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第百三十二話 回付の魔術師

 市役所の一階は、いつから「受付」ではなくなったのだろう。


 人がいる。声がある。番号札がある。掲示板がある。案内の矢印がある。手の空いた職員が、笑顔のまま目を泳がせている。


 それでも——整然としていた。


 整然としていることが、いちばん怖い。


 列が、勝手に呼吸していた。


 背中と背中の距離が一定で、足の向きまで揃っている。誰も怒鳴らない。誰も押さない。誰も割り込まない。ただ、次の人が、次の人を呼ぶ。


 そこに、紙が混ざっていた。


 紙切れだ。貼り紙だ。小さな札だ。


《案内》

《推奨》

《協力》

《安全》

《ご理解》


 ……柔らかい言葉。


 柔らかい言葉で殴られると、人は痛いと気づけない。


 津田義弘は、膝の奥をひとつ噛み締めた。傷が疼くというより、膝が「覚えている」。あのときの落下、あのときの沈黙、あのときの歓声。街が興奮すればするほど、自分の関節は正直になる。


 隣で、トミーが腕を組んだ。小柄な相棒は、見た目ほど軽くない顔で列の中心——受付カウンターの向こうを睨む。


「市長サマ。今日も膝が“要配慮”かよ」


「黙ってろ」


「黙ると、列が勝つ」


 最悪の正論だ。トミーは時々、救命具みたいな言葉を投げる。掴むと痛いが、掴まないと溺れる。


 受付の前には、立て看板が増えていた。


《サムライ・ウィーク:各種申請窓口》

《応援団体の登録はこちら》

《配信協力の手続き》

《ボランティア参加の流れ》

《安全運営のお願い》


 全部、正しい顔をしていた。


 正しい顔の暴走は、止めづらい。


「……折原、だっけ」


 義弘が呟くと、トミーは鼻で笑った。


「名前を言うと負けるやつ。ああいうのは、“いない顔”で勝つ」


 義弘は列の端を辿った。背中の連なりは、やがて市役所の出入口を越え、外へ伸びていく。通りへ、横断歩道へ、屋台の準備エリアへ、臨時ステージの方角へ。


 市庁舎が、街の心臓だとするなら。


 この列は、血管だ。


 血管が勝手に伸びる街は、もう「運営」に身体を預けている。


 ——と、そのとき。


 受付の天井スピーカーが、カラリと明るい音を立てた。


『ただいまより、サムライ・ウィーク関連のご案内を更新します。ご協力、ありがとうございます』


 拍手が起きた。


 拍手をしたのは、誰だった?


 誰が最初に手を叩いた?


 目が追えない。追えないのに、拍手は波になって広がっていく。列は拍手を学習し、拍手は列を正当化する。


 義弘は、ゆっくりと息を吐いた。


「……ここは戦場だな」


 トミーが言った。


「戦場ってのはな、撃ち返せる場所のことだ。ここは違う。ここは“回付”だ。回った瞬間に、終わる」


 回付。


 承認。


 既成事実。


 あの札の怪談が、街を食ったときと同じ匂いがする。ただし今回は、怪談じゃない。人間が作って、人間が喜んでる。だから強い。


 義弘は、受付カウンターの横に立つ若い職員を見た。目の下に薄いクマ。笑顔が乾いている。


「状況は?」


 職員は反射で答えた。


「はい、市長。現在、登録申請が——」


 言いかけて、口を噤む。視線が、義弘の胸元をなぞった。


 市長バッジ。


 サムライ・ヒーローの称号。


 その二つが並ぶと、どんな言葉も「政治」になる。職員は正しい。


 義弘は声の温度を下げた。氷に寄せると、言葉は滑る。


「誰が、更新を回してる」


 職員の唇が、紙一枚ぶんだけ動いた。


「……運営実務の、折原さんです。臨時委託の、“手順担当”」


 トミーが肩をすくめた。


「ほらな。名前が出た。出たら、もう手順の勝ち」


 義弘は視線で職員に礼を言い、カウンターを離れた。


 市役所の奥。仮設の運営室。臨時のパーティション。段ボール箱の山。水のペットボトル。貼り付けられたスケジュール表。


 そこにいるはずだった。


 折原 連。


 列の作曲家。


 回付の魔術師。


 映え線引き職人。


 ——だが。


 いない。


 正確には、「いる」のに見えない。誰も彼に気づかない。気づいても、「忙しそうだな」で終わる。存在感が薄いのは、弱点じゃない。刃だ。


 義弘は、テーブルに置かれた書類を一枚つまんだ。


 サムライ・ウィーク運営資料。


 その端に、薄い赤のスタンプが押されている。


《回付済》


 押してない。


 押してないのに、押されている。


 指先が冷えた。あの札の怪談のときと同じ——勝手に既成事実が貼り付く感触。


 トミーが低く言う。


「……また“勝手に押された”か」


「似てるが、違う」


 義弘は紙の匂いを嗅いだ。インクの匂いは普通だ。紙も普通だ。普通の暴力ほど厄介なものはない。


「怪談じゃない。人間がやってる。だから、責任の行き先がある」


「責任の行き先があるってことは、責任の押し付け先もあるってことだ」


 トミーは窓の外を見た。市役所の前、列はさらに伸びていた。配信者が、列の先頭でカメラを構える。ボランティアが、笑顔で整理をしている。ARのガイドが、空中に矢印を出している。


 矢印の向きは、いつも「正しい」。


 義弘は、胸ポケットから薄いメモを取り出した。自分で書いたものだ。行政の札を作るとき、言葉は刃になる。刃は、抜く前に研ぐ。


 メモには、短い文言が並んでいた。


《運営の停止》

《申請の一時凍結》

《医療優先》

《市長権限》


 だが、今の列は——止めると燃える。


 止めれば、「妨害」になる。


 凍結すれば、「隠蔽」になる。


 医療を掲げれば、「利用」になる。


 市長権限を振りかざせば、「独裁」になる。


 どれも“正しい顔”で刺してくる。


 トミーが、義弘のメモを見て鼻で笑った。


「遅いんだよ、ジジイ。お前の札、いっつも“あとから”なんだ」


「……分かってる」


「なら、先に打て」


 先に打つ。


 義弘は一瞬だけ、病院の白い天井を思い出した。眠るアリス。ベッドの横にいるシュヴァロフ。あいつは、壊れた身体で、掃除をして、手を握って、アリスの意思を代行している。


 守るべきものがあると、人は強くなる。


 同時に、弱くなる。


 守るべきものが、敵の札になるからだ。


 義弘は、運営室の壁に貼られた大判のポスターを見た。


 サムライ・ウィーク、公式ビジュアル案。


 中央に義弘。


 その隣に、アリスの公式キャラクターイラスト。


 そして、下に小さく——


《病院協力:撮影許可申請窓口はこちら》


 義弘の視界が、一瞬だけ白くなった。


 血が引くのではない。怒りが、引き金の位置まで上がるだけだ。


「病院に、列を伸ばす気か」


 トミーが言った。


「“善意”でな。あいつら、正義の顔で病室に土足で入る」


 義弘は、ポスターを剥がした。紙が破れる音が、やけに大きかった。


 運営室の空気が、一瞬だけ止まった。


 誰かがこちらを見た。だが、次の瞬間には視線を逸らした。見て見ぬふり。責任回避。回付の土台。


 義弘は、破ったポスターを丸め、ゴミ箱へ投げた。


「市長が怒った」となれば、列は喜ぶ。


 だから、怒り方を選ばなければならない。


 義弘は声を落とし、淡々と告げた。


「“病院協力窓口”を消せ。今すぐ」


 近くにいた担当者が、反射で頷いた。頷いてから、「誰の命令だ?」と迷う顔になる。迷いの隙間が生まれる。


 そこへ、軽いノック。


 パーティションの隙間から、書類を抱えた人物が滑り込んだ。


 ……若い。疲れている。目が乾いている。服は地味だ。靴も地味だ。名札は、裏返っている。


 そのまま、机に書類を置き、さっさと出ていこうとする。


 義弘は、その背中に言った。


「折原 連」


 空気が、もう一段、止まった。


 その人物は、振り向かない。


 振り向かないまま、低い声だけを返した。


「……市長。現場は、止めないでください」


 敬語。


 丁寧。


 優しい。


 刃。


 義弘は一歩踏み出した。膝が軋んだ。だが、踏み出す。


「止めるつもりはない。病院に列を伸ばすな」


 折原は、ほんの少しだけ首を傾けた。笑っていないのに、笑っているように聞こえる声だった。


「列は、伸びたいところに伸びます。市長が“象徴”である限り」


 トミーが吐き捨てた。


「へえ? じゃあ何だ。家族を守る日か?」


 折原は、その言葉にだけ、わずかに反応した。肩が動いた。呼吸が一拍、ずれた。


 義弘は見逃さない。


「……お前、“推し”がいるな」


 折原は、やっと振り向いた。


 顔は平凡だった。印象に残らない。広告の端役みたいだ。だが、目だけが異様に落ち着いている。落ち着きすぎて、人間味が薄い。


「推し、ですか」


「アリスを“素材”にする目をしてる」


 折原の瞳が、ほんの一瞬だけ、揺れた。


 それは罪悪感でも、怒りでもない。


 ——最適化の光だ。


「市長」


 折原は穏やかに言った。


「街が呼吸できる導線を作っているだけです。人が来たいなら、来る。見たいなら、見る。支えたいなら、並ぶ。それを“悪”と言うなら、市長が街を嫌いだと言っているのと同じです」


 言葉が、正しい顔をしている。


 義弘は、笑ってしまいそうになった。笑えない時ほど、笑ってやれ。トミーの言葉が喉の奥に刺さる。


 義弘は折原に近づき、低い声で告げた。


「嫌いじゃない。……だから、守る」


 折原は瞬きをした。


「守るために、止めますか?」


「守るために、“別の場所”へ逸らす」


 トミーが、義弘の横で小さく頷いた。


「やっと市長がサムライ・ヒーローの顔になった」


 折原は、静かに息を吸った。


「逸らせますか。列は、市長を追いかけますよ」


「追いかけさせる。追いかける先に“損”を用意する」


 義弘は、ポケットのメモを握りつぶした。紙が汗で柔らかくなる。


 行政の札は、正しい顔で殴るものだ。


 だが、今必要なのは——正しい顔で“損”を作る札だ。


 折原は、ほんの少しだけ口角を上げた。


「……面白い。さすが“本物”」


 その一言が、いちばん腹立たしかった。褒め言葉の仮面。素材の評価。


 折原は振り返り、パーティションの隙間へ消えた。


 消えるのが上手すぎる。人混みに紛れるのではない。最初から、人の視界の外にいる。


 義弘は、運営室を出た。市役所の入口へ戻ると、列はさらに増えていた。


 外の大型モニターに、刀禰ミコトの配信が映っている。


『みんなー! サムライ・ウィーク、最高だよね! でもね、無理しないで! 市長も膝“要配慮”だし! アリスちゃんも今は治療中! だから、応援は“正しく”やろうね! 並ぶなら、きれいに! 迷惑はダメ!』


 善意だ。


 善意が、列を整える。


 整った列は、さらに強くなる。


 トミーが、モニターを見上げて小さく舌打ちした。


「……あいつ、煽ってる自覚が薄いのが最悪だな」


「ミコトは悪くない」


「悪くないのが、最悪って言ってんだ」


 義弘は、市役所の階段を降りた。


 列の先頭に立つボランティアが、義弘を見る。目を輝かせ、胸の前で手を組む。


「市長! サイン、お願いします! 一緒に——」


 義弘は、笑顔を作らなかった。代わりに、頭を下げた。


「すまない。今は“市の仕事”だ」


 その言葉は、列に刺さった。人は「公式」に弱い。市の仕事——それは、並ぶ理由を変える。


 列がざわめいた。空気が一瞬だけ揺れる。


 その揺れを、義弘は掴む。


 揺れを掴んで、別の方向へ投げる。


 義弘は、通りの向こう——未完成リングの方向を見た。


 あそこは、札が怪談になった場所だ。


 列が巨大になりすぎると、都市は噂に飲まれる。


 噂に飲まれた都市は、手順を失う。


 手順を失うと——回付の魔術師は、仕事ができなくなる。


 義弘は、トミーにだけ聞こえる声で言った。


「列の行き先を、リングへ向ける。……ただし、病院から遠ざける形で」


「派手だな」


「派手にやらないと、列は曲がらない」


 トミーは、義弘の膝を一瞥した。


「動けるのかよ」


「動くしかない」


 義弘は息を吸う。膝が軋む。街が笑う。列が呼吸する。


 そして、義弘は一歩踏み出した。


 ——その瞬間。


 遠くで、紙がめくれるような音がした。


 風かもしれない。


 誰かが資料を捲っただけかもしれない。


 だが、義弘の背筋は冷えた。札の音だ。回付の音だ。既成事実が押される音だ。


 振り返ると、モニターの下、雑踏の影で、誰かがしゃがみ込んでいた。


 回収班の制服でもない。親善の腕章でもない。


 ただ、手順に慣れた手つき。


 紙を揃え、角を揃え、スタンプ台を探すような指。


 顔は見えない。


 存在感がない。


 義弘は、唇の内側を噛んだ。


 列の作曲家は一人じゃない。


 そして——


 列は、列を呼ぶ。

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