第百三十話 列が列を呼ぶ
新開市の朝は、いつもより静かだった。
静かなのに、息が荒い。街全体が、何かを待っている。
義弘は市長室の窓から、未完成リングの方角を見た。
昨日までの“札の巨人”の残像は消えたはずなのに、今日は別のものが街を覗いている気がする。
――列だ。
列は生き物だ。
人が並ぶのではない。並ぶという概念が、勝手に人を連れてくる。
「……来るぞ」
膝が軋む。
義弘は杖のように机に手を置いて、息を吐く。今日の“公式”は、いつもより正しい顔をしている。
端末が鳴る。
『高速機動隊ドローン部隊、F.qre.d.qve――治安協力デモンストレーション、予定通り進入します』
「病院前は?」
『病院前は外す。……強い意向です』
強い意向。誰のものかは言わない。言わなくても分かる。
氷の母の微笑は、そういうときだけ世界一冷たい。
義弘は頷いた。
「了解だ。外す。……外すが、周辺はどうする」
『市民が――』
そこで通話が一瞬、詰まる。
『……勝手に、集まり始めています』
義弘は目を閉じた。
“勝手に”という言葉ほど、行政にとって恐ろしいものはない。
病院の正面玄関には、F.qre.d.qveの姿はなかった。
その代わり、病院から二つ先の交差点に、静かに現れた。
音はしない。
吸音ではなく、最初から“音を必要としていない”飛び方だ。
編隊が、きっちり隊列を維持して横切る。
左右の間隔が寸分違わない。高度が揃っている。乱れがない。
市民は息を呑み、次の瞬間には叫んだ。
「うおおおおお! パレードじゃん!!」
「見た!? 今の! 本物だ!」
「待って待って、あれ、あのラテン語のやつだろ!」
「撮れ撮れ撮れ! 配信回せ!」
配信。
カメラ。
コメント欄。
新開市の肺が、いっせいに膨らむ音がした。
刀禰ミコトの配信が、すぐに上書きする。
『みんなー! 落ち着いてね! 押さない! 走らない! でも……見たいよね!?』
善意の声だった。
彼女は本気でそう言っている。
だからこそ、危険だ。
『見学するなら“列”を作ろう! はい、並べば安心! 並べば見れる! 並べば――公式!』
公式。
その単語が落ちた瞬間、人が“並ぶ理由”が手に入った。
誰かが、歩道の端にコーンを置いた。
誰かが、ロープを張った。
誰かが、AR案内の矢印を追加した。
誰か――。
折原 連は、交差点の影で腕を組んでいた。
彼は特別な服を着ていない。腕章もない。制服もない。
でも誰も不思議に思わない。
なぜなら折原は、“いるべき場所”にいる顔をしていたからだ。
折原はスマホを二回タップして、AR標識を一本増やす。
《見学導線:こちら》
《安全のため:立ち止まらない》
《撮影エリア:右側》
追加したのは、たった一本の矢印。
それだけで、人の流れは“正しく”なる。
正しい流れは、美しい。
美しいものには人が集まる。
集まれば列が育つ。
列が育つと、列は自分の餌を作る。
「警備ボランティア募集だって!」
「救護班の受付あるよ!」
「ヒーロー控えの場所って、あそこ?」
「配信者ゾーンこっち! こっちは一般!」
折原は笑わない。
笑う必要がない。
列が笑っているからだ。
義弘は現場に出た。
膝を庇いながら、真鍋佳澄と並ぶ。
「……並んでる」
「並んでますね。しかも、綺麗に」
真鍋が吐き捨てるように言う。
「綺麗な列ほど、厄介です。崩せない。崩した側が悪者になる」
その通りだった。
列は暴徒ではない。
暴徒より厄介だ。正しさの顔で増殖する。
義弘が一歩進むと、前方の列が“自然に”道を開けた。
だがその動きは自然じゃない。指揮がある。
どこかで誰かが、手順を回している。
義弘は周囲を見回す。
配信者。ボランティア。モブのサムライ・ヒーロー。ヴァーチャル・サムライ。企業の腕章。
みんな“善意”で動いている。
善意が重なり、善意が押し合い、善意が救急車を止める。
「市長さん! こっち来て! 一緒に写って!」
「義弘さん! サムライ・ウィーク、マジでやるんですか!」
「アリスちゃんは!? 見せて! 元気なの!?」
――アリス。
名前が飛ぶたび、義弘の胸が硬くなる。
病室には、シュヴァロフがいる。義弘とオスカーが手回しした“家族の札”だ。
守るものが、今ここにはいない。
いないからこそ、列は勝手に“アリス”を作り出す。
折原の仕掛けた案内板が、視界に入った。
《アリス公式メッセージ:押さないでね》
《アリス公式メッセージ:病院の近くは静かに》
《アリス公式メッセージ:困ったらスタッフへ》
アリスの絵柄。アリスの色。アリスの語尾。
本人がいないのに、本人の“お願い”が街に貼られている。
それは優しい。
優しいから、誰も疑わない。
真鍋が顔をしかめた。
「……誰が作ったんですか、これ」
「知らん」
「市長が知らない“公式”が、増えてる」
義弘は息を吐いた。
「新開市は、いつもそうだ」
そして今日、それが牙を剥く。
病院前は静かだ。
だが周辺の交差点が、じわじわと詰まる。
見学者列。
警備列。
配信者列。
ヒーロー待機列。
列同士が、角で擦れ合い始める。
最初は肩が当たるだけ。
次は声が荒くなる。
次は押し返す。
「押すなって!」
「お前が割り込んだんだろ!」
「配信してんだぞこっちは!」
「救護通すって言ってんだろ!」
救護。
その単語が出た瞬間、全員が“正しい側”に立ちたくなる。
正しさは盾だ。
盾は人を押す。
救急車が一台、交差点手前で止まった。
サイレンが鳴っているのに、前に進めない。
真鍋が無線に怒鳴る。
「誘導班! 通路を空けろ! 今すぐ!」
だが誘導班は、誘導班で“列”に吸われている。
「誘導班は、こちらの受付で登録を――」
「登録!? 今か!?」
「安全のためです! 事故防止です!」
安全のため。
事故防止。
正しさが、救急車を止める。
義弘は前へ出た。
サムライ・ヒーローとして、列の前に立つ。
「道を空けろ」
命令は短い。
短いが、列は止まらない。
列は“言葉”では動かない。
列は“手順”で動く。
どこかで、誰かが手順を回している。
折原は交差点の端で、コーンを一つ動かした。
たった数十センチ。
その数十センチが、列の角度を変える。
列が、救急車の前に“別の列”を作る。
《救護優先:こちらへ》
《救護動線:回付済》
紙の端の薄い「回付済」が、ARで勝手に押される。
誰も押していないのに、“押された扱い”になる。
列は納得する。
「あ、救護はこっちだって」
「なら、仕方ないな」
「ほら、正しい導線がある」
救急車は動けないまま、別の方向へ回される。
回される先が正しいかどうかは、誰も確認しない。
確認するのは、手順だけだ。
義弘の背中に、冷たい汗が伝う。
「……誰だ」
誰がこれを回している。
誰が列を育てている。
誰が“公式”の顔で街を締めている。
義弘の目が、ようやく折原を捉えかける――が。
折原はちょうど、別の人に書類を渡していた。
書類はただの紙だ。内容は「ボランティア受付」。
受け取った人は、嬉しそうに走る。
「了解です! 回します!」
回す。
回付。
列は回る。
折原はそこに“いない”ように見える。
見えるのに、記憶に残らない。
誰も折原を敵として認識しない。
敵はいつも、現場で汗をかく者だ。
そこへ、別の“公式”が割って入る。
空の方角から、金属の光が増えた。
OCMのドローン・サムライ・ヒーロー部隊。
テカテカの装甲。刻印された広告。正しい笑顔。
そして――広告刻印の装甲を付けた、コロボチェニィクとグリンフォン。
アリスの戦力。
アリスの許可。
アリスの意思。
……どれも今は曖昧なのに、“公式”がそれを正当化する。
『治安協力に参りました。救護動線を確保します』
機械の声は冷たい。
冷たい声は、正しい。
列が歓声を上げる。
「うおおおおお! OCMきた!」
「これが公式サムライウィークか!」
「アリスちゃんの機体だよな!? ほら広告ついてるけど!」
「映える!!」
映える。
その言葉が、列をもう一段太くする。
義弘は歯を食いしばった。
――救護を確保するために来た連中が、列の燃料になる。
真鍋が義弘に低く言う。
「市長、これ……本当に“逸らす”しかない」
「逸らす先が要る」
「作るしかない」
義弘は視線を上げる。
F.qre.d.qveの編隊が、遠くでまだ隊列を維持している。
治安。
パレード。
公式。
全部が正しい顔で並んでいる。
義弘は、ふっと笑った。笑いたくないのに。
「……なら、列を列で受ける」
「何をする気ですか」
「列を、俺が作る」
行政で。
市長権限で。
そしてサムライ・ヒーローの名前で。
義弘は無線を取った。
「市役所前広場、臨時“公式見学エリア”にする。誘導を全部そっちへ回せ。配信者も、ボランティアも、ヒーローも、全部だ」
『……そんな急に――』
「急だから効く。列は急を好む。映えるからだ」
真鍋が苦い顔をした。
だが止めない。止められない。
列はもう、止まらない。
なら、列の行き先だけは奪う。
義弘は一歩前に出て、声を張った。
「市長命令だ。ここは病院の周辺だ。静かにしろ。見学したいなら、市役所前へ並べ」
“並べ”。
その一言が、列に餌を投げる。
列が、わずかに向きを変える。
向きを変えた瞬間――列が一瞬だけ迷う。
角折り札のように、手順が引っかかる。
折原が、目を細めた。
義弘の“列”が、折原の“列”に干渉した。
折原はコーンをもう一つ動かす。
動かしただけで、迷いは消える。
《市役所見学導線:こちら》
《安全のため:立ち止まらない》
《アリス公式メッセージ:押さないでね》
折原は、義弘の列を“飲み込んだ”。
義弘の作った列が、折原の作った列に統合されていく。
折原は、心の中で小さく頷いた。
――いい。素材が揃ってきた。
素材。
アリスの公式キャラ性。
義弘の市長命令。
アライアンスのデモ。
OCMの治安協力。
刀禰ミコトの善意の配信。
すべてが正しい顔をしている。
だからこそ、列は巨大になる。
病院の前は静かだった。
その静かさが、逆に恐ろしい。
静かな分だけ、周辺が騒がしい。
騒がしい分だけ、病室の中が重い。
病室の扉の前には、シュヴァロフがいた。
完全修理ではない。家事ができる程度。
それでも、アリスの意思の代行として“そこにいる”。
シュヴァロフの手が、ほんの少しだけ動く。
アリスの指の代わりに、毛布の端を整えるように。
その姿を、誰も配信しない。
できない。させない。
だが、外の列は勝手に“アリス”を語り続ける。
病院の外で、折原は誰にも見られずに呟いた。
「……アリスさんは、列を柔らかくできます」
それは祈りのようで、計算のようだった。
推しへの敬意であり、推しの利用でもあった。
折原は歩き出す。
人の間をすり抜ける。
誰にもぶつからない。誰にも止められない。
誰も、彼を警戒しない。
列だけが、彼の足音に合わせて形を変える。
――列が列を呼ぶ。
そして次の列は、“アリスのため”という正しい顔をして、もっと凶悪になる。




