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第百二十話 名札が増えると、首が締まる

 市長室は静かだった。

 静かすぎて、音が増幅される。


 紙が擦れる音。

 封筒の角が机を叩く音。

 ホチキスの芯を押し込む、乾いた音。


 津田義弘は、書類の山を前にして、膝の奥の痛みを確かめるように一度だけ足を動かした。痛みは、返事をしない。返事をしないものほど、重くのしかかる。


 机の上には、同じ厚さの封筒が二通。

 同じように白い。

 同じように「善意」の匂いがする。


 ただ、封の糊の質だけが違った。


「……また来たか」


 義弘の背後で、トミーが椅子を引いた。

 雑な音を立てないのが、逆に不吉だった。


「これ、どっちも同じ匂いする。紙の匂いじゃない。“決めた”匂いだ」


 義弘は封筒を開けず、まず宛名と差出人を見た。


 一通目――日本国ルート。

 字面が強い。肩書きが多い。押印が多い。

 紙の隅に、丁寧すぎるほどの注意書きが並ぶ。


《観光指定都市化に係る安全確保と医療連携に関する暫定体制(案)》

《新開市 公式サムライ・ウィーク(仮称)に伴う危機管理責任の明確化》

《市長の健康配慮を含む公務代替手順の整備》


 二通目――協議ルート。

 字面が柔らかい。

 名乗らない。主語が「我々」ではない。

 主語は、最初から消えている。


《協議の一本化について》

《現場の負荷を軽減するため、対外折衝窓口を一元化する》

《医療支援および治安支援を“確実に”実行するための窓口役を設置する》


 義弘は封筒の中身を、まだ見ない。

 見れば、手が動く。

 手が動けば、署名が成立する。

 成立した瞬間に、戦場が変わる。


 署名というのは、文字ではない。

 条件の承認だ。

 逃げ道の封鎖だ。


「同じこと言ってる。違う口で」


 トミーが言った。


「“一本化”“責任”“健康配慮”。正しい言葉が並んでる。正しいって、いつも厄介だな」


 義弘は机の端に置いた小さな端末を見た。

 新開市の内部回線。

 市政の通知が流れてくる端末。

 朝から、同じ語彙ばかりが押し寄せている。


《保全》

《休養》

《点検》

《最適化》

《透明性》

《説明責任》

《協議》

《一本化》


 札の語彙と似ている。

 札の巨人が消えたあとも、語彙だけが残っている。

 語彙は便利だ。

 便利なものは、支配に使える。


 義弘が封筒を持ち上げた、その瞬間だった。


 市長室の扉がノックされる。

 三回。

 間の取り方が、正確すぎた。


「入れ」


 扉が開く。

 真鍋佳澄が、無表情に近い顔で入ってきた。

 疲れているのに、背筋だけが整っている。

 人の命と規則の間に立つ者の姿勢だった。


「……市長」


 真鍋は一礼すると、手に持ったタブレットを差し出した。

 そこには、通知が三つ並んでいた。


 一つ目――日本国ルート。

《治安・医療の専門家としての暫定相談役推薦》


 二つ目――協議ルート。

《協議窓口補佐としての任命打診》


 三つ目――市警内部。

《新開市内 “列” 発生予兆。病院周辺。危険度上昇》


 真鍋は言った。


「私、……推薦されました」


 その言い方が、まるで逮捕状みたいだった。


 義弘は封筒から目を離し、真鍋を見る。


「君の意思は」


 真鍋は、息を一つ置いた。


「私の意思は、意味がありません。ここに“必要”と書かれた瞬間から」


 トミーが、鼻で笑った。


「必要って言葉、最強だよな。誰も逆らえない」


 真鍋がトミーに視線を向ける。

 責めるのではない。

 同意に近い。


「市長。……私を盾にしないでください」


 義弘は、答えない。

 答えた瞬間に、盾にするかしないかの二択になるからだ。


 真鍋は続ける。


「でも、盾にならないと死人が出ます。病院“前”は抑えています。アライアンスの隊列のおかげで。けれど周辺――」


 真鍋がタブレットをスクロールする。


「周辺で、押し合いが始まっています。見学、善意の差し入れ、配信、視察、警備の交代要求。全部が“正しい顔”をしている」


 義弘は、喉の奥が乾くのを感じた。


 病院を舞台にしない。

 そのはずだった。

 だが“舞台にしない”という方針自体が、舞台装置になる。


 病院を守るために、病院の周りが燃える。

 正しい。


 正しいから、止めにくい。


「アリスは」


 義弘が問うと、真鍋は一瞬だけ視線を落とした。


「……高熱は下がっていません。意識は断続的。シュヴァロフが……」


 真鍋の言葉が詰まる。

 機械の名を口にするのが、役所の人間にはまだ慣れない。


「シュヴァロフが、本人の意思を代行しているように見えます。『拒否』『拒否』『拒否』と、同じ記録を繰り返している。……“手順”みたいに」


 トミーが椅子の背にもたれた。


「シュヴァロフ、意外と官僚適性あるな」


 真鍋が一瞬だけ、笑いそうになり、失敗した。

 それが余計に痛々しい。


 義弘は封筒の一通目を、ついに開いた。

 紙が息をする。

 ページの角が揃いすぎている。


 最初のページに、太字の見出し。


《暫定体制(案)》

市長の健康配慮に基づき、危機管理責任者を明確化し、治安・医療連携を強化する。


 次のページ。


《公務代替手順》

市長が“患者”として診断対象になった場合、職務の一部を代替する。


 その下に、候補者の欄が三つ並んでいた。


A:日本国の政治勢力が推す人物

B:治安・医療の専門家(真鍋佳澄)

C:協議の窓口役(対外折衝一本化)


 義弘は、紙を机に置いた。

 置いた瞬間、紙が机に貼り付いたみたいに見えた。


 札はもう見えない。

 だが同じ構造が、ここにある。


「……市長の交換、か」


 義弘が呟くと、真鍋が硬い声で言う。


「“交換”という言葉は、文面にはありません。代替。暫定。配慮。支援。全部善意です」


 トミーが言った。


「善意って言葉、切れ味あるよな。血が出ないのに、ちゃんと死ぬ」


 義弘は二通目の封筒を開けた。

 協議ルートの紙は、妙に薄い。

 薄いが、重い。


《協議の一本化》

責任の所在を明確にし、無用な混乱を避ける。

医療支援と治安支援を確実に実行するため、窓口役を設置する。


 署名欄が、最後のページにある。

 署名者は義弘。

 署名をすれば、窓口役に“権限の一部”が移る。

 紙の上では、優しい移譲。

 現実では、戻らない移譲。


 そしてその紙には、添付が一枚あった。


 病院の治療支援保証。

 アリスの治療が“善意で”保証される、と書いてある。

 条件は、協議一本化。

 窓口設置。

 責任の明確化。


 義弘の指が、紙の端を掴んだ。

 掴んだだけで、署名に近づく感じがする。


 真鍋が、義弘の手元を見る。


「市長。……署名しないでください」


 義弘は、目を閉じた。


 アリスの病室。

 熱。

 シュヴァロフの腕。

 拒否のログ。

 守るべきものが、そこにある。


 守るための紙。

 守るための署名。

 守るための首輪。


 トミーが、急に声のトーンを落とした。


「なあ、義弘。……アリス、いま“市長のアキレス腱”じゃないぜ」


 義弘が目を開く。


「何を言っている」


「今のアキレス腱は、あんた自身だ。患者の欄、見ただろ。あれ、アリスの次に“市長”が貼られるんだよ」


 真鍋が、頷く。


「すでに、病院周辺で『市長も診断を』という声が出ています。善意の声です。心配の声。……止めにくい」


 義弘は、笑いそうになった。

 笑えなかった。


 札の巨人の残像が、ふっと窓に映る。

 もちろん、幻だ。

 だが幻は、恐ろしい。

 現実の手順が、幻を作るからだ。


 机の上の端末が震えた。

 通知が一つ。


《病院周辺:列の形成。押し合い拡大。配信者多数。視察車両到着。》


 その下に、もう一つ。


《治安支援:準備中》

《“善意”の増援到着予定》


 真鍋が口を開く。


「増援……どこからですか」


 義弘は答えない。

 答えが分かってしまうからだ。


 増援は、いつも“正しいところ”から来る。

 政治。

 協議。

 善意。

 そして、あの男。


 ――アザド・バラニ。


 義弘はペンを取った。

 署名のためではない。

 紙の端に、乱暴な字で一行だけ書いた。


「成立条件」


 そして、その下に。


「この署名は、“新開市の診断”が完了してから」


 真鍋が目を見開く。


「市長、それは……」


「署名の意味をすり替える。成立条件を崩す」


 トミーが笑った。


「いいね。紙の戦場で刀抜いてる」


 義弘は立ち上がった。

 膝が痛む。

 痛むが、立つ。


「真鍋。君は盾じゃない」


 真鍋が反射的に言う。


「でも、私は――」


「盾じゃない。……君は“条件”だ。君がいる限り、俺は署名の成立条件を握れる」


 真鍋の顔が、苦く歪んだ。

 正しさの中に、泥を混ぜるような宣言。


 義弘は封筒を閉じた。

 閉じた封筒は、まだ白い。

 白いまま、毒を持っている。


「病院周辺の列、私が行く」


 真鍋が即座に言う。


「市長、行かないでください。『市長が現場に出る』が、列を増やします」


 義弘は頷いた。


「だから、“出ない形で出る”」


 トミーが首を傾げた。


「どうやって」


 義弘は窓の外を見た。

 新開市は今日も、賑やかだった。

 賑やかで、無責任で、熱狂している。


「――別の場所に導線を逸らす」


 真鍋が息を呑む。


「逸らす先は」


 義弘は答えなかった。

 答えた瞬間、そこが舞台になるからだ。


 ただ、机の端末に新しい通知が増えた。


《候補者調整:進行》

《暫定体制:準備》

《公務代替:準備》

《健康管理:最優先(市長)》


 札の語彙が、ついに市長に貼り付いた。


 トミーが小声で言った。


「……名札が増えると、首が締まる」


 義弘は、ペンを握り直した。

 署名のためではない。

 署名を“成立させない”ための戦いのために。


 窓の向こうで、見えない巨人が、ゆっくり顔を巡らす気配がした。

 そして、街のどこかで、紙が擦れる音がした。


 善意が、列を作っている。

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