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第百二十二話 印をしまう

 市長室の窓から、新開市が見える。

 見える、というより――覗かれている。


 札騒動の残像みたいな薄い白が、まだ街にへばりついている気がした。

 義弘は目を細め、机の上の三つの「印」を見た。


 市長印。

 名誉会長の印。

 そして、個人の署名ペン。


 市長印は新品で、角が立っている。

 名誉会長の印は重く、持ち上げるたびに昔の職場の匂いがする。

 ペンは安物で、握りが擦り切れている。だが、手に馴染む。


「……今日は、お前じゃない」


 義弘は市長印を引き出しにしまった。

 鍵を掛ける。音が小さく、やけに冷たかった。


 トミーが机の端に腰掛け、足をぶらぶらさせている。


「市長、逃げるの?」


「逃げるんじゃない。燃える場所を変える」


 義弘は署名ペンを取った。インクの匂いが、なぜか“人間の匂い”に思えた。


「市長の言葉は札になる。市長の印は……列の始点になる。

 でも俺の言葉は、まだ札になりにくい」


 トミーの目が獣になる。


「……でも、アリスは?」


 義弘の膝がきしんだ。

 痛みは忠告のように遅れてくる。


「だからだ」


 机の端に、今日だけで増えた紙束がある。

 《医療支援》《治安協力》《協議窓口》《相談役》《緊急代行》

 顔はどれも良い。善意の顔だ。


 そして――その善意の顔の「入口」が、いま燃えている。


 市役所の一階受付。


 市役所の受付は、普段なら“ただの入口”だ。

 迷子の観光客が地図をもらい、職員が書類の場所を指差し、クレームが小さく渦を巻く程度の。


 だが今は違う。


 入口に列が生まれていた。

 列は曲がり、枝分かれし、再結合し、まるで都市の血管みたいに廊下を塞いでいる。


 札が見えた。


 《協議:優先》

 《相談:必須》

 《医療連携:推奨》

 《治安支援:緊急》

 《署名準備:要確認》

 《代替窓口:設置》


 そして、列の中心に――真鍋佳澄がいた。


 サイバー課の警部補。

 義弘を“取り締まりたい顔”と“助けられた顔”が同居している、いつもの真鍋。


 今日はそこに、もう一つの顔が貼られそうになっている。


 「市長代替の相談役」

 「協議窓口の補佐」


 役割という名の札だ。


 真鍋は受付カウンターの前で、落ち着いた声を作っていた。

 作っている、のが分かるほどに。


「……こちらは市役所です。治療の現場ではありません。

 病院の運営を止めないために、ここが窓口になります」


 正しい。

 正しいからこそ、列は伸びる。


 列の背後では配信者が回している。

 刀禰ミコトの画角にぴったりだ。


『みなさん、正しい手順で! 市長さんの負担を減らすために、ここで整列して協議を提出しましょう!』


 コメントが流れる。


《市役所が戦場で草》

《真鍋さん有能》

《市長代替ってマジ?》

《警察が窓口やっていいの?w》

《善意で回していこう》

《善意は暴力じゃないよ?》

《善意は暴力じゃないよ?(二回目)》

《受付で撮れ高出てる》

《アリスちゃんのために署名しよう》

《署名って何の?》

《知らんけど正しいやつ》


 知らんけど正しい。

 その言葉が、いま一番怖い。


 義弘は入口の回転扉の前で立ち止まった。

 サムライ・スーツは着ていない。

 コートだけ。杖代わりの折り畳み傘。


 顔も隠さない。


 市長として入れば、列に「正当性」が乗る。

 だから――私人として入る。


 津田義弘として。


 誰かが気づく。

 ざわり、と善意が揺れる。


「市長!?」

「写真いいですか!?」

「署名お願いします!」


 義弘は笑顔を作らない。

 手も上げない。

 ただ、低い声で言った。


「並ぶな」


 空気が、止まった。


 善意が言葉を探してもがく。

 札が次の語彙を探して揺れる。


「……並ぶな。今日はそれが一番の協力だ」


 列の先頭にいた中年男性が言う。


「でも私たち、善意で――」


「善意で、市役所を病院にするな」


 義弘はその一言だけを落とした。


 そしてカウンターの前にいる真鍋に向かって、言い切った。


「真鍋。降りろ」


 真鍋が一瞬、固まる。

 列がざわめく。


「……市長、今ここを崩すと――」


「市長じゃない」


 義弘は言った。

 それだけで、言葉の重さが変わる。


「今日は津田だ。

 津田義弘が、お前を“札”にしない」


 真鍋の眉が揺れた。

 彼女は警察官だ。役割で立つ人間だ。

 だからこそ、役割の札が一番刺さる。


 義弘は受付カウンターの横にある、誰も見ないような掲示板に目をやった。

 そこに、貼り紙が一枚増えている。


 《協議窓口:臨時》

 印字は綺麗。角が揃っている。

 “手順の字”だ。


 義弘はペンを取り出した。

 掲示板の貼り紙の余白に、雑に書く。


 「本日、臨時協議窓口は閉鎖」


 誰の権限でもない。

 市長印もない。

 ただの手書き。


 雑な字。

 私人の字。


 だが――雑だから札になりにくい。

 札になりにくいから、手順は迷う。


 列が一瞬だけ、迷った。


 《協議:優先》の隣に、見慣れない札が混ざる。


 《角折り:要確認》

 《優先順位:矛盾》

 《緊急確認:最優先》


 札が自分で自分を疑い始める。


「……効いてる」


 真鍋が、信じられないものを見る目をした。


 列の中から、愉快な新開市民の顔がちらりと戻る。


「え、閉鎖って書いてある」

「マジ? じゃあ帰る?」

「つか俺ら、受付塞いでたのか」

「配信切ろ……」


 その瞬間だった。


 金属が鳴った。


 カツ――。


 受付奥の自動ドアから、作業ドロイドが出てくる。

 胸に札。


 《秩序維持:最優先》

 《妨害排除:軽微》


 軽微。

 その単語ほど信用ならないものはない。


 ドロイドが義弘へまっすぐ向かう。

 狙いは義弘の身体――ではなく、義弘の“字”だ。

 雑な字。私人の字。

 手順の胃袋に引っかかった異物。


「真鍋、下がれ」


「……今度は、市長じゃないから命令できませんよ」


「命令じゃない。お願いだ」


 義弘は折り畳み傘を開いた。

 カン、と盾の音がした。


 戦闘――ではない。

 喧嘩でもない。

 “手順の排除”だ。


 ドロイドが突っ込む。

 義弘は膝を庇い、半歩だけずらす。

 傘の骨でセンサー部を叩く。


 ガン、と鈍い音。

 ドロイドの動きが乱れる。

 乱れた瞬間、真鍋が体を滑り込ませ、腕を取って拘束する。


「……市長じゃないのに、守ってくれるんですか」


「市長じゃないから守れるんだ」


 その言葉が落ちた瞬間、受付の照明が一拍だけ瞬いた。


 義弘は、倒れたドロイドの胸の札が剥がれかけているのを見た。


 《秩序維持:最優先》


 剥がれた札の裏に、別の札が貼ってあった。


 白い紙。白い角。

 丁寧すぎる文字。


 《監査記録:要回収》


 その字癖に、覚えがあった。

 病室の書類にも。市役所の匿名文書にも。


 “白い手袋”の手つき。


 背筋が冷えた。


 視線の端。

 受付の柱の影で、誰かがしゃがみ込んでいた。


 回収班の制服でもない。

 親善の腕章でもない。

 ただ――両手の白い手袋だけが印象に残る。


 白い手袋が、札を拾う。

 折り目も直して、丁寧に胸にしまう。


 白い手袋は義弘を見ない。

 見ているのは紙だ。記録だ。成立条件だ。


 そして、ほんの少しだけ首を傾げた。


 まるで――

 「市長が市長を降りた」ことを、面白がるように。


 次の瞬間、白い手袋は列の名残の中へ溶けた。

 溶けるというより、最初からそこに“いなかった”ように消えた。


 義弘は唇を噛む。


「……来てるな」


「何が」


 真鍋が低く問う。

 彼女の指先が震えている。札が貼られかけた指先だ。


「善意の本体だ」


 義弘は受付の掲示板を見た。

 自分の雑な手書きが、まだ残っている。


 だがその横に、もう一枚、綺麗な貼り紙が追加されていた。


 《臨時窓口:再開(自動)》

 《継続:必須》

 《代替相談役:指名》


 “自動”。

 “継続”。

 “指名”。


 札が、真鍋を狙っている。

 そして――次は義弘だ。


 市長ではなく、個人を患者にする札。

 個人を黙らせる札。


 義弘は引き出しにしまった市長印を思い出し、署名ペンの感触を指の中で転がした。


 ――市長の戦いでは、勝てない。

 ――だが私人なら、汚く戦える。


 膝が疼く。

 疼きの奥に熱がある。


「真鍋」


「はい」


「俺が俺でいるうちに、札の成立条件を壊す」


「……どうやって」


 義弘は笑わなかった。代わりに低く言った。


「署名の戦場を、先にひっくり返す。

 “窓口”ごと、成立しない場所にする」


「……市役所を?」


「市役所じゃない。“列”を」


 遠くで、配信の音がまた鳴った。

 善意が正しい顔で戻ろうとしている。


 その正しさの中に、白い手袋が混ざっている。


 次の札は――真鍋を狙い、市長を狙い、そして“個人”を患者にする。


 義弘は折り畳み傘の代わりに、ペンを握った。


 戦場は紙の上へ。

 いや、紙の外へ。


 ――私人の一滴が、制度の胃袋を腐らせるまで。

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