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第百四十一話 事故は成立する

 膝が、鳴った。


 音ではない。骨の奥で、金属が擦れるような感覚だ。歩幅をひとつ間違えるだけで、関節が“外側へずれる”未来が見えた。


 市長室の窓から見える新開市は、今日も元気だ。――元気すぎる。


 「サムライ・ウィーク」三日目。国の主導で“公式”になった催しは、街じゅうの呼吸を、配信の呼吸へ変えた。救急車のサイレンも、誘導員の笛も、拍手に混じる。


 呻くように息を吐くと、隣でトミーが腕を組んだ。小柄な相棒は、見た目ほど軽くない顔で窓の下を眺めている。


「市長サマ、今日も膝が“要配慮”かよ」


「……要配慮で済んでくれりゃな」


「笑えない時ほど、笑ってやれ。人間ってそういう生き物だろ」


 トミーは窓の外を顎で指した。市役所前広場――そこに、列がある。列が、列を呼んでいる。


 札が見える気がした。実際の紙じゃない。けれど、この街はもう、札の語彙で動く。


《見守り》

《祈り》

《安全》

《配慮》

《誘導》

《確認》


 正しい顔の単語が、正しい顔で暴走する。


「列じゃない。運営だ」


 義弘が呟くと、トミーが鼻で笑った。


「新開市って、ほんとに名前つけるの好きだな。……で、誰が作曲してんだよ、その運営」


 義弘の頭に、ひとりの男が浮かんだ。


 折原 連――“臨時委託の手順担当”。


 掲示板では二つ名が踊る。


『列の作曲家』

『回付の魔術師』

『映え線引き職人』


 そして厄介なことに、折原は目立たない。視界の端にすら残らない。市役所の片隅で、配信の裏で、ボランティアの輪の中で、AR会社の名札の陰で。どの勢力の警戒にも引っかからない“無害な顔”をして、街の神経に指を差し込む。


「病院は……?」


 義弘は問いを、窓の外へ投げるように言った。


 病院。アリスがいる場所。


 あそこが“映えの中心”になった瞬間、この街は、善意の刃で彼女を切る。


 トミーの視線が、一瞬だけ義弘から逸れた。逸れた先は、義弘の机の上の、薄い紙束だ。病院から届く、容態報告。


「……行ける時に行っとけ。家族守る日だろ」


「家族、か」


「へえ? じゃあ何だ。違うのか」


 義弘は返せなかった。


 返せないまま、膝の奥がもう一度鳴った。催促するみたいに。


「……現場だ」


 義弘は椅子を押し、立ち上がった。


「折原の事故は、事故にしない。――損にする」


 トミーが頷く。


「遅いんだよ、ジジイ。お前の札、いっつも“あとから”なんだ」


「だから、今回は先に出す」


 市長室の扉が閉まる。外にはもう、次の列が待っている。



 病院の廊下は、いつもより静かだった。


 静かにするために、静かにしている。そういう“静音”。


 入口には、貼り紙が増えている。


《面会:調整中》

《配慮:最優先》

《体調:確認》


 貼り紙の文字が、病院の壁に馴染みすぎているのが怖い。札は、そこにあるだけで正しさを装う。


 病室のドアを開けると、シュヴァロフがいた。


 完全修理ではない。動かせるのは頭と腕と体だけ。けれど、あの機体は、今日も“家”の顔をしていた。


 ベッド脇の椅子に背を預け、無機質な指先で、毛布の端を整える。誰に頼まれたわけでもない。命令でもない。自分で、やっている。


 アリスは、眠っていた。


 高熱が引いても、NECROの臨界が残す疲労は消えない。まぶたの裏で、何かと格闘しているみたいに、眉が僅かに寄る。


 義弘が息を殺して近づくと、シュヴァロフの頭部がゆっくり回り、義弘を見た。


 その目――カメラは、焦点を合わせる前に一瞬だけ揺れた。


 躊躇だ。


「……代行か」


 義弘が小さく言うと、シュヴァロフは首を縦にわずかに振った。


 “彼女の意思も代行している”という約束は、こういう形で残るのか。


 シュヴァロフは、ベッド脇の紙コップを持ち上げ、少しだけ位置をずらした。アリスの口元へ近い位置に。


 飲めない。けれど「飲めるはずの位置」を作る。


 それが、この機体の祈りだ。


 義弘は喉の奥が苦くなるのを感じた。


「……守る」


 誰に向けた宣言か分からない。アリスか、自分か、市長の椅子か。


 背中でトミーが、咳払いをひとつした。


「なあ。今日は“映え”の話だろ。病室は映えない」


「……映えない場所を守るのが、俺の仕事だ」


「いいね。やっとサムライ・ヒーローの顔だ」


 トミーの声は軽い。けれど視線は、重い。


 義弘は、病室を出た。



 折原 連は、現場にいた。


 現場、と言っても戦場じゃない。戦闘でもない。サムライ・ウィークの“指定観覧エリア”の端、救護テントの脇、運営スタッフが忙しく走る通路の陰。


 彼はボランティアの腕章を付けている。昨日は市役所の名札だった。明日は配信協力のスタッフかもしれない。


 どの顔でも同じことをしている。


 “回付”だ。


 折原は、スマホを一度だけ見た。画面には、ARで重ねられた案内板が映っている。


《公式導線:指定枠》

《撮影推奨》

《安全誘導》


 そして、折原の指がそこへ“別の札”を重ねた。


 ――最初の札。


《現場保全:最優先》


 文面は短い。けれど強い。強すぎる。


 現場保全。事故が起きたら、動かすな。触るな。証拠を残せ。手順を守れ。


 それは“正しい”。


 だからこそ恐ろしい。


 折原はわざと、軽い事故を起こさせた。


 派手じゃない。血も出ない。


 誘導コーンが倒れる。配信用の照明スタンドがガタつく。誰かが「危ない!」と叫ぶ。観客が一斉にスマホを向ける。


 “映えるほどではない”のに、映えるための準備が整う事故。


 折原は息を吸い、吐いた。


 存在感が薄いまま、運営スタッフに声をかける。


「すみません。保全、最優先で。……札、来てますよね?」


 運営スタッフは一瞬だけ眉を上げ、次の瞬間、頷いた。


「ええ。ええ、来てます。――来てます」


 来てしまったのだ。


 札は、来たと言った瞬間に成立する。


 スタッフが無線へ叫ぶ。


「現場保全、最優先! 誰も動かさないで! 回付、回して!」


 回付。回付。回付。


 言葉が現場を縛る。


 観客が足を止め、止まった足が列になる。


 列が止まると、そこはもう“集会”だ。


 折原は、口元だけで笑った。


 彼の“推し”――アリスが、病院で眠っていることなど、この瞬間の彼は忘れていない。忘れていないからこそ、最適化する。


 病院へ向かう列の中心に、アリスを置けば、完成する。


 完成した列は、誰にも止められない。


 折原の同調者たちが、少し離れた場所で頷き合う。


 彼らは、折原の名前すら呼ばない。


 存在感の無さは、感染する。



 義弘が現場に到着した時、すでに“事故”は事故ではなくなっていた。


 止まった列が、止まったまま、スマホを掲げている。


 掲げた腕が、祈りの形に見えるのが最悪だ。


 ここで乱暴に散らせば、「善意を踏みにじった市長」になる。

 放置すれば、列は病院へ伸びる。


 どちらも負けだ。


「……トミー」


「分かってる。映えを殺せ」


 トミーは短く言った。いつも通り軽口を叩きたいのに、今日は言葉が少ない。


 義弘は、刀を抜かなかった。


 代わりに、膝を鳴らさずに歩幅を詰める。現場の中心、倒れた照明スタンドへ。


 スタンドの根元に、誰かが貼った紙がある。


《保全:最優先》


 義弘は、そこへ自分の札を重ねた。


 札といっても紙じゃない。市長の声だ。


「――ここは“現場保全”だ。だから、観客は現場から離れろ」


 列がざわつく。


 “離れろ”は、映えない。


 映えない言葉は、抵抗を呼ぶ。


 その瞬間、遠くで金属音がした。


 VX-07 HOUND。――いまは「支援の治安機材」として配置されているはずの機体が、何体か、こちらへ向けて首を上げた。


 監視の動き。追尾の動き。


 観客が喜ぶ。


「うわ、HOUNDだ!」

「治安展示、ガチじゃん!」

「市長、戦うの? 戦うの!?」


 義弘の背中が冷える。


 この街の“嬉しがり”は、火種に油を注ぐ。


「トミー。バリア」


「了解」


 トミーはすぐに、誘導員の腕章を奪うみたいに借り、無線を取った。口が悪いのに、指示は的確だ。


「ここ、観覧じゃない。退け。撮るなら、向こうの公式ステージ行け。――ほら、動け」


 同時に、義弘は照明スタンドを持ち上げ、わざと“地味に”片付けた。


 派手な斬撃じゃない。火花もない。歓声が出ない。


 HOUNDが一体、前に出た。


 義弘は刀を抜かず、足元のコーンを蹴って、HOUNDの進路へ滑らせた。

 HOUNDの足が取られ、わずかに姿勢が崩れる。


 それだけで十分だ。


 崩れた瞬間のHOUNDは、映えない。


 観客のテンションが一段落ちる。


「え、転んだ?」

「……なんかダサい」


 義弘はその“ダサさ”を、最大限に利用した。


「故障だ。見てる場合じゃない。退け」


 そして、最も重要な札を切る。


 “許可と責任”を固定する札。


「ここは今から――市の管理区域だ。立ち止まるな。滞在は認めない」


 正しい顔で、正しい言葉を出す。

 市長の言葉は、紙より強い。


 列が、ほんの少し揺れた。

 揺れた列は、動ける列だ。


 その瞬間、現場の端に、立っている男が見えた。


 折原。


 彼は、驚いていない。苛立っている。


 自分の“保全”が、義弘の“管理”に上書きされる。

 矜持が傷つく音が、空気に混ざる。


 折原の目が、病院の方角を見た。


 義弘は気づく。


 ――折原は今、病院へ寄せる導線を諦めていない。


 むしろ、ここから“突破”へ行く。



 救護テントの陰から、真鍋佳澄が現れた。


 サイバー課の警部補。

 義弘を“取り締まりたい顔”と、“助けられた顔”が同居している女。


 今日は、その二つの顔がさらに増えている。


 “相談役になりかけた顔”。

 そして、“市長を守る顔”。


「市長。……ここ、もう“現場保全”でいいんですか」


「いい。だからこそ、固定した。――あとは君の仕事だ」


 真鍋は短く頷くと、折原へ向かった。


 折原は視線を逸らさない。逸らさないが、威圧もしない。薄いまま立っている。


 真鍋は、銃も刀も使わない。


 紙を出す。


 紙は、武器だ。


「折原 連さん。臨時委託の“手順担当”。現場調整。――で、あなた、何日寝てません?」


「寝てますよ。平均四時間」


「それを寝てると言う人は、だいたい倒れます」


 真鍋は淡々と、札を貼るように言葉を並べた。


「健康配慮。勤務時間制限。夜間作業禁止。医師の診断書提出。過労対策。権限分割。監査同席義務。安全確保。あなたを“保護対象”にします」


 折原の眉がわずかに動く。


 保護対象。――近づけない/近づかない。


 それは、才能の封印だ。


「……俺は犯罪者じゃない」


「犯罪者扱いはしてません。――善意です」


 真鍋の声は冷たい。

 冷たいから、正しい。


「あなたの才能は危険です。危険だから、守ります。あなた自身も守ります。――倒れたら困るでしょ? サムライ・ウィークは長いんです」


 折原は笑いかけた。笑いかけようとして、口角が上がらない。


 自分が作った“正しい顔”の札で、自分が縛られる。


 回付の魔術師は、回付の終点を自分で踏んだ。


「……市長の差し金?」


 折原の視線が、義弘へ飛ぶ。


 義弘は一瞬だけ目を閉じた。膝がまた鳴る。


「差し金じゃない。――損にしただけだ」


 折原が、息を吐く。


 新開市民らしく、めげない。しょげない。反省しない。


 だが、今日ばかりは――義弘とアリスに力を尽くすよう取り計らう。

 その決意が、折原の背中にだけ、薄く浮かぶ。


「……病院は、映えない。分かってる」


 折原はぽつりと言った。


「でも、俺の“推し”は、映えるんだよな」


 義弘の胸が、嫌な音で鳴った。


 推し。素材。最適化。


 この街は、善意でも悪意でもなく、“楽しい”で人を削る。



 その夜。


 OCM本社の会見が流れた。


 壇上に立つオスカー・ラインハルトは、いつも通り眉目秀麗で、仕事ができる企業人の顔をしている。

 その顔で、謝る。


「本日のHOUND機材の挙動について、OCMとして遺憾の意を表します。原因は確認中ですが、現場はすでに鎮圧され、市の安全は確保されています」


 背後のスクリーンには、刀禰ミコトの笑顔。

 “安心”のパッケージ。


 オスカーは一言だけ、余計なことを言う。


「市長の手腕は、公式の導線として十分に信頼に足る――」


 義弘は画面を切った。


 褒め言葉が、縄になる。


 トミーが鼻で笑う。


「容赦ないな。褒めて締める。上手い」


「オスカーは、ひっくり返せる。――でも今日はひっくり返さない」


「取り分か」


「……取り分だ」


 義弘は膝を押さえ、息を吐く。


 オスカーは満足している。

 公式の信用が壊れなければ、それでいい。


 折原が事故らせようとした“公式”は、壊れない。

 揺れたように見せて、整える。


 整えた結果、折原は封じられた。


 義弘は守った。

 守った結果、膝が削れた。


 勝利は、いつも割に合わない。



 イベントは成功。配信は回る。グッズは売れる。市は笑う。国は成果を語る。企業は次を狙う。


 病院の前は、ようやく静かになった。


 静かにするために、静かにしている。

 そういう静音が、少しだけ“普通”に戻った。


 義弘は病室へ戻り、シュヴァロフの前に立った。


 シュヴァロフは何も言わない。

 それでも、毛布の端を整える。


 アリスのまぶたが、僅かに揺れた。

 意識の断片。目覚めの気配。


 義弘の胸が、温度を取り戻す。


「……終わったぞ」


 誰に言ったのか分からない。


 トミーが背中で呟く。


「終わったって言うの、早いんだよ。新開市だぞ」


 義弘は笑いそうになって、笑えなかった。


 その夜、市役所の倉庫で、箱が積まれる。


 札の束。腕章。案内板。回付用の紙。

 “現場保全:最優先”のテンプレ。


 誰も見ていないはずの倉庫で、紙の端に薄い印が押される。


 ――《回付済》。


 押した手は、見えない。

 ただ、紙は押された。


 そして、その印が押された紙の一番上に、次の一語だけが、先に印刷されていた。


《恒常運用》


 札は剥がれない。

 札は保管される。


 新開市は、今日も元気だ。


 元気だから、次も来る。

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