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第百二十四話 受付という戦場

 市役所の一階は、きょうも明るかった。

 照明は白く、床は磨かれ、案内板は親切だった。


 ――だから余計に、怖い。


 受付カウンターの上には、札が増えていた。紙の札、ラミネートの札、電子札の投影。誰かが気づけば貼り、誰かが善意で更新し、誰かが安全のために上書きした。


 《期限:最優先》

 《健康管理:最優先》

 《本人確認:要出頭(市長)》

 《出頭は安全確保後》

 《優先順位:決裁待ち》

 《決裁者:不在》

 《代行者:検討中》


 最優先が渋滞している。

 それが、列を生む。


 列は怒りではなく、善意の焦りで太る。

 押すのは悪意ではなく、「先に診てもらわないと倒れる人がいる」という正しさだ。正しさは、体温を持つ。体温は、距離を詰める。


 子どもが泣く。

 年配の男性がしゃがみ込む。

 観光客らしい一団が、撮影の角度を探して肩を寄せる。


 そして、札が追いかけてくる。


 カウンターの向こう、職員の手元で電子端末が震え、印刷機が吐き出す紙が増え続ける。紙を受け取る手が追いつかない。追いつけないところへ、さらに札が貼られる。


 《安全確保:列維持》

 《列維持:安全確保のため必須》

 《必須:例外なし》


 例外がない、という札は、例外を生む。

 倒れた人はどうする。迷子はどうする。呼吸が荒い人はどうする。

 例外のための札が、すぐに生まれる。


 《例外:緊急》

 《緊急:最優先》

 《最優先:期限》


 札が、札を呼ぶ。


 ――そこへ、膝を引きずる足音が混じった。


「……おい、トミー。止めるぞ」


 津田義弘は、スーツの内側で膝を押さえたまま歩いてきた。サムライ・スーツではない。市長の服でもない。外から見れば、ただの疲れた男だ。


 その隣に、トミーがいた。腕を組み、喉の奥で笑っているような顔。


「止める? どれを?」

「全部だ」

「うわ、雑」


 トミーの目は、列を見ていた。人の体温の波。善意が暴力に近づく瞬間を、獣みたいに嗅ぎ取っている目。


「……これ、事故の前触れだぞ」

「わかってる」


 義弘が一段、息を吐く。

 それから――市長の歩き方をやめた。



「窓口、閉める」


 義弘が言うと、職員が目を見開いた。


「え、えっと、閉鎖手順は――」

「俺がやる。手順は後だ」


「市長、それは……」

「市長じゃない。津田義弘だ」


 言い切って、義弘はカウンター脇のコーンとロープを掴み、ぐっと引き寄せた。

 ロープが床を擦る音が、妙に大きい。


 善意の列がざわつく。


「え、ちょっと! 何してるんですか!」

「列があるのに!」

「救済の窓口でしょ!」


 正しい言葉が飛ぶ。

 義弘は一瞬だけ、膝の痛みで視界が白くなったが、それでも前に出た。


「救済はやる。潰れる前にやる」


 義弘は札を見た。最優先、最優先、最優先。

 札が人の顔に見えた。巨人の残像のように。


 だから――札を剥がした。


 ペリ、と軽い音。

 その音が、会場の空気を一瞬で凍らせる。


「うわっ」

「剥がした!」

「それ、勝手に――」


「勝手だ」


 義弘は、淡々と札を丸めてポケットに突っ込んだ。


「勝手に貼ったんだろ。なら勝手に剥がす。誰が死んでも“手順でした”で済ませる気か?」


 誰かが、息を呑む。

 誰かが、撮影を止める。

 そして誰かが、逆に撮影を強める。


 義弘は机の角を押して動かし、導線そのものを壊した。

 「並ぶ場所」を消してしまえば、列は維持できない。維持できない列には、札も貼れない。


 ――汚い。

 だから効く。


「市長が横暴だ!」

「独裁だ!」

「弱者切り捨てだ!」


 義弘は顔を上げる。


「その通りだ。嫌われる役は俺がやる。……代わりに、倒れるな。押すな。撮るな。死ぬな」


 言い方が乱暴すぎて、逆に何人かが笑いかけた。新開市の人間らしい、妙な反射だ。


「なにそれ、急に昭和」

「でも……言ってることは正しい」

「最優先が渋滞してるんだよ、ここ」


 元の新開市民が、戻り始める。

 善意が、少しだけ“茶化し”を取り戻す。

 茶化しは、暴走の熱を落とす。


 その一瞬の隙に、義弘は職員に低く言った。


「倒れた人は医務室。迷子は窓の外。撮影は二階の広報へ飛ばせ。今からここは、窓口じゃない。避難誘導だ」


 職員は躊躇って――うなずいた。

 手順より先に、現場が動いた。



 その頃、カウンターの奥、ガラス扉の向こうの小会議室で、真鍋佳澄は端末を見ていた。


 通知が積み上がってくる。

 札の語彙で、権限が組み立てられていく。


 《協議窓口:補佐》

 《暫定相談役:指名》

 《代行権限(限定):付与案》

 《記録作成:必須》

 《署名補助:要》


 最悪だ。


 彼女は警部補だ。治安機関の人間だ。

 “市長の代替”の補佐なんて、字面が最悪すぎる。

 だが拒否した瞬間、拒否の札が増える。増えた札が列を生む。列がまた人を押す。


 だから真鍋は、拒否しない。


 ただ、遅らせる。


「……この書式、違いますね」


 端末に向かって言う。誰に向けたでもない。

 言葉が記録に残れば、手順は止まる。


「根拠法令の条文番号が抜けてます。あと、押印者が誰か書かれてない。

 “最優先”が二系統あるので、優先順位の決裁を先に」


 さらに。


「“責任の所在”がこの先に書かれてない。

 責任を明記しない限り、権限移譲は成立しません」


 背後で、トミーが扉を少し開けて顔を出した。


「真鍋、悪い顔してる」

「褒めてないなら黙れ」

「褒めてる」

「なお黙れ」


 真鍋は目を細め、手元のログを追った。


 札の文言が、微妙に変だ。

 語彙が“正しい”のに、順番が雑になっている。

 誰かが焦っている。誰かが、期限を持っている。


「……“今日中”だな」


 小さく呟いた瞬間、端末の画面が一瞬だけチラついた。


 《治安支援:迂回路確保》

 その下に、薄い付記。まるで裏面に染みたインクみたいに。


 ――《現場安全:立体制圧準備》


 真鍋の背筋が冷えた。

 立体制圧。

 その単語は、善意の辞書に載っていない。



 受付に戻ると、札同士が喧嘩していた。


 同じ場所に、**《期限:最優先》**が三枚。

 微妙にフォントが違う。微妙に句読点が違う。微妙に“担当”の署名欄が違う。


 誰かが貼った札を、別の誰かが剥がして貼り直す。

 剥がす手は怒りではなく、使命感だ。


「違う、これは期限の札じゃない。これは健康管理だ」

「いや期限が先だ、患者が増える」

「最優先はひとつにしろ!」

「それを決める札がない!」


 その瞬間、列の中から声が飛んだ。

 半笑いの、諦めと皮肉が混じった新開市の声。


「最優先ってさ、最優先が渋滞してるじゃん」

「札、札、札……この街、紙でできてんの?」

「誰か、札に札貼ってるの見たぞ」


 笑いが漏れる。

 笑いは秩序じゃない。でも、暴走の速度を落とす。


 義弘はその笑いを利用した。

 肩を落とし、わざと疲れた声で言う。


「はいはい、紙でできてる街は燃えるぞ。燃えたら誰が責任取る。……俺だ。だから動け。通れ」


 悪態に見せた命令。

 人は、命令より悪態のほうが従いやすい。


 義弘は確信した。


 ――アザドは、時間がない。


 丁寧さがない。

 札が粗い。

 善意が、切羽詰まっている。


 切羽詰まった善意は、最後に必ず――事故を呼ぶ。



 真鍋が義弘の耳元に囁いた。


「……来ます。次は“治安支援”の顔をした、立体制圧」

「何を出す」

「名は出てない。でも、単語が出てる。準備が――」


 言い終える前に、義弘の端末が震えた。


 広報用の通知でも、市政の通知でもない。

 “個別”の通知。

 個別の通知は、いつも優しい顔をしている。


 《安全確保:推奨ルート》

 《市長行動:推奨》

 《ご協力ください》


 推奨。協力。

 善意の言葉だ。

 だからこそ、罠になる。


 義弘が開く。

 ルートが表示される。


 病院ではない。

 市役所でもない。


 ――未完成リングへ向かう線が、一本だけ太い。


 画面の端で、別のログが一瞬だけ点滅した。

 誰が見ても見逃す程度の薄い点滅。心臓の鼓動みたいな点滅。


 《現場安全:立体制圧準備》

 その末尾に、識別子のような短い文字列。

 義弘は、それを読まなかった。読めなかった。

 だが――膝が痛む。過去の戦場が、身体に蘇る。


 義弘は小さく笑った。


「……事故に案内してくれるってか」


 トミーが、横から覗き込む。


「誘導されてる」

「わかってる」

「じゃあ、どうする」

「――事故にする前に、相手の事故を“損”にする」


 義弘は端末を閉じた。

 札の巨人の残像が、ガラス越しに一瞬、こちらを見た気がした。


 真鍋が言う。


「市長、それは」

「市長じゃない。私人だ」


 義弘は、受付の戦場を背にした。

 守るべきものは、病院の一室で眠っている。

 そしてこの街は、また“正しい顔”で暴れようとしている。


 ――足音がした。

 遠い。まだ遠い。

 けれど、未完成リングの方から、確かに“準備の音”が混じってくる。

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