第百三十一話 列の作曲家
新開市の朝は、警報ではなく「開始」の音で始まるようになっていた。
笛。拍手。ポータブルスピーカーの軽いファンファーレ。ARの案内板が、透明な文字で「こちら」と笑う。
そして何より――足音だ。
同じテンポで、同じ間隔で、同じ方向へ流れていく足音。
市役所前の広場は、もう“公式”を笑っていた。
《サムライ・ウィーク》――国が主導し、名は確定した。
なのに新開市は、その確定を待たずに、昨日からもう運用している。
「市長ー! 今日の出勤動画、撮っていいですか!」
「サインください! 膝の傷、痛そうだけどかっこいい!」
「本物の義弘、ここに来るって聞いたんですけど!」
叫びは善意で、目はキラキラして、手には紙袋とスマホ。
手順に従う顔をしているのに、群衆の芯は娯楽の匂いがした。
津田義弘は、市役所の正面玄関のガラス越しに、それを見下ろしていた。
市長室の窓から見える“列”は、もはや景色だった。
景色なのに、呼吸を奪う。
「……また列か」
呻くように言うと、隣でトミーが腕を組んだ。小柄な相棒は、見た目ほど軽くない顔で窓の下を眺めている。
しばらく黙って、鼻で笑った。
「列? 違う。あれは**“運営”**だ」
トミーは言い切って、咳払いみたいに短く笑いを殺した。
「運営?」
「列を作って、列を伸ばして、列を正しく見せてる。暴徒じゃない。だから止めづらい」
トミーの声は、妙に確信があった。動物の勘、というより、何度も痛い目を見た人間の判断に近い。
「……病院には、絶対に近づけるな」
義弘は低く言った。
氷の母の無言の圧が、まだ首の後ろに残っている。
“病院に支障を出すな”。
“快復の邪魔をするな”。
命令ではない。だが命令より強い。
その病院で今、アリスは眠っている。起きたり、沈んだりを繰り返しながら。
義弘の膝はまだ治りきっていない。
市長としての机上の戦いは、傷の痛みより厄介だ。
だが――彼の“アキレス腱”は、それでも膝ではない。
「市長。真鍋さん、来てます」
秘書の声が入った直後、ノックもそこそこに真鍋佳澄が入ってきた。警察の制服ではなく、今日は現場用の軽装。目の下に、薄い影。
「またあなたですか、津田さん」
その言い方が、今日も正確に刺さる。
義弘は苦笑し、トミーは肩をすくめた。
「……こちらの台詞だ、真鍋」
「市役所の受付、もう“戦場”です。苦情と要請と善意が同時に来て、窓口が焼けてます」
「焼けるのはいつものことだ」
「いつもの火種と違います。今日は……“正しい”火です」
真鍋は窓の外を指した。
列が、太くなっている。
横に広がるのではなく、一本の川のように形を整えながら伸びていく。
まるで誰かが、線を引いているみたいに。
「……誰が線を引いてる」
義弘が呟くと、真鍋が薄いファイルを机に置いた。
「臨時委託の“手順担当”。観光指定都市イベントの現場調整。名前、折原 連」
折原。
聞き覚えがない。
だからこそ嫌な予感がした。
「市役所の臨時委託なんて、いくらでもいる」
「ええ。いるはずなんです。でも――この人、目立たないのに、どこにでもいる。受付にも、観光課にも、危機管理にも、“間”にいる」
真鍋がページをめくると、雑多な写真が並んでいた。
列の端で、腕章をつけた青年がいる。
配信の裏で、ケーブルをさばいている青年がいる。
ボランティアの中に混ざって、誘導棒を振っている青年がいる。
AR案内のブースで、端末に何か打ち込んでいる青年がいる。
どれも、存在感が薄い。
薄いのに、そこにいる。
何より厄介なタイプだ。
「掲示板では、もう二つ名がついてます」
真鍋は淡々と読み上げた。
「『列の作曲家』」
「『回付の魔術師』」
「『映え線引き職人』」
トミーが、思わず吹き出しかけて咳払いした。
「……新開市って、ほんと名前つけるの好きだよな。名前つけりゃ、責任が生えると思ってる」
窓の外の人波を指でなぞるように見て、続ける。
「笑っていいなら、私も笑いたい」
真鍋は笑わなかった。
「市長。あの人、列を“善意”で固定し始めてます」
「固定?」
「列ができる→みんな安心して並ぶ→並んだことが既成事実になる→既成事実を守るために善意が増える。
このループを、意図的に回してる」
義弘は、窓の外の人波を見た。
確かに、彼らは怒っていない。
乱暴でもない。
むしろ行儀が良い。行儀が良すぎる。
行儀の良さが、都市を締め上げる。
「……病院に向けさせるな」
義弘が言うと、真鍋が即答した。
「だから、みんな“病院のため”に動いてる顔をしてるんです。
応援、祈願、回復の願い、善意の差し入れ、快復の証拠を見たい、心配だから――」
そこまで言って、真鍋は一度だけ目を伏せた。
「あなたが止めれば、あなたが悪者になります。“善意を止めた市長”に」
義弘の胸の奥が、嫌な音を立てた。
善意を止める。
それは、新開市では罪に近い。
この都市は、善意の顔をした熱狂で呼吸している。
「……逸らす」
義弘は低く言った。
止めない。止められない。
だから、場所を変える。
「病院から離す。安全な場所に誘導して燃やし尽くす。――未完成リングの外周、見学可能区画。
危険区域は閉じたまま。見学導線だけ作る」
真鍋の眉が動く。
「観光……導線を、あなたが作るんですか」
「作らないと、誰かが“勝手に”作る。勝手に作る導線は、病院に刺さる」
トミーが頷いた。
「正しい導線で殴る? いいね。殴るなら先に言っとく。“正しい顔”の奴ほど、平気で人を潰す」
正しい導線で殴る。
新開市の戦い方として、最悪の比喩なのに最適だった。
「ただし」
真鍋が言った。
「折原がそれを“取り込む”可能性があります。あなたが作った導線を、彼が“映える一本線”にする」
「……なら、取り込ませた上で、握る」
義弘は机の上の書類に手を伸ばした。
市長の署名欄。
紙が重い。
重いのに、それしか武器がない瞬間がある。
「真鍋、受付を守れ。相談役に押し上げられそうになってるって聞いた」
「押し上げられ“かけてる”というか、もう半分押し上げられてます。『専門家が窓口に』って善意で言われると、断りづらい」
「断れ。徹底的に時間を稼げ」
真鍋が、皮肉でもなく素直に言った。
「あなたが言うと、腹が立つのに納得しますね」
「仕事だ」
「仕事です」
真鍋はファイルを抱えて出ていった。
背中が小さく見えた。
彼女もまた、列に飲まれかけている。
トミーがぼそっと言う。
「市長。折原ってやつ、どこが“推し”なんかね」
「推し?」
「列の作曲家なら、誰か一人、音の中心を置くはず。
曲って、主旋律がないと伸びないからな」
義弘は言い返せなかった。
嫌な予感が、喉の奥に貼りついたままだった。
一方その頃――病院の白い天井は、いつもより近かった。
アリスは、目を開けたり閉じたりしていた。
意識の水面に浮かぶ時間が、短い。
眠りが薄れるぶんだけ、熱が戻る。
熱が戻るぶんだけ、怒りが戻る。
怒りが戻るぶんだけ、翼の残像がちらつく。
白い部屋で、白い音。
モニターの電子音と、空調の低い唸り。
そして遠く――外のざわめき。
列の音だ。
窓の外から、拍手が遅れて届く。
笛が鳴る。
同じテンポの足音が、揃っていく。
それはどこかで聞いた怪談に似ていた。
未完成リングの“足音”。
あれは、ただの噂だったはずなのに。
「……うるさい」
アリスは喉の奥で呟いた。声にならない。
隣に、シュヴァロフがいる。
完全修理ではない。家事ができる程度――そのはずだった。
だが今、シュヴァロフは家事より重要なことをしている。
椅子に座り、毛布を整え、点滴のラインを確認し、看護師が入ってくれば頭を下げる。
そして何より、アリスの“意思”を代行する。
アリスが目を開ける。
シュヴァロフはすぐに気づく。
ゆっくり頷き、端末に短い文章を打った。
《面会拒否》
《撮影拒否》
《差し入れ拒否(病院規定に従う)》
《回復優先》
画面をアリスに見せる。
アリスは微かに眉を動かした。
それが“肯定”だと、シュヴァロフは理解した。
病室の扉がノックされた。
入ってきたのは医師――ではない。白衣だが、袖口が少し違う。
名札は簡素で、所属がぼかされている。
オスカーが手配したNECROテック専門技術者。
“密かに”派遣されている人間。
「……シュヴァロフさん、ですよね。状況、変わりました」
技術者が小声で言う。
シュヴァロフは立ち上がり、丁寧に会釈する。
アリスは目だけ動かした。
“話せ”。
その意思を、シュヴァロフが受け取る。
「NECROの最適化が、勝手に強くなってます。本人の意思の統率が追いつかない。
外部刺激――特に、AR/VR経由の情報が多いと、負荷が跳ねる」
シュヴァロフは、すぐに端末を見せた。
《外の騒音》
《列》
《配信》
《公式》
技術者が苦く笑った。
「全部、刺激です。全部、今の新開市の“正しい顔”です」
アリスの喉が鳴った。
悔しさ。
怒り。
そして――怖さ。
彼女は最強のNECROテックエージェントとして扱われてきた。
でも今は、ただの患者として“善意”に包まれて窒息しそうだ。
シュヴァロフが、アリスの手をそっと握る。
機械の手は冷たいのに、そこにあるのは家庭の温度だった。
アリスは、目を閉じた。
列の音が、遠くで揃っていく。
拍手。笛。足音。
そして――どこかで、同じテンポの足音が一瞬だけ、噂の足音と重なった気がした。
市役所前では、折原 連が誰にも気づかれずに仕事をしていた。
腕章は小さい。
声は大きくない。
笑顔も派手じゃない。
ただ、肯定の言葉だけが正確だ。
「はい、こちらです。並んでいただければ大丈夫です」
「ありがとうございます。撮影はこの枠の中でお願いします」
「すみません、差し入れは病院規定で――でも、回復祈願の札はこちらで受け付けます」
受け付けます、という言葉が人を安心させる。
安心は列を作る。
列は既成事実になる。
折原は端末を操作した。
AR案内板の表示が変わる。
《回復祈願はこちら》
《撮影導線:ここ》
《差し入れ禁止(回復優先)》
《応援メッセージ:送信》
善意の札だ。
誰も反対できない札だ。
押すほど正しくなる札だ。
折原は、画面の片隅に表示されるアイコンをちらりと見た。
公式キャラクター、アリス。
笑顔の素材。
“素材”は軽い。だから強い。
誰かが隣で話しかけてきた。
「折原さん、神っすね。列、綺麗に流れてます」
配信スタッフだった。
折原は小さく頷いた。
「みんな協力的なので」
協力的。
その言葉がすべてを飲み込む。
折原は、さらに小さな調整を加えた。
列を、病院へ向かわせない。
向かわせない代わりに、別の“見せ場”へ導く。
未完成リング外周、見学可能区画。
安全。
映え。
正しい。
ちょうどその時、折原の端末に通知が入った。
《メインビジュアル修正案:公式キャラクター露出増》
《回復祈願パレード:企画成立》
《市役所前に“第一列”を固定》
折原は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
喜びではない。
確認だ。
「……曲は、もうできてる」
小声で言って、画面を閉じる。
彼は、誰かを潰したいわけじゃない。
怒りもない。
ただ、最適化したい。
素材を、最も効率よく“公式”にしたい。
列の作曲家は、音を整える。
人は音に合わせて動く。
動いたことが、都市の意思になる。
午後。市役所の受付は、予告通り戦場になった。
怒鳴り声はない。
あるのは丁寧語の洪水だ。
「お忙しいところ恐れ入ります」
「ご尽力に感謝いたします」
「市長のご英断に期待しております」
「善意として申し上げますが」
善意として。
その枕詞が、刃物のように刺さる。
窓口の前に人が並び始める。
自然に。
まるで重力のように。
真鍋佳澄は、窓口の裏で深く息を吸った。
押し上げられかけている。
“専門家が窓口に”。
“治安と医療の相談役”。
善意の階段が、彼女を勝手に上に運ぼうとしている。
(ふざけるな)
心の中で言い、顔は礼儀正しく保つ。
礼儀正しさは、この都市での盾だ。
「申し訳ありません。市長への直接要請は手順上――」
言いかけた瞬間、紙が差し出された。
回付済の印が、薄い紙の端に“勝手に”押されている。
真鍋の背筋が冷えた。
札の語彙だ。
回付。承認。既成事実。
あの騒動の残り香が、別の形で戻ってきている。
(誰が――)
視線を上げると、列の向こうに折原がいた。
目立たない。
ただ立っているだけ。
なのに、そこだけ空気が整っている。
真鍋は理解した。
あれは暴徒じゃない。運営だ。
運営が暴走すると、都市は止まらない。
真鍋は、書類を受け取らずに笑った。
「素晴らしいご提案です。――ただ、形式上の確認が必要です。担当課が“二つ”またがっていますので、まずこちらの整理から」
時間稼ぎ。
徹底的に。
列がざわめく。
ざわめきが、しかし不満ではなく「なるほど」に変わる。
善意は、手順が好きだ。
手順があると安心する。
安心すると並ぶ。
並ぶと固定される。
地獄は、正しい顔で進む。
夕方、義弘は市役所の裏口から出た。
正面から出れば、列に飲まれる。
裏口は逃げ道だ――市長にとっては、情けないほど必要な。
義弘が何か言う前に、トミーが横へ半歩寄った。背中の位置で、ついでみたいに釘を刺す。
「市長サマ。折原ってやつ――たぶん、誰も気づいてない。気づかれないのが才能だ。厄介だぞ」
「何にだ」
「自分が、敵として見られてないことが最大の武器だって。
だから、武器が強すぎる」
義弘は苦く笑った。
「新開市の敵は、いつもそうだ。悪意より、正しさが強い」
その時、義弘の端末が震えた。
市役所からの連絡。
病院からではない――それが、少しだけ救いで、同時に怖かった。
《回復祈願パレード:市役所前より開始》
《見学導線:未完成リング外周へ》
《安全運用:運営手順担当より》
運営手順担当――折原 連。
義弘は立ち止まった。
空の色が薄い。
列の音が遠くで揃っている。
「……俺が作る導線を、先に作られた」
トミーはふっと口角だけ上げた。
「追いつけない馬っているだろ。デュラハンの馬みたいなやつ」
「……デュラハンの馬か」
「今回は、列の馬だ。乗った瞬間、置いていかれる」
義弘は目を閉じた。
膝が痛む。
市長の椅子が重い。
それでも――守るものがある。
病室の白い天井。
熱で汗ばんだ少女の額。
シュヴァロフの冷たい手。
守るべきものが明確なほど、決断は鋭くなる。
「……いい」
義弘は目を開けた。
「列を止めない。止められない。
なら、列を“損”にする。事故を事故にさせないのと同じだ」
そして、義弘の横顔を見上げて、最後だけ少しだけ真面目な声にする――もちろん、真面目すぎない程度に。
「やっとだな、ジジイ。……その顔だ。サムライ・ヒーローの顔。遅いけど、今はそれでいい」
「市長の顔でやる。――それが一番汚れる」
汚れる覚悟。
私人としての反撃の芽。
その兆しが、胸の奥で燃えた。
遠くで拍手が鳴った。
笛が鳴った。
足音が揃った。
列が列を呼ぶ。
列が都市を呼ぶ。
都市が、次の地獄を呼ぶ。
そして、その音に――一瞬だけ、別の足音が混じった気がした。
未完成リングの奥。
噂の足音。
誰も気にしない程度の、ほんの一瞬。
義弘はそれを聞き逃さなかった。
「……来るなよ。来るなら、俺が先に行く」
市長は歩き出す。
列の作曲家が引いた線の上へ。
音の中心を奪うために。




