第百二十五話 事故を事故にさせない
未完成リングは、夜でも明るい。
明るいのに、人気がない。
明るいのに、音がない。
――いや。音はある。
音が「正しく」消されている。
義弘が一歩踏み出すたび、床材がわずかに鳴るはずだった。金属と樹脂の擦過音。建設現場特有の、乾いた反響。
それが、鳴らない。
「……吸音か」
トミーが鼻で笑う。
「観光用の配慮?」
「違う。これは戦場用だ」
義弘は膝をかばいながら、リングの内壁に沿って進む。
壁のあちこちに、札が貼られていた。
《安全点検予定》
《健康管理》
《定期確認》
そして、見慣れない札が混ざっている。
《治安支援:迂回路確保》
《現場安全:立体制圧》
《非致死:関節破壊》
――「非致死」。
これが一番、たちが悪い。
義弘が札を見上げる。
札の角が、ほんの少しだけ折れている。
「角折り札……迷ってるな」
札が迷っている。つまり、手順が迷っている。
誰かが、意図的に矛盾を混ぜた。市役所の戦場で、義弘が剥がした札の余波だ。
だが、矛盾があっても動く。
動くように作ってある。
“事故”は止まらない。
止めるのは、現場の肉体だ。
そのとき。
――立体の影が、天井から落ちた。
影は音を連れてこなかった。
視界だけが奪われる。
義弘の脳が「巨大」と判断する前に、脚が四本、床を踏んだ。
リノトーレークス。
都市戦闘用、立体起動、全方位。
そして今回は――“充分に準備された”強敵。
装甲の継ぎ目が少ない。
関節が覆われている。
背面の姿勢制御ノズルが増設されている。
武装は、殺すためではない。壊すためだ。
義弘が息を吐く。
「……借りを返す気かよ」
トミーがぼそり。
「いや、借りじゃない。これ、利息まで乗せてきた」
リノトーレークスが動いた。
動いた、ではない。滑った。
床を蹴らずに、距離を奪う。
義弘の膝が「来る」と叫ぶより早く、
全方位の打撃が降った。
拳でも刃でもない。
装甲関節破壊のための“角”。
鋭角の突起が、義弘の脚部に向けて正確に入る。
義弘はスーツを展開する。
サムライ・スーツが空気を裂き、外装が組み上がる音が遅れて追いつく。
――遅い。
準備された相手は、展開の一瞬を狙う。
リノトーレークスの二本目の脚が、義弘の膝へ向かった。
「っ……!」
義弘は踏み込まず、沈む。
体重を落とし、衝撃を骨で受けない角度へずらす。
膝が軋む。痛みが視界を白くする。
それでも、倒れない。
倒れた瞬間、事故は成立する。
“市長が転倒した”
“危険区域で事故が起きた”
“健康管理が必要”
札はそれを待っている。
義弘は刀を抜いた。
抜刀の音が、吸音材に呑まれて消える。
だから、光だけが走る。
斬る場所は決まっている。
関節ではない。関節は硬い。守られている。
斬るのは――導線。
リノトーレークスの足が床を滑るたび、
足裏の微細な突起が「噛む」。
その噛みが、ここまでの機動を成立させている。
なら、床を変える。
義弘は未完成リングの床板の継ぎ目へ刀を差し込み、
板を剥がした。
ギィ、と鈍い音。
吸音が消しきれない、物理の悲鳴。
床板が浮く。
浮いた床板は、滑走の敵だ。
リノトーレークスの脚が一瞬だけ躓き、
その一瞬を、義弘は逃さない。
刀が走る。
刃は脚ではなく、背面の姿勢制御ノズルへ。
ノズルが弾ける。
白い噴流が漏れる。
姿勢が揺れる。
「——よし」
勝った、ではない。
事故にさせないだけだ。
リノトーレークスは転ばない。
転ばないように作られている。
揺れた身体を、四本脚が必死に支える。
その瞬間、上から降る。
天井の梁に、別の“札”が貼られていたのに気づく。
光の角度で、読み取れる。
《安全確保:落下物注意》
遅い。
注意の札は、予告ではなく、言い訳だ。
リノトーレークスが、梁を撃った。
非致死の弾で、梁のボルトだけを削る。
落ちるのは鉄骨。重い。
――義弘の頭上へ。
義弘は一瞬、膝が動かなかった。
痛みではない。
札の手順が「ここで倒れろ」と言っているような感覚。
そこへ、トミーが叫んだ。
「おい! “事故”にするな、ジジイ!」
乱暴な声。
新開市の、ふざけた体温。
義弘の身体が、それに反射する。
義弘は刀で鉄骨を受けない。受けたら折れる。
受けるのは、支点。
鉄骨の落下角度の先に、未完成の支柱。
義弘はそこへ飛び込み、刀を支柱に突き立て、
鉄骨を滑らせて落とした。
轟音。
吸音が死ぬほどの音。
リング全体が揺れる。
その揺れが――観客席になるはずだった外周へ伝わり、
遠くから歓声みたいなざわめきが返ってくる。
誰かが見ている。
誰かが配信している。
事故は、数字になる。
義弘は歯を食いしばる。
「……損にする」
義弘は立ち上がり、リノトーレークスへ刀を向ける。
狙いは“勝利”ではない。
採算を壊す。
準備された強敵は、準備に金がかかっている。
運用に札が必要だ。
言い訳が必要だ。
証拠が必要だ。
そして――“成功”が必要だ。
なら、成功を消す。
義弘はリングの内壁へ駆けた。
膝が悲鳴を上げる。だが止まらない。
内壁には、工事用の巨大な点検扉がある。
義弘はその扉のロックを、刀で叩き割った。
扉が開く。
中は暗い。
暗いが、風がある。
リノトーレークスが追う。
追うために、脚を踏み込む。
義弘は、扉の縁に刀を引っかけ、
最後の力で扉を半閉にした。
半閉は、完全な遮断ではない。
だが、四脚の幅に対して、最悪の幅だ。
リノトーレークスの脚が一本、扉に噛む。
扉が歪む。
歪みが、関節に伝播する。
非致死の兵器は、関節破壊を狙う。
なら逆に、関節を壊させる。
義弘は叫んだ。
「来い! “安全確保”してみろ!」
挑発ではない。
札への宣言だ。
リノトーレークスは、踏み込む。
踏み込んだ瞬間、扉の歪みが限界を超え、
関節が自壊した。
ギャリ、と異様な音。
脚がひしゃげる。
倒れないように、残りの脚が必死に支える。
しかし姿勢制御ノズルを斬られた身体は、支えきれない。
――それでも、倒れない。
倒れないまま、背面の武装が開いた。
準備された強敵は、最後の最後に“見せ場”を残していた。
背面から、鎮圧用の弾が乱射される。
狙いは義弘ではない。
周囲の構造物だ。
崩落。火花。粉塵。
事故の絵が、完成する。
トミーが舌打ちする。
「うわ、やりやがった。映えるやつ」
義弘の目が細くなる。
「……だから損にする」
義弘は刀を振り上げ、
背面武装の開閉部へ刃をねじ込む。
斬る。ではない。
切り飛ばす。
金属が裂け、ラックごと剥がれ落ちる。
武装が床へ落ち、火花が散る。
乱射が止まる。
リノトーレークスは、沈黙した。
四本の脚は踏ん張る形のまま固まり、背のラックは裂け、姿勢制御の噴流は白い息みたいに途切れ途切れで――やがて完全に止まった。
リングの空気が、遅れて戻ってくる。
吸音が剥げた場所から、崩落の残響と、遠くのざわめきが沁み込んでくる。
勝った。
いや、事故にさせなかった。
――それが、この街ではいちばん価値がある。
義弘は刀を下げないまま、息を吐いた。
膝が熱い。骨の奥で、何かが古い軋みを立てる。
そのとき。
沈黙した機体の影から、ひとりの男が現れた。
回収班の制服ではない。親善の腕章でもない。
だが、上等な外套の着こなしが妙に“正しい”。
顔立ちは整っていて、瞳は冷たいほど澄んでいる。
――アザド・バラニ。
彼はリノトーレークスを一瞥し、次に義弘を見た。
その視線には、怒りも失望もない。
ただ、採点があった。
「あなたは――」
アザドは言葉を選ぶふうに、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「よく、耐えました」
トミーが低い声でつぶやく。
「ほめてんのか、これ」
義弘は答えず、刀の柄を握り直した。
アザドは肩をすくめるように息をつく。
そして、まるで“手順書”のページを閉じるみたいに、静かに言った。
「この機体が沈黙した時点で、今回の札は終わりです」
「……終わり?」
「ええ。あなたを事故にするための機会は、これきりでした」
あっさりと、断言だった。
負け惜しみでも、脅しでもない。
むしろ事務的で、だからこそ本当だった。
アザドは義弘の膝に視線を落とし、薄く笑った。
「あなたは勝った。――ただし、代償は増えた」
「代償を数えるのは、俺の仕事だ」
義弘が言うと、アザドは一度だけ頷いた。
「ええ。だから私は、ここで去ります」
「……次は?」
「次は、私ではありません」
その言い方が、妙に優しかった。
優しいのに、冷たい。
善意が人を縛る時と同じ温度。
アザドは踵を返し、影の方へ歩いた。
歩みには迷いがない。撤退の足取りだ。
最後に、振り向かずに言った。
「津田義弘。あなたの“奮闘”は――私の記録に値する」
「記録なんかいらねえ」
「いえ。記録は、いつも次の札になります」
そう言い残して、アザドは暗がりに溶けた。
まるで、最初からここにいなかったみたいに。
残ったのは、沈黙したリノトーレークスと、
床に散った札の切れ端と、
そして――義弘の膝の熱だけだった。
トミーがため息を吐く。
「勝ったのに、嫌な勝ち方だな」
「……この街の勝ちは、だいたいそうだ」
義弘は刀を鞘に収めた。
音が、吸音の穴を抜けて、妙に大きく響いた。




