第百三十三話 映え線引き職人
病院の窓は、昼の光を受けて白く眩しい。
眩しいのに、室内は冷たい。空調の温度ではない。人の視線と、善意の呼気が、そこだけ密度を増している。
津田義弘は、市長室の窓からその“密度”を見下ろしていた。
病院の正面玄関――いや、正面玄関“の周辺”が、薄く膨らんでいる。人が、人を呼ぶ。誰も号令をかけていないのに、列が生まれ、列が意思を持ち、列が風向きを変える。
隣でトミーが腕を組む。小柄な相棒は、笑うでもなく、冷めた目で言った。
「市長サマ。あれ、群衆じゃない。運営だ」
「……運営?」
「“勝手に回ってる”やつ。止めると怒られるやつ。止めないと潰れるやつ」
義弘は息を吐いた。膝がうずく。古い痛みが、今日みたいな日にだけ誇張される。
「病院から遠ざける。リングへ誘導する。――それが、いちばん“正しい”」
口にした途端、トミーが鼻で笑った。
「正しい導線で殴る気かよ。遅いんだよ、ジジイ。正論ってのは、いつも“あとから”なんだ」
義弘は、言い返せなかった。
正しいはずの札が、いつも現場で薄くなる。薄くなった分だけ、誰かの“やさしさ”が厚くなる。厚くなったやさしさは、いつだって刃になる。
机の上に、真鍋佳澄から届いたメッセージが表示されていた。
「病院周辺、“列”が自然発生しています。
名目:見守り/祈願/治安協力展示の見学
実態:撮影ポイント取り合い、搬入口の圧迫。
何者かがAR誘導を挿し込んでる形跡あり。
市役所委託の運営班に“折原 連”の名前が出てます」
折原 連。
いないはずの人間の名前が、書類のどこにでも滑り込む。
義弘は、その名を噛んだ。苦い。
「列の作曲家、か」
トミーが言う。
「回付の魔術師。映え線引き職人。……名前つけるの好きだな、新開市は」
「笑えない」
「笑えない時ほど、笑ってやれ。人間ってそういう生き物だろ」
義弘は、椅子を蹴るように立ち上がった。
「行く」
「膝が“要配慮”かよ」
「黙れ。歩ける」
トミーが肩をすくめる。
「へえ? じゃあ何だ。家族を守る日か?」
義弘は答えなかった。
答えなくても、病院の窓の向こうに、守るべきものがいる。
病院の廊下は、いつもより静かだった。
静かすぎる。音が吸われている。誰かが“静けさ”を演出しているような――そんな静けさだ。
病室のドアを押すと、白い匂いがした。消毒の匂いと、プラスチックの匂いと、機械の匂い。
ベッドの上で、アリスが眠っている。顔は赤く、呼吸は浅い。
頬の熱に、目が痛んだ。
ベッドの脇に、シュヴァロフがいた。
完全修理ではない。動かせるのは頭と腕と体だけ。家事ができる程度――そう言われた“程度”が、今は神に見えた。
シュヴァロフは、ゆっくり首を回し、義弘を見た。
金属の瞳孔が、わずかに細くなる。怒りでも恐れでもない――“判断”の目だ。
「……ありがとう」
義弘が言うと、シュヴァロフは小さく頷いた。
その動作だけで、義弘の胸が詰まる。
シュヴァロフは、アリスの意思を代行している。
アリスが話せない時、怒れない時、拒めない時、シュヴァロフだけが“拒否”の姿勢を保てる。
義弘は、アリスの手に触れそうになって、指を止めた。
彼女の身体には、もう余白がない。触れるだけで崩れてしまいそうだ。
その時、廊下の向こうで、ざわめきが起きた。
人の声ではない。
布が擦れる音、紙が揺れる音、端末の通知音が一斉に鳴る音。
善意が“来る”音だった。
トミーが小声で吐き捨てる。
「来たな」
「何が」
「“見守り”だよ。祈願だよ。善意の列だよ。――最悪のやつ」
病室の窓の外を見る。
病院の正面から少しずれた場所に、色とりどりの腕章が集まり始めている。
ボランティア。配信協力。治安協力展示の誘導係。
そして、ARの矢印。
空中に、薄い矢印が浮かぶ。
誰の許可もない矢印が、あたかも昔からそこにあったかのように、整然と人を導く。
義弘の背中に、汗が走った。
――折原だ。
病院前の道路は、“正しさ”で埋まっていた。
「こちら、祈願導線になります! 立ち止まりは危険です! 撮影は歩きながらお願いします!」
拡声器の声は穏やかで、丁寧で、責める気配がない。
だからこそ、残酷だ。
歩道の脇に、臨時の案内板がある。
《見守りポイント》
《回復祈願スポット》
《救急搬入口付近:立入遠慮(お願い)》
お願い。
お願いは、断れない言葉だ。
義弘は、病院の敷地の境界で立ち止まった。
制服の警備員が慌てて近寄る。
「市長! 危険です、ここは――」
「危険なのは、お前の口だ」
義弘は言った。語尾に棘はない。棘は、ここでは武器にならない。
警備員は、すぐ理解したように黙った。
彼もまた、善意の圧に押されている側だ。
トミーが、群衆の“運営”を見回した。
目立つ指揮者はいない。
派手な腕章もいない。
いるのは、裏返った名札、控えめな服、誰にでもいそうな顔。
「……いるな」
「折原か?」
「本人かどうかは知らん。だが“同調者”はいる。こいつら、全員が半歩ずつ同じ方向に押してる。誰も主犯じゃない顔でな」
義弘は、脳内で札を切った。
制度。規制。交通。警備。導線。
そして、最も強い札――“市長”の権限。
だが、その札は今、薄い。
薄い札に、厚い善意が貼り重なる。
空中に、また矢印が増えた。
矢印は、病院正面を避けているようで――避けていない。
救急搬入口を迂回する名目で、病院の“横”に人を集め、横に集まった人が、自然に“押し合い”を始める。
押し合いが始まれば、映える。
映えれば、配信が回る。
回れば、列が固まる。
義弘は、吐き気に似た感覚を覚えた。
これは戦闘じゃない。
戦闘なら、殴ればいい。切ればいい。止めればいい。
だがこれは、運営だ。
殴ればこちらが悪になる。
――折原は、そこを狙っている。
事故は、“軽く”起きた。
病院の裏手――救急搬入口とは別の場所で、小型の作業ドロイドが転倒した。
ただの転倒。
だがその瞬間、誰かが叫ぶ。
「危ない! ヒーロー! ヒーロー呼んで!」
声は一つ。
だが、連鎖が起きるのは一瞬だった。
端末が一斉に上がり、配信の枠が立つ。
コメントが雪崩れる。
「やば、病院のとこじゃん」
「アリスちゃん大丈夫?」
「市長来い」
「公式キャラの聖地で事故とか“演出”?」
「祈願してたらイベント始まったw」
「この導線、神かよ」
義弘の視界の端で、治安協力展示の機体が動いた。
テカテカの装甲。
OCMの広告が刻まれた、ドローン・サムライ・ヒーロー。
――コロボチェニィク。
――グリンフォン。
アリスが“提供せざるを得なかった”二機が、病院付近に刻印された広告を光らせ、静かに出動姿勢を取る。
義弘の奥歯が軋んだ。
「……やめろ」
だが、止まらない。
“治安協力展示”は、事故に反応する。
反応すれば、正しい。
正しいから、映える。
映えるから、列が歓声を上げる。
トミーが低く言った。
「見ろ。事故が軽いのに、導線が重い」
義弘は、舌打ちを飲み込んで前へ出た。
市長の顔ではなく、サムライ・ヒーローの顔で。
その瞬間、列がざわめいた。
歓声ではない。
“期待”のざわめきだ。
「本物きた」
「膝、まだ悪いんだろ? 無理すんな」
「無理しろがヒーローだろ」
「市長が出ると映えるんだよなぁ」
義弘は、胸の内で何かが切れかけるのを感じた。
怒りじゃない。諦めでもない。
――理解だ。
この街は、娯楽で息をしている。
正義でも、治安でも、善意でもなく。
“見たい”で呼吸している。
なら――その呼吸を止めずに、方向だけ変えるしかない。
義弘は、掌を上げた。
拡声器を借りる。丁寧な声で言う。
丁寧であるほど、人は従うからだ。
「みんな。病院の前は、危険だ」
列が静まる。
静まった瞬間、AR矢印がほんの一拍、迷った。
角が折れたように、矢印の先が揺らぐ。
――効いた。
義弘の札が、折原の札に一瞬だけ刺さった。
「見るなら、見る場所を変えろ。
“治安協力展示”は、ここでやらない。
事故は病院の外へ出す。――今すぐだ」
言い切った直後、空中の矢印が“修正”された。
誰かが上書きした。
矢印は、病院から遠ざかるように見えて――遠ざからない。
病院の壁をなぞり、病院の横を通り、病院の“近く”で止まる。
見守りの距離。
推しを感じられる距離。
聖地の距離。
トミーが、義弘の耳元で吐く。
「ジジイ。吸収されたな」
「……ああ」
義弘は、拳を握った。
膝が痛む。痛みが、現実に引き戻す。
コロボチェニィクとグリンフォンが、事故ドロイドを起こす。
起こすだけ。
それだけの動きが、ヒーローショーとして消費される。
そして――列は、整う。
整った列は、美しい。
美しいものは、正しく見える。
その正しさが、病院を殺す。
夕方。
病院の周辺には、さらに札が増えていた。
現物の紙ではない。
ARの札だ。
薄い紙の端のようなUIが、空中に貼られている。
《見守り導線》
《回復祈願:推奨》
《撮影協力:任意》
《静穏配慮:努力目標》
任意。努力目標。推奨。
どれも強制ではない顔をして、強制より強い。
義弘は、それを見上げて立ち尽くした。
背中が冷える。
トミーが言った。声は低い。笑っていない。
「札が……札になったな」
「誰が、こんな」
「誰でもいいんだよ。誰でもできる形にしたやつが勝つ。
折原は、もう“人間の札”を作ってる」
義弘は、病院の窓を見る。
カーテンの隙間に、白い光。
その奥に、アリスがいる。
シュヴァロフがいる。
守るべきものは、ここにある。
そして、この街は、ここを“素材”として最適化し始めている。
義弘の手が、無意識にポケットの中の端末を握りしめた。
市長としての端末。
公式としての端末。
札を切るための端末。
だが、今夜から必要なのは、それだけじゃない。
“映え”を損にする札。
善意を、善意のまま止める札。
義弘は、静かに呟いた。
「……折原。お前の線引きは、ここまでだ」
その言葉に返事はない。
ただ、ARの札が一枚だけ、ふっと点滅した。
《回復祈願:最優先》
見たことのない語彙。
見たことのない強度。
義弘は気づく。
折原の同調者たちが、“推奨”の札を“最優先”へ押し上げ始めている。
列が列を呼ぶ。
札が札を呼ぶ。
そして、その中心に――アリスがいる。
病室の窓の向こうで、シュヴァロフがゆっくりと顔を上げた。
まるで、義弘にだけ聞こえる声で言うみたいに。
――守れ。
義弘は一度だけ頷き、踵を返した。
戦場は、もう路上じゃない。
運営だ。回付だ。映えだ。
そして次の敵は、目立たない顔で、もう市役所の中にいる。




