第百三十五話 鬼札
病室の空気は、いつもより薄かった。
消毒の匂いが、白い壁に貼りついて離れない。点滴の落ちる間隔だけが、世界の律動みたいに正確だ。
アリスのまぶたは閉じたまま、熱の波が額を押し上げ、下げ、押し上げる。
呼吸は浅い。けれど止まってはいない。その“止まっていない”だけが、病室の全員にとって救いだった。
ベッドの脇に、シュヴァロフが座っている。
頭と腕と胴だけ。脚はまだ戻らない。装甲の隙間から見える配線は、包帯のように巻かれ、静かに震えている。
机代わりのサイドテーブルに端末。
そこに、薄い通知が積み重なっていく。
《健康管理:経過観察》
《診断待ち:要配慮》
《面会:最小化》
《露出:自粛(善意)》
《善意:更新》
通知音は小さい。けれど、しつこい。
カチ、と紙の端を折るような音で、現実が「回付」され続ける。
シュヴァロフはその音に、反射みたいに腕を伸ばした。
爪のない指先――工具の先が、端末の画面を滑る。確認、保存、ログの整理。まるで家の掃除だ。
掃除は、できる。
家事は、できる。
だから、意思も代行する。
ベッドの横の椅子に置かれた小さな紙袋――中身は、アリスの私物だ。フード付きパーカー。スカーフ。黒いニーソックス。
生活の気配が、病室の“手順”に押しつぶされそうになっている。
シュヴァロフは、アリスの指先を見た。
爪の付け根に残る、細い傷――無理に動かしたときに、身体が“抵抗”した跡。
機械は嘘をつかない。
身体も嘘をつかない。
嘘をつくのは、その上に乗る札だけだ。
その時、アリスの喉が微かに鳴った。
言葉にならない息が、空気を引っ掻く。
「……」
シュヴァロフは身を乗り出し、顔を近づけた。
まぶたが震える。何かを言おうとして、言えない。熱が、人格の輪郭を溶かしている。
端末の画面が、また鳴った。
《市役所:発表準備/公式キャラクター関連》
《関係各所:同時回付》
シュヴァロフの指が止まる。
止まってから、ゆっくり動き出す。
まるで、“これが家族の仕事だ”と言い聞かせるみたいに。
市役所の臨時対策室は、窓の外が落ち着かない。
遠くの通りが、すでに“並んでいる”気配を持っている。視線が集まり、スマホが立ち、誰かが「何か」を待つ形になる。
義弘は椅子から立ち上がるのに、ほんの少し時間を要した。
膝が、静かに抗議する。痛みはもう驚きではない。日常の一部だ。
隣で、トミーが腕を組んでいる。小柄な相棒は、軽口を叩く余裕を残しながらも、目は笑っていなかった。
「市長サマ、今日も膝が“要配慮”かよ」
「うるさい」
「うるさいのは外だ。……聞こえるか? 並び始めてる」
義弘は窓の下を見た。
確かに、列が生まれている。誰かが号令したわけじゃない。ただ「ここが正しい」と思い込んだ者たちが、自然に同じ方向を向く。
まるで、札の磁力だ。
「遅いんだよ、ジジイ。お前の札、いっつも“あとから”なんだ」
義弘は黙って、机の上の一枚の文書に目を落とした。
題は短い。
《新開市公式キャラクター運用の一時停止(健康上の理由)》
その横に、代替案が添えられている。
《公式キャラクター代替推薦:刀禰ミコト》
これを切った瞬間、燃える。
燃えることは分かっている。燃えれば“映える”。そして折原が喜ぶ。
それでも切る。
理由は一つだ。
病室を舞台にさせない。
義弘はペンを取った。
ペン先が紙に触れる直前で、指が止まる。
その“止まり”に、トミーが気づいた。
「へえ? じゃあ何だ。家族を守る日か?」
義弘は、息を吐いた。
「……守るだけじゃ足りない。奪い返す」
「何を」
「舞台を」
義弘は署名した。
ただの文字が、街の形を変える。
その瞬間を、義弘は“音”で感じた。
カチン。
どこかで、決裁のハンコが落ちたみたいな音。
あるいは、端末の回付が成立した音。
それは祝砲ではない。
戦闘開始の合図だ。
回付は早い。
発表の準備が整うより前に、街が先に知る。
市役所の受付が、戦場になる。
「確認したい」「真偽は」「本人の意向は」
善意の顔で、質問が刃になる。
配信者たちは“正しい顔”でカメラを向けた。
掲示板には文字が踊る。
【速報】アリス降板ってマ?
市の顔変えるとか草
いや病気なら休ませろよ(善意)
善意が一番怖いってそれ
ミコトが市の顔!? 配信映えるやつじゃん
OCMの勝ちじゃね?
病院行くなって言われても行くわ(善意)
「善意」が、免罪符になっていく。
“会いに行く”が“見守る”に塗り替わり、見守るが“正義”になる。
義弘は、すぐに手を打った。
市長として、声明を先に出す。
《病院周辺は医療優先/イベント導線は別会場へ》
しかし声明は、声明のままでは効かない。
効かせるには、列を動かす必要がある。列を動かすには、列が納得する“映え”が要る。
その時、別の回付が街を走った。
OCM本社――記者会見場。
白い照明。黒いスーツ。整然としたロゴの背景。
オスカー・ラインハルトが、穏やかな微笑のまま壇上に立っていた。
「本日の件につきまして、弊社としても大変重く受け止めております」
言葉は柔らかい。
けれど語尾に、切断面みたいな硬さがある。
「新開市の治安協力は継続します。市長――津田義弘氏の判断を尊重しつつ、しかし、治安は感情で運用できるものではありません」
会見場のスクリーンに、刀禰ミコトの立ち絵が出る。
“公式”の光沢をまとった笑顔。
そこに、OCMのロゴが重なる。
「刀禰ミコトは、OCM公式ヴァーチャル・サムライとして、すでに市民の皆様と信頼関係を構築しております。新開市の“顔”として、安定供給が可能です」
安定供給。
人間の話に使う言葉じゃない。だがここでは正しい。だから刺さる。
さらに、オスカーは続けた。
「そして――本日の現場対応には、NECROテックエージェントが関与します。市長の力となり、必ず事態を収束させます」
会見場がざわめく。
“NECRO”。
“エージェント”。
市民の言葉じゃない。だが、言葉は配信で薄まり、娯楽に変わる。
掲示板は爆発した。
NECROきたwww
兄弟姉妹が出るってこと?(何それ)
つまり人間のヒーローってこと?
いや怖い
でも映える
これサムライ・ウィークの主役じゃん
市長が降りたらOCM市政になるん?草
オスカーの発言は、義弘の鬼札を“包み直す”。
義弘がアリスを守るために切った札が、別の列を生む燃料になる。
トミーが、義弘の横で小さく笑った。笑えない笑いだ。
「笑えない時ほど、笑ってやれ。人間ってそういう生き物だろ」
「……お前の励ましは最悪だ」
「最悪な街に最悪な励ましだ。釣り合ってる」
夕方。
街が二つに裂け始めた。
一つは、折原の列。
病院に向かう“見守り”の列。
「アリスは市の顔だ」「最後を見届ける」「祈る」
善意の言葉が、自己正当化に変わる。
もう一つは、OCMの列。
展示会場に向かう“公式”の列。
「刀禰ミコトを迎える」「治安協力を見学する」「パレード予行」
安全の言葉が、権利になる。
札が、殴り合い始める。
《公式導線》
《運営導線》
《安全確保のため迂回》
《撮影推奨スポット》
《医療優先区域:立入自粛(善意)》
《善意:更新》
《善意:最優先》
同じ“正しい”が、互いを邪魔する。
正しいから譲れない。譲らないから、ぶつかる。
義弘はサムライ・ヒーローの装甲服を着込んだ。
市長のままでは、列は動かない。
サムライ・ヒーローなら、列は動く。動いてしまう。
膝が悲鳴を上げる前に、義弘は走り出した。
“映え”の中心を、病院から剥がすために。
会場の一角――未完成リングへ向かう導線の入口に、義弘は立つ。
そこで、札を掲げた。
《病院周辺:医療優先》
《イベント導線:リング前広場》
《撮影スポット:安全柵内》
《列の出口:ここ》
札は言葉ではなく、形で効く。
人は出口が一つなら、そこへ向かう。
そして向かった先が安全なら、“善意”は満足する。
義弘は、列を導いた。
導くほどに、街が彼を飲み込もうとする。
「市長!」「義弘!」「映えた!」
声が“承認”になり、承認が“既成事実”になる。
その瞬間――
義弘は、背筋に薄い寒さを覚えた。
視線がある。
でも、強い視線じゃない。
逆に、視線が“ない”ことが、視線の存在を知らせる。
折原連がそこにいた。
人混みの中で、何の違和感もなく。
旗も持たず、腕章もつけず、ただの運営スタッフの顔で。
存在感の無さが、恐ろしい。
誰も警戒しない。誰も止めない。
だから、どこにでも入り込める。
折原は誰かに指示しているように見えない。
ただ、端末の画面を指で二回叩いた。
それだけで、ARの誘導矢印が一つ増えた。
病院ではない。
けれど病院が映る場所――“見守り画角”。
折原の同調者が、笑顔で言う。
「ここ、祈りのスポットです。病院に迷惑じゃないです。善意です」
善意。
またその言葉だ。
刃のない刃。
義弘は歯を食いしばった。
列を遠ざけても、物語を遠ざけられない。
“病院を舞台にしない”は、“病院の物語を消す”ではない。
トミーが耳元で言った。
「市長、折原ってやつ、たぶん気づいてない。……お前が“映え”を損にし始めたら、あいつ、もっと上手くやる」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない。……今の顔は、賭ける顔だ」
義弘は頷いた。
賭けるしかない。
列を割って、列を組み直す。
危険な賭けだ。
だが、病室を守るには、それしかない。
夜。病室。
シュヴァロフは端末を見つめていた。
画面の上で、何かが“回付済”になっていく。勝手に押された既成事実が、積み上がる。
《本人希望:露出停止》
《本人希望:公式運用停止》
《本人希望:静養優先》
“本人希望”。
アリスは眠っている。希望を言える状態ではない。
シュヴァロフの腕が、わずかに震えた。
怒りではない。焦りでもない。
もっと静かな、しかし強い反応――守るための反応。
その時、アリスがまた喉を鳴らした。
今度は、音が形になりかける。
「……や……」
シュヴァロフは耳を近づけた。
アリスの唇が、熱で乾いている。
それでも、確かに動いた。
「……やめ……て……」
シュヴァロフは、端末を手に取った。
指先が、文字入力の欄を開く。
送信先は、市長室ではない。
病院の運営回付先でもない。
“運営の回付先”。
誰かが、そこを“正しい”と決めた場所。
シュヴァロフは短文を打った。
アリスの意思の代行として。
家族の事務として。
《やめて》
送信。
画面が一瞬、暗転する。
そして、次の札が表示された。
《公式対応:本人希望により露出停止(回付済)》
回付済。
既成事実。
署名のない署名。
シュヴァロフは画面を見つめたまま、動かなかった。
その静止が、病室の空気をさらに薄くする。
アリスのまぶたが、ほんの少しだけ開く。
焦点の合わない目が、端末の光を捉える。
そして――わずかに眉が寄った。
それは、理解の表情だった。
理解してしまった顔。
“私の言葉が、札にされる”。
病室の外で、遠くの街が歓声を上げた。
誰かが列の中心で、映える瞬間を作ったのだろう。
病室の中で、シュヴァロフの端末が、また小さく鳴った。
カチ。
紙の端を折るように、世界がまた回付される音。




