈はまだ低い。復帰傾向はある。あるが、まだ“上がりきらない”苛立ちが、胃の底に小石みたいに沈んでいる。


「……こんなところで、平和ごっこかよ」


 誰に言うでもなく吐き捨てると、近くのスタッフが一瞬だけ肩をすくめた。聞こえたかもしれない。聞こえたとして、どうでもいい。今は音楽が世界を覆っていて、誰も揉めたくない顔をしている。


 アリスの耳だけが、音楽の外側を拾っていた。


 舞台袖の通信端末が、短く震えた。スタッフが顔色を変え、無線を握り直す。別のスタッフが走っていく。走る靴音は本来、ホールの絨毯に吸われるはずなのに、今日は妙に響いた。


 嫌な響き方だ。


 アリスは端末を覗き込み、表示された概要を一瞥した。


――救急導線確保。VX-14 ELEPHANT、出動。


 目の奥が冷たくなる。救急導線確保。その言い方が、もう怪しい。正しい言葉ほど、正しくないことを隠す。


 同じ頃、義弘は病院の白い天井を見上げていた。


 白い天井は、どんな戦場よりも逃げ道がない。カーテン越しに聞こえる足音と、遠くのナースコール。機械の規則正しい電子音が、彼の呼吸まで管理してくる。


 膝には固定具。点滴の管が腕から伸びて、彼の身体が「休め」と言っても聞かないことを、病院はよく知っているみたいだった。


 義弘はベッドの上で、スマホを握っていた。画面には、市の緊急連絡網。市長の署名が必要なもの、必要ないもの、すでに決裁済みのものが、淡々と並ぶ。


 “膝と過労の治療で入院”。


 それが、今の彼の公式な姿だ。市長で、ヒーローで、そして患者。


 病室の扉がノックされた。返事を待たずに、スーツ姿の男が入ってくる。名札も腕章もない。あるのは、無駄のない動きと、冷えた目だけだった。


 アライアンスの使節。


 彼は笑わない。代わりに、礼儀正しい角度で頭を下げた。


「市長、我々としては、まず治療を優先していただきたい」


 義弘はベッドの上で、スマホを握ったまま目だけを向けた。


「用件は」


「救急導線確保。出動した支援機について、確認を。あなたが不在でも、我々は市の判断として整合性を保つ必要がある」


 “我々”。その二文字は、個人の意見を消して、組織の重さだけを置いていく。


 義弘は通知を開いた。小さな事故が、同時に複数。交通、変電、火災未遂。単体なら軽い。しかしテンポが揃っている。救急導線に当たる場所だけが、きれいに詰まる。


「……偶然にしちゃ、出来すぎだろ」


 使節は頷いた。頷き方に温度がない。


「偶然であることを、我々も望む。ただ――市民は偶然を信じない。信じたいのは、責任の所在だ」


 義弘は膝の固定具に視線を落とした。動けないという事実が、言葉以上に彼を縛る。


 使節は続けた。


「氷の母が動くほどの案件ではない。……だからこそ、我々がここで片付ける。根回しは済ませる。混乱が制度に飛び火しないように」


「根回し、ね」


「あなたが病室で倒れるのは構わない。だが“市長が逃げた”という絵が固定されるのは困る」


 その言い方は、忠告の形をした命令だった。


 義弘が口を開く前に、使節はさらりと言った。


「必要なら、高速機動隊――F.QRE.D.QVE を動かす権限も我々は持っている。現場の鎮静は可能だ。だが、鎮静には“筋”が要る」


「筋?」


「あなたの署名だ。『治療中でも判断はしている』という筋。市民の視線は、手当てでは止まらない」


 病室の白い天井が、急に低く感じた。


 義弘は息を吐き、スマホに指を置いた。動けない代わりに、指だけが動く。


「……分かった。説明は、俺がする。責任も、俺が持つ」


 使節はそれを当然の結論として受け取り、もう一度だけ頭を下げた。


「了解した。我々は“氷の母”の耳に雑音を入れない。――そのために動く」


 そして、音もなく病室を出ていった。


 義弘はベッドの上で、息を吐いた。病院の白さは、彼にとって“動けないこと”を突きつける色だった。


 その“動けない”中心で、街は動いている。


 折原連は舞台の上ではなく、街の片隅にいた。雑多な機材が積まれた倉庫のような場所。モニタに、複数の点が並び、連なり、折り返している。点と点の間に、見えない線が走る。その線の束を、彼は音として捉えていた。


 列――折原が「列」と呼ぶ群れは、人ではない。小型の搬送機、誘導灯、移動式のバリケード、臨時の信号制御。街が慌てて組んだ“救急導線”を形にするための小さな機能が、まるで楽譜の音符のように並んでいる。


 折原は、その列を“作曲”する。


 熱を逃がすために。


 熱。今、街に溜まっているのはパニックの熱だ。情報が燃え、憶測が燃え、誰かの怒りが燃える。燃えた熱は、行き場を失うと爆発する。


 折原は、その熱を逃がすために、列を静かに動かした。救急車が通る道を一本だけ太くし、別の道を二本だけ細くする。人の流れを横に滑らせ、交差点の“ぶつかり”を避ける。音楽で言うなら、ぶつかる音を、ぶつからない和音に変える。


 その近くで、コロボチェニィクとグリンフォンが列の安全を確保していた。二機は形も動きも違うが、どちらも“守る”ために設計された機体だ。救急導線の上を走るものを守り、導線そのものを守る。


 そこへ、重い影が落ちた。


 VX-14 ELEPHANT。


 名は象。そのまま、都市に似合わない重量が、路面に置かれた。救急導線確保という名目が、鋼の脚になって街に降りる。周囲の空気が“正しい圧”で押し潰される。誰も反対しづらい。救急のためだ。命のためだ。


 そしてその“正しさ”が、導線屋の狙いだった。


 最初に飛んできたのは、暴走ドローンの群れだった。小さく、速く、無秩序に見える。だが、その無秩序は演出だ。


 暴走ドローンが列の先頭に噛みついた。誘導灯が叩き落され、臨時バリケードがひっくり返る。信号制御が一瞬だけ狂い、交差点の青が同時に増える。増えた青は、車を流し、流れた車は、救急導線の縁を削る。


 コロボチェニィクが身体を割り込み、車の流れを止めた。グリンフォンが上から暴走ドローンを追い払う。折原は列を動かし続けた。熱を逃がす。逃がせば、爆発しない。


 だが、逃がす先が、潰されていく。


 導線屋は“逃げ道”を二つずつ潰す。救急導線優先の封鎖が、今は刃になる。正しさが、今は壁になる。


 列が選べるルートが、自然に削られていった。


 折原は眉を寄せる。楽譜が、勝手に狭くなる。音域が、奪われる。


「……違う」


 低く呟く。誰かに向けた言葉ではない。自分の作った和音が、誰かの手で濁らされていくことへの拒絶だ。


 そのとき、折原の視界の端で、ひとつの動きが“やけに綺麗”に見えた。


 暴走ドローンの群れが、コロボチェニィクの左側へ、ほんのわずか、道を開けた。開ける必要のない道だ。開ける意味のない道だ。


 開けたのは、意味があるからだ。


 意味があるのは、絵を作るためだ。


 コロボチェニィクが追う。グリンフォンが上から追う。列が守るべきものを守るために、二機が同じ一点へ寄る。寄らざるを得ない。逃げ道は潰されている。救急導線の封鎖が、逆に二機の回避を奪っている。


 そして、ELEPHANTが動いた。


 護りの名目で、中心に立つべき機体が、重心を移した。その一歩は、地面の下まで届く。衝撃は路面を伝い、空気を震わせる。象の足音は、見えない波になって街に広がる。


 コロボチェニィクはその波に、ほんの一瞬、体勢を取られる。グリンフォンも、空中で微妙に姿勢を崩す。ほんの一瞬だ。ほんの数分の一秒だ。


 だが、導線屋が欲しかったのは、その“ほんの一瞬”だった。


 衝突が起きた。


 三機が偶発的にぶつかる。偶発。偶発という言葉が、これほど嘘くさくなる瞬間があるのかと思うほど、衝突は“用意されていた”。


 金属音が、骨の奥まで突き刺さる。火花が散り、破片が舞い、空気が鳴る。


 そして――絵が固定された。


 見た者の脳に、ひとつの構図が焼き付く。象のような巨体が中心で、二機がそこへ衝突し、周囲に暴走ドローンが群がる。誰が悪いか、誰が正しいか。何が原因か。そんなものは後からでもいい。


 “絵”が先に固定されると、物語は絵に従う。


 ホールの中で、音楽が一瞬だけ揺れた。


 演奏者がミスをしたわけではない。床が、ほんのわずかに震えた。観客の肩が同時にこわばる。誰かが咳払いをする。誰かが笑って誤魔化す。誤魔化しは、熱の逃げ道にならない。


 アリスは、息を止めた。


 遠くから、戦闘音が届いた。低い。重い。普通のドローンの音じゃない。象の足音が混じっている。


 コロボチェニィクとグリンフォンの気配が、音の中で歪んでいる。


「……クソ」


 アリスはもう、迷わなかった。迷う余裕がない。迷ったら、守る順番を間違える。


 通路を蹴る。スタッフが止めようと腕を伸ばす。


「待って――!」


「どけ。私が行く」


 短く言い捨て、押しのける。彼女のNECROはまだ低い。力任せは効かない。だからこそ、最短で、最悪を潰す。


 ホールの出口に向かう途中、アリスの端末が震えた。画面に、速報の文字が流れる。


――三機衝突。救急導線混乱。現場騒然。


 続けて、別の通知。


――“コンサート放棄” NECROの女、現場へ。


 アリスは唇を歪めた。早い。早すぎる。誰が撒いた。誰が拾った。答えは一つじゃない。


 導線屋は絵を作った。折原の同調者はその絵に熱を注いだ。刀禰ミコト過激ファンは、その熱を燃やして拡散する。


 ホールを出た瞬間、外気が冷たかった。冷たいのに、街は熱い。人が集まり、スマホが集まり、目が集まる。現場方向の空が、一段だけ濁っている。


 アリスは走った。走りながら、自分の口が悪いことを思い出して、笑いそうになる。笑えないのに。


「……好きに言え。私が止める」


 現場に近づくにつれ、音が大きくなる。象の足音。金属の悲鳴。小さな群れの羽音。誰かの叫び。


 そして、その音の中に、もう一つ、別の音が混じった。


 シャッター音だ。


 道の脇に、人がいた。顔を隠しもせず、スマホを構え、アリスが走る姿を撮っている。彼らの目は助けを求めていない。彼らは“物語”を求めている。


 アリスは睨みつけた。


「撮るなら、撮れ。……あとで泣くなよ」


 言った瞬間、しまったと思う。切り抜かれる。絶対に切り抜かれる。「泣くなよ」だけが抜かれて、誰かを脅したみたいに拡散される。


 でも、止まれない。止まったら、本当に泣くやつが出る。


 病室の白い天井の下で、義弘のスマホも震え続けていた。


――三機衝突。

――救急導線混乱。

――市の決裁は誰だ。

――入院中の市長は逃げたのか。


 画面の文字は、点滴より速い。義弘は指に力を入れた。ベッドの上で、動けない。動けないのに、責任だけが動いてくる。


 病室の扉がまたノックされ、今度は看護師が顔を出した。


「市長さん、落ち着いて。脈が――」


「……落ち着けるかよ」


 喉の奥で言葉が荒れる。市長の声じゃない。患者の声だ。だが今、患者であることが、彼の弱点になっている。


 義弘は息を整え、画面に一行だけ打ち込んだ。


――現場の優先は市民の救助。全隊、救急導線の再確保。

――責任は私が持つ。説明は私がする。


 “説明は私がする”。


 誰に向けた誓いか、分からない。市民か。自分か。病室の白い天井か。


 その頃、別の場所で、オスカーはモニタを見ていた。顔は穏やかだった。穏やかさが、逆に怖い。


「ほらね」


 誰に言うでもなく、彼は呟いた。


「統制が必要だ。正規化が必要だ。……危機は、人を納得させる」


 部下が躊躇いがちに言う。


「しかし、世論は反発も――」


 オスカーは肩をすくめた。


「反発は熱だ。熱は、管理できる。管理できないのは、無秩序だけだ」


 そして彼は、会見文の文言を一つだけ書き換えた。


――市民の安全のため、必要な枠組みを整備する。


 “必要”。その二文字が、どんな刃にもなることを、彼は知っている。


 現場では、アリスが一歩、遅れて到着しようとしていた。遅れたのはコンサートのせいではない。遅れさせたのは、導線だ。導線屋が設計した遅れだ。


 だが、アリスは遅れたまま終わらせるつもりはなかった。


 象の影が見える。衝突の跡が見える。群れが見える。絵が固定されているのが分かる。固定された絵のせいで、誰もが“分かりやすい犯人”を欲しがる。


 アリスは息を吸って、吐いた。


「……分かりやすいのは罠だ。喜んで騒ぐな」


 誰かが振り向く。誰かがまた撮る。


 遠くで、ホールの音楽が、まだ続いている。続いているのに、街はもう、別の曲に合わせて踊り始めていた。


 固定された絵の曲だ。


 そして、その曲のサビに、刀禰ミコト過激ファンが勝手に歌詞を付ける。


――入院してる市長は逃げた。

――NECROの女はコンサートを捨てた。

――三機がぶつかった。

――誰かが悪い。


 最初の投稿が上がったのは、アリスが現場に踏み込んだ瞬間だった。


 新開市の混乱は、音より速く拡散していった。

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