表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
137/293

第百三十七話 公式は揺らがない

 音が、消えた。


 正確には、配信の音声だけが消えていた。映像は生きている。字幕も生きている。スポンサーのロゴは、いつも通り眩しく生きている。


 ただ——声が、ない。


 街はそれを「事故」と呼び、次の瞬間には「配慮」と呼んだ。


《現在、音声のみ停止(確認中)》

《音声復旧は順次(予定)》

《安全確認:優先》

《混雑回避のため列の維持に協力ください》


 札は、壁に貼られる前に、先に人の胸に貼られた。


 人は列になる。列は正しさになる。正しさは、次の札を呼ぶ。


 市役所の窓から見下ろす義弘は、息を吸ってから吐いた。


 窓の下にあるのは、群衆ではない。列だった。

 怒号ではなく、囁き。暴走ではなく、協力。だからこそ厄介な、善意の一列。


「……病院の方向、だな」


 見なくてもわかる。列の先端が、わずかに——ほんのわずかに——病院側へ傾いている。

 中心に引かれている。音のない中心。見せてはいけない中心。


 横でトミーが腕を組んだ。小柄な相棒は、見た目ほど軽くない顔で窓の下を眺めている。


「市長サマ、今日も膝が“要配慮”かよ」


「……黙って立ってるだけで膝が要配慮になる街だ。助かる」


「助かってねえだろ。列が列を呼んでる」


 トミーの視線が、列の中に混じるプラカードを拾う。


《見守り》

《祈り》

《献花(任意)》

《静粛のため拍手禁止》


「祈りが任意なのに、誰も抜けねえ。……笑えない時ほど、笑ってやれって言ったが、これは笑えないな」


 義弘は窓枠に手を置いた。

 列は、誰かが“作っている”。


「運営だ。人の癖を知ってる運営」


「……運営の手順屋。折原、だっけ」


 名前を言った瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。

 列の作曲家。回付の魔術師。映え線引き職人。


 あの男は、前に出ない。怒鳴らない。旗を振らない。

 ただ、誰もが「それは正しい」と思う札を、次々と置いていく。


 正しい札は、反論されない。

 反論されない札は、既成事実になる。


 義弘は市長机の上の資料——「サムライ・ウィーク」の運営フロー——を指で押さえた。指先が紙の角を折り、折り目ができる。


「列を、病院から離す。中心をずらす」


「遅いんだよ、ジジイ。お前の札、いっつも“あとから”なんだ」


「わかってる」


 義弘は机上端末に視線を落とした。

 市役所に届いている通知が、すでに“札の語彙”に侵食され始めている。


《確認》

《既読》

《回付》

《承認》

《差し戻し》


 まるで街全体が、回覧板になったみたいだ。


 そこへ、真鍋佳澄からのメッセージが割り込む。


『市長。運営の回付に不審な混じりがある。公式の回付経路が、勝手に枝分かれしてる』

『誰かが“手順”を作ってる。……それが、列そのもの』


 義弘は短く息を吐いた。


「真鍋も気づいたか」


「市警が気づくのは遅いって決まってる。……でも今回、遅くても助かる。市長、動くぞ」


 トミーがそう言った瞬間——


 街の配信が、ふっと光った。


 無音のまま、字幕だけが切り替わる。


《音声停止は配慮です》

《病院への影響を避けるため、現場音声は停止しています》

《安心して見守りください》


 ——“配慮”。


 善意の単語は、列の背骨になる。


 そして、背骨ができた列は、簡単には折れない。


 同じ頃。

 市役所から数ブロック離れた、運営の臨時中枢——テントと机と端末が並ぶ仮設の“司令室”。


 折原 連は、目立たない位置で端末を叩いていた。


 黒いパーカー。無地の社員証。肩にかかるストラップの色も、誰とも一致しない。

 存在感がない。だからこそ、誰も彼を警戒しない。


 端末に映るのは、公式導線のマップ。

 赤い線は列。青い線は誘導。白い点は、立ち止まり。


 折原は、白い点の増殖を見て小さく舌打ちした。


「……音が消えると、祈りが増える。そういう街かよ」


 彼は、第二手を放った。

 “確認”を増やす。


《音声復旧は順次(予定)》

《安全確認:優先》

《一部機材の再起動(予定)》

《次の案内まで列の維持に協力ください》


 予定。優先。順次。

 どれも正しい。どれも反論できない。どれも足を止める。


 列の速度が落ちる。

 落ちた速度は、“映え”のための滞留になる。


「……いい。止まれ。止まって、中心を作れ」


 折原は第三手を差し込む。

 代替の正しさ。矛盾の誘発。


《静粛のため拍手禁止》

《祈りの時間(任意)》

《病院方向カメラは配慮のため固定》


 “固定”。


 固定は、焦点を作る。焦点は、中心を作る。

 中心は、病院に吸いつく。


 折原は目を細めた。

 自分の“推し”——公式キャラクターの素材として最適化したい存在——アリスのいる場所へ、列の視線が回り込むのがわかる。


「……素材にするな、じゃない。素材にするなら、俺がやる」


 しかし次の瞬間、マップ上の青い線が一斉に上書きされた。


 公式の青。OCMの青。


 折原の端末に、通知が飛び込む。


《公式導線:更新》

《安全第一:列の再編成》

《配信協力:刀禰ミコト》


 ——オスカーが動いた。


 同じ頃。

 OCMの臨時ステージ。白い幕。眩しい照明。テカテカのロゴ。


 オスカー・ラインハルトは、笑顔を崩さずに会見をしていた。


「音声トラブルは現場の軽微な不具合です。治安協力展示は継続します。病院への配慮は徹底——」


 言葉は丁寧で冷たい。

 冷たい言葉は、正しさに似ている。


 横のモニターに、刀禰ミコトの配信画面が出る。

 彼女は、笑顔で両頬に人差し指を当てる仕草をした。


『みんな落ち着いてね! 列は危ないよ! 安全第一! 病院は静かに見守ろうね!』


 善意の配信。

 煽りの自覚は薄い。だが、列はその声で「正しく」なっていく。


 オスカーは頷いた。

 そして、耳元のインカムにだけ低い声を落とす。


「現場。枝分かれを潰してください。……“運営妨害の兆候”として」


 スタッフが息を飲む。

 言い換えれば——排除。


 さらにオスカーは、もう一枚札を切る。


「VX-07 HOUND。治安協力の強化として配置。音は要りません」


 音は要らない。

 音がない方が、配慮になる。


 配慮の名で、犬は走る。


 義弘は、運営中枢へ向かっていた。


 膝が痛む。痛むのに、痛みが遅れてくる。

 遅れてくる痛みは、判断を遅らせる。だから義弘は痛みを切り捨てる。


 サムライ・スーツの駆動音が、街の無音に刺さる。

 刺さるから、目立つ。目立つから、列が騒ぐ。


《本物きた》

《市長、膝大丈夫?》

《また来たよ》

《病院行くの?》

《配慮しろ》

《いや来い》


 コメントは、善意と悪意のミルフィーユだ。


 トミーは横で走りながら、短く吐き捨てた。


「へえ? じゃあ何だ。家族を守る日か?」


「……ああ」


「なら、迷うな。市長が庇うのは、アリスだけじゃねえ。今日は——敵もだ」


 義弘は頷く。

 折原は敵だ。だが、今ここで折原が消えたら、列は責任の所在を失って怪物になる。


 運営中枢のテントが見えた。

 人払いが始まっている。

 空白が広がっている。


 ——空白は、安全ではない。空白は“消しやすい”。


 義弘は踏み込んだ。


 その瞬間、音が消えた。


 違う。音声停止ではない。

 物理的に、周囲の音が吸われた。


 耳の奥が、ひゅっと詰まる感覚。

 足音が、自分のものか他人のものか、わからなくなる。


「……来たな」


 HOUND。


 視界の端に、何も見えないのに、迫ってくる圧だけがある。

 犬のような執着。噛むための沈黙。


 義弘は刃を抜かない。刃は最後だ。

 まず、身体で線を引く。


 テントの裏。端末の前。

 折原がいた。目を見開いている。


 折原の周囲に、ぽっかりと空白。

 空白の縁で、NECROテックエージェントの影が動く。

 誰もが“事故防止”の顔をしている。


 義弘は、折原の前に滑り込んだ。


 ——刃ではなく、身体で。


「市長……?」


 折原の声が掠れる。

 驚きと苛立ちと、矜持が混じった声。


「お前を助けに来たわけじゃない」


「じゃあ何だよ」


「……列を助けに来た」


 義弘は、無音の圧へ向けて片足を踏み出した。

 膝が軋む。だが、軋みは今は使える。

 痛みは、現実だ。現実は、怪物を押し返す。


 無音の中、何かが方向転換する気配がした。

 HOUNDが、義弘を噛むか。折原を噛むか。

 あるいは——“列”を守る名目で、誰でも噛める。


 折原は義弘の背に向かって、思わず吐き出すように言った。


「……俺の列を、素材にするな」


 義弘は笑わない。

 笑えない時ほど笑え、とは言われた。だが今は違う。


「素材にするのは、公式だ。お前じゃない」


 折原の目が、わずかに揺れた。


 その揺れの中で、折原の端末に新しい札が立ち上がる。


《公式動線:病院への“祈り”は市民の権利》

《配慮のため、病院前は“献花エリア”》


 ——正しさで、病院へ戻す札。


 最初の札が、切られた。


 義弘は、その文字列を見て、心の奥が冷たくなるのを感じた。


 列は、まだ終わっていない。

 列は、ここからが本番だ。


 無音の圧が、一段近づく。


 義弘は一歩踏み込んだ。

 刃はまだ抜かない。

 だが、抜く準備だけは、もう終わっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ