第百三十八話 故障という札
病院から二ブロック。
新開市の空は、今日も“イベント用”に明るい。雲の薄さまで、誰かの都合で調整されているみたいだった。
交差点の上に、配信の枠が浮いている。
ARの見出しが、街灯のように立っている。
《サムライ・ウィーク/治安協力展示:本日も安全!》
《市長の膝:要配慮(公式)》
《見守りの列:形成中》
義弘は、それらを見ないようにして歩いていた。見れば、勝手に“参加した”ことにされる。目線すら回付になる。
隣でトミーが、無言で手袋を引っ張った。細い指が、じっと地面を見ている。
「……増えてるな」
義弘が呟くと、トミーは鼻で笑った。
「増えるよ。新開市だぞ。数字があると、呼吸みたいに湧く」
信号待ちの群衆が、自然に横へずれる。
列の中心が、こちらを避けていく。
避けているようで、囲んでいる。
義弘は気づいた。
病院から遠ざけるために引いた導線が、折原の導線に吸われている。いや、吸われているふりをして、病院の“映え”に寄せられている。
折原 蓮。
運営実務の顔。存在感の薄い人間。
それが今、街の気道を握っている。
義弘が角を曲がると、そこに——
折原がいた。
ビル陰。ゴミ箱の横。
誰も注目しない場所に、誰よりも“運営”がいる。
折原は小さなタブレットを両手で持っていた。画面に並ぶのは、札。矢印。回付。承認。既成事実。
紙の形をしたデータが、目を持った虫みたいに動いている。
折原が義弘に気づき、目だけで会釈した。
顔色が悪い。寝ていない。だが手は落ち着いている。落ち着いているのが、逆に怖い。
「……市長」
折原の声は小さい。
声が小さいから、警戒されない。
警戒されないから、入り込める。
義弘は一歩、距離を詰めた。
「ここは病院じゃない。病院へ寄せるな」
「寄せてません」
「寄ってる」
折原は言い返さない。
言い返さないことで、摩擦を生まない。摩擦がないから、導線が通る。
トミーが、折原のタブレットを見る。
「お前、見守りを札にしてるな。祈りも札にしてる。人間の善意を、矢印にしてる」
折原は、ほんの僅かに眉を動かした。
「善意は……勝手に動きます。僕が動かさなくても」
「勝手に動くものを、勝手に“整列”させるな」
義弘は折原の背後を見た。
交差点。横断歩道。歩道橋。
人が“見守り”の顔で集まりはじめている。スマホを構え、救急車が通っても拍手するような、あの顔で。
その中心に、ARのアイコンが浮く。
《見守り/祈り/安全確認》
《病院の周辺は静かに》
《静かに(撮影可)》
静かに、の括弧が最悪だった。
義弘が息を吸った、その時。
空気が、変わった。
音が消える。
風が、止まる。
トミーが、顔を上げた。動物みたいな勘で、何かを嗅ぐ。
「……来る」
義弘が視線を巡らせる。
見えない。
だが、感触がある。圧がある。
街全体が、こちらに向けて軽く肩を入れてくる。
そして——
アスファルトが、割れたように見えた。
割れ目から、黒い影が一列で現れる。
VX-07 “HOUND”。
犬の形ではない。人型でもない。
だが、挙動が犬だ。鼻先で距離を測り、群れで角度を変え、命令が無くても獲物の逃げ道を潰す。
最初の一体が、義弘を見た。
次の瞬間、群れが増えた。
角を曲がり、路地から、車道の中央から、歩道橋の上から。
“部隊”。
数が、手段だ。
数が、正しさだ。
義弘は刀を抜いた。鞘鳴りが、街のARに吸われていく。
すぐにコメントが湧く。
《来たwww》
《市長の膝、今日も要配慮》
《HOUND部隊じゃん、無料ライブ》
《治安協力展示ってこういう?》
《折原って誰?運営?》
折原が、息を飲んだ。
自分の導線が、今、他人の戦場に変わったことを理解する顔だった。
「……僕は、呼んでません」
「呼んだのはお前じゃない」
トミーが、低く言った。
「市長サマ。これ、“公式”の牙だ」
HOUNDが、跳んだ。
義弘は一体目を切った。装甲の薄い節が裂け、黒い火花が飛ぶ。
だが群れは止まらない。止まる気がない。
波が来る。
引き波が来る。
次の波が来る。
最初から損耗前提。
使い捨ての運用。
“故障”を作るための戦い方。
義弘の頭に、オスカーの顔が浮かぶ。笑顔の会見。薄い謝罪。太い肯定。
あの男は戦闘を、ニュースにする。
義弘が二体目を弾き飛ばす。
折原の足元へ滑り込んだHOUNDが、折原を狙う。
義弘が踏み込んだ。膝が軋む。
痛みが遅れて、怒りのように来る。
「折原!」
折原が動けない。
運営は走らない。走ると“参加者”になる。参加者になった瞬間、責任が発生する。責任が発生した瞬間、札が増える。
折原は、体でなく手順に縛られていた。
義弘は、刀でHOUNDの関節を断ち、折原の前に立つ。
「下がれ!」
「……どこに」
「俺の背中の後ろだ」
折原は、遅れて頷いた。
その一瞬の遅れが、命取りになりかけた。
HOUNDが三方向から同時に噛みつく。
義弘は身を捻り、二体を切り、三体目を蹴り飛ばす。
蹴りが膝に響き、視界が白くなる。
コメントが、歓声になる。
《うおおお》
《市長、ちゃんと強い》
《HOUND、動き良すぎ》
《OCMの機材すげー》
《鎮圧頼む!次どこ!?》
“頼む”が、札になる。
善意が、武器になる。
トミーが叫んだ。
「市長! 折原を見ろ! こいつら、折原の“場所”だけ狙ってる!」
義弘は歯を食いしばる。
「分かってる!」
分かっている。
目的は自分じゃない。
折原の排除。
列の作曲家を消して、列を公式に統合する。
義弘が守るのは折原だけじゃない。
折原が死ねば、列は“怪物”になる。
怪物は誰の責任にもならず、誰の数字にもなる。
義弘は息を吐き、足場を選んだ。
病院から遠い、広い交差点の中央へ誘導する。
HOUNDが追う。追わざるを得ない。追わなければ失敗になる。
折原が、ぼそりと呟いた。
「……僕、これが“公式”なんだって……」
義弘は切り返しながら言う。
「公式は正しい顔で殴る。殴ったあと、謝る。謝ったあと、次の札を貼る」
トミーが笑った。笑えない顔で。
「遅いんだよ、ジジイ。お前の札、いっつも“あとから”なんだ」
「今回は先に切る」
「何を?」
義弘は、一体を沈めながら、短く言った。
「——折原は市長が預かる」
折原が目を見開く。
それは保護でも拘束でもない。
だが“預かり”は、札になる。
市長の札は強い。強いが、危険だ。政治が絡む。
HOUNDの動きが、一瞬だけ迷った。
市長の札に触れると、故障の札がややこしくなる。
だが迷いは一瞬。群れはすぐに噛み直す。
そして——
空が、割れた。
上空から、テカテカの装甲が降りてくる。
OCMのドローン・サムライ・ヒーロー。
鎮圧の顔。正義の顔。公式の顔。
同時に、ARの字幕が出る。
《機材不具合の可能性》
《安全上の措置として鎮圧》
《OCMは再発防止を約束》
《市の協力に感謝》
《視聴者の皆さまにお願い:現場に近づかないでください(撮影可)》
折原が、息を呑む。
“故障”。
義弘は歯を噛みしめた。
これがオスカーの完成形だ。
最初から故障にする。
故障だから仕方ない。
仕方ないから正しい。
正しいから公式。
ドローン・サムライ・ヒーローがHOUNDを鎮圧していく。
華麗で、派手で、安心の形。
群衆が拍手する。
《さすがOCM》
《治安協力展示、助かる》
《市長も頑張った》
《折原って誰?》
《次の現場どこ!?》
義弘は刀を収めないまま、空を見上げた。
オスカーはここにいない。
だが、会見の声が聞こえる気がした。
遠くの会場で、笑顔で、言うのだろう。
——すべては安全のためです。
折原が、義弘の背中越しに小さく言った。
「……僕、今まで“列”を作ってるだけだと思ってました」
義弘は、肩越しに答える。
「列は都市の心臓だ。握ったやつが、街を歩かせる」
トミーが、折原を睨む。
「覚えとけ。お前の才能は、正しい顔の怪物に食われる」
折原は黙って、頷いた。
その頷きは改心じゃない。
恐怖だった。
自分の“楽譜”が、公式に奪われる恐怖。
鎮圧が終わる。
HOUNDの残骸が片付けられていく。
残骸が片付く速度が異様に速い。まるで最初から、片付ける段取りがあったみたいに。
義弘は、折原に一歩近づいた。
「生きろ。生きて、札の条件を見ろ」
折原が瞬きをした。
「……条件?」
「“故障”って札が成立する前提がある。誰が何を見て、誰が何を承認して、誰が既成事実にするか。そこを裂け」
折原の目に、火が灯った。
燃える火じゃない。
手順の端を摘まむ、冷たい火。
「……分かりました」
その言葉が終わる前に、義弘の端末が振動した。
市長室。市役所。受付。協議。相談役。回付。
札が、札を呼ぶ。
そして最後に——
ARの片隅に、薄い表示が一つだけ出た。
《原因調査のため現場保全(最優先)》
誰が出した札か、表示されない。
表示されない札ほど、強い。
義弘は息を吐いた。
折原が、見えない場所で最初の札を切ったのだと分かった。
トミーが、苦い顔で笑う。
「……やっと“運営”が牙を剥いたな」
義弘は、病院の方向を見ないようにして言った。
「病院へ寄せるな。寄せたら——」
「分かってる」
折原が、静かに言った。
「僕の“推し”を素材にするのは……僕だけで十分です」
義弘は、そこだけ聞かなかったことにした。
聞けば、また札になるからだ。
空のどこかで、会見の拍手が鳴っている気がした。
公式が揺らぐのは許さない——その拍手。
だが今日、揺らいだのは公式じゃない。
揺らいだのは、折原の中の“勝ち筋”だった。
列の作曲家は、楽譜の端を掴んだ。
次は、公式の音符を——ずらす。




