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第百十九話 成果ウィンドウ

 窓の外が、先に祭りを始めていた。


 《新開市 公式サムライ・ウィーク(仮)》――仮称のはずのその文字が、もう看板に刷られ、旗に縫われ、配信告知のサムネに貼られ、屋台のメニューにまで侵食している。


 市役所の前の通りでは、学生が「義弘市長のポーズはこうだよ」と腕を振り上げて撮り直し、路上の投影広告では、笑顔のアリスが両頬に人差し指を当てている。十五秒のはずのCMが、街角で永遠にループしていた。


 ――正しい顔をしたものほど、止まらない。


 義弘は市長室の机に肘をつき、膝の奥に残る鈍痛を指先の力で握り潰してから、紙束の一番上をめくった。


 「……これ、全部“要望”だよな」


 隣でソファにだらしなく沈んでいるトミーが、コーヒーの紙カップを揺らした。


 「そうだよ。新開市名物、“要望の列”。市長室が病院になってる」


 「縁起でもないこと言うな」


 「縁起はもう売り切れ。追加発注で、列が伸びる」


 トミーは笑うでもなく言い切って、机上の資料を顎で示した。視線の先には、色別の付箋が貼られたバインダーが三段積みになっている。付箋には、まるで札のような語彙が並んでいた。


 《安全確認》

 《支援受付》

 《健康管理》

 《導線整理》

 《優先》

 《最優先》


 文字はただの印刷なのに、見ていると、指に粘る。息が浅くなる。


 義弘は一枚、また一枚とめくっていく。病院周辺の交通整理。救急動線の確保。見舞い客の列の再発。支援物資受付の統合案。治安協力展示の搬入計画。配信協力の調整。政治団体の表敬訪問のスケジュール。国内外の企業の視察希望。


 そして――いちばん重い紙は、病院の外にあるものだった。


 病院そのものは守れている。アライアンスが一度、圧で道を真っ直ぐにした。あの隊列。黒い影のようなドローン群。


 F.qre.d.qve。


 ただ、その“正面”が静かになったぶん、半径数百メートルが、ふくらんだ。正面に立てない善意が、周辺に溜まり、押し合い、並び、勝手に順番を作り、勝手に怒り、勝手に泣く。


 列は、病院の壁を避けて、街に染み込んでいく。


 真鍋佳澄の報告書には、乾いた文字でこう書いてあった。


 《病院前面は安定。周辺の自発的滞留・押し合いが増加。原因は“善意の衝突”。法的根拠が薄く、排除が困難》


 義弘はその一文の「排除が困難」という部分に、何度も目を戻してしまう。


 排除――。


 病院を戦場にしない。それが、彼が今できる最善だ。拳で守れば守るほど、紙になる。紙になればなるほど、誰かの手順に吸い込まれる。


 義弘は椅子から立ち上がった。膝が、少し遅れて痛みを主張する。声に出さず、息だけでなだめる。


 「……逸らす」


 トミーが眉を上げた。


 「何を?」


 「列だ。善意も、配信も、見舞いも、支援も、全部。病院の半径から外へ」


 「へえ。市長が言うと、列が素直に聞くのか?」


 「聞かせる。“正しい窓口”を作れば、並ぶ。並ぶのが好きなんだ、あいつらは」


 自分でも笑えない皮肉が口から出る。新開市は、しょげない、めげない、反省しない。加えて、並ぶ。


 義弘は机の脇の地図を引き寄せ、病院の周辺に赤いペンで輪を描いた。そこから、矢印を市役所へ引く。市役所の前の広場。臨時窓口の設置予定地。イベント受付の予定位置。


 「支援受付を、市役所の臨時窓口に統合する。見舞いの“気持ち”も、そこへ流す。病院周辺は、救急と職員と患者だけでいい」


 「見舞いの気持ちを、受付に流すの?」


 「流す。……流さないと、気持ちが“押し合い”になる」


 トミーは肩をすくめた。


 「それ、善意のダム建設じゃん」


 「ダムは必要だ。水が溢れる」


 義弘はペン先を地図に押し当て、少し強くなぞった。インクが滲む。滲むほど、線が太くなる。


 太い線は、正しい。


 ――だが、正しい線は、誰にでも使われる。


 義弘のスマホが震えた。真鍋からだ。すぐに取る。


 『市長、病院周辺の押し合いが一時的に増えました。映える小事故が混ざってます。導線屋の匂いが濃い』


 「導線屋……」


 『派手な事故ではありません。救急を止めるほどでもない。けど、配信が群がる“ちょうどいい”規模です』


 義弘は目を閉じた。導線屋。映える事故の導線を作る非公式勢力。小企業と個人が、数字のために火種を撒く。


 『市長。現場に出ないでください。あなたが出ると、余計に映えます』


 「わかってる。……病院は守る。俺が守るのは、病院の外じゃない」


 『市長室は?』


 「市長室は……紙で守る」


 通話を切って、義弘は息を吐いた。トミーが、珍しく真面目な目で見ていた。


 「いま、すごいこと言った」


 「何を?」


 「“紙で守る”って。最悪の時代のヒーローみたい」


 「最悪の時代の市長だからな」


 言いながら、義弘はふと思う。


 紙で守る。制度で殴る。窓口で逸らす。正しい顔で止める。


 ――それは、あいつのやり方に近い。


 アザド。


 白い手袋の、監査記録官。名前はまだ誰にも見せない。だが、指は見えている。紙をめくる指。署名を待つ指。善意を武器にする指。


 義弘は立ち尽くしたまま、窓の外を見た。街が光っている。配信の準備の光。広告の光。笑顔の光。


 その光は、時々、冷たい。



 同じ頃。


 新開市のどこか、視察用に整えられた静かな部屋で、アザドは机に置かれた二通の文面を眺めていた。


 どちらも丁寧な言葉で書かれている。丁寧な言葉は、切れ味がいい。


 一通目には、こうあった。


 《治安支援の継続判断》

 《安全計画提出期限》

 《支援宣言の責任整理》

 《常駐装備の運用期間》


 そして末尾に、短い行。


 《延長は行わない》


 二通目は、もっと単純だった。


 《成果の提示を求める》


 アザドは紙の上に、白い手袋を置いた。指先が、紙の繊維を感じ取る。紙は嘘をつかない。紙は、責任を作る。


 彼は微笑んだ。いつもの、柔らかい微笑。


 だが、その微笑は、誰に向けるものでもない。


 「……窓が狭い」


 ぽつりと呟く。窓――成果のウィンドウ。期限。期間。提出。判断。継続。責任。運用。


 全部、正しい。


 正しいが、焦らせる。


 焦りは事故を呼ぶ。事故は武器になる。武器は、紙より早い。


 アザドは静かにペンを取り、別の書類を引き寄せた。まだ提出用ではない。内部用の、予備の札。


 《事故対応:予備》

 《待機:非常用》

 《現場投入:条件付》


 その見出しの下に、短いコードが一つ。


 ――リノトーレークス。


 彼はその文字を、指先でなぞった。なぞっただけで、何かが動き出す気配があった。


 「……間に合うなら、必要ない」


 微笑のまま、言う。


 「間に合わないなら――」


 言い切らない。言い切る必要がない。紙が知っている。紙が勝手に続ける。


 アザドは机上の端末に、短い指示を打ち込んだ。善意の言葉で。正しい語彙で。


 《医療支援:保証》

 《観光指定都市化:治安支援提案》

 《インフラ補修:即時予算案》


 飴。


 そして、鞭は別の手に持たせる。


 導線屋。OCM海外部門。グランド・コンコルディアの残党。公式に乗りたい企業群。焦っているサムライ・ヒーロー。見守りたいだけの善意。


 彼らに触れ、糾合し、火種を運ぶ。


 アザドはペンを置き、白い手袋をはめ直した。指先の布が、少しだけ鳴った。



 市役所。


 義弘は、臨時窓口の設計案を職員に投げた。言葉は短く、厳しい。時間がない。期限は、紙の向こうにある。


 「病院周辺の支援受付は閉じない。統合する。市役所前に“正しい列”を作る。病院は救急と患者の場所だ。祭りの場所にするな」


 職員たちは頷き、走り、電話をかけ、プリンタが唸る。紙が増える。紙が守りになる。紙が檻にもなる。


 トミーが、ふと背後で言った。


 「なあ義弘」


 「なんだ」


 「アリス、……大丈夫か」


 義弘の手が止まった。


 市長として、今日の安全計画を通せるか。イベントを混乱なく進められるか。病院を守れるか。導線屋を潰せるか。オスカーの暴走を止められるか。アザドの善意を拒めるか。


 全部を考えても、一番触れたくないのは、それだ。


 大丈夫か。


 大丈夫であってほしい。


 「……大丈夫にする」


 義弘は、答えを短く切り捨てた。


 その瞬間、胸の奥に、冷たい影が落ちた。


 ――大丈夫にする、とは何だ。誰が、どうやって。紙か。拳か。噂か。


 窓の外の街は、今日も明るい。祭りの準備は止まらない。善意の列も止まらない。


 そして、期限は延長しない。


 義弘の机に、一枚の紙が滑り込んだ。誰が持ってきたのか、義弘は見ていない。


 見出しは、硬い。


 《公式イベント安全計画:提出期限》


 その文字の下に、見慣れない語彙が小さく印刷されていた。


 《治安支援:外部委託の検討》


 義弘は紙を見つめ、口の中で舌打ちした。


 紙は、正しい顔で牙を剥く。


 その紙の影で、誰かが事故対応の予備札に指を置いている――そんな予感が、膝の痛みよりも先に、義弘の神経を刺した。


 窓の外で、仮称の祭りが、ますます大きくなる。


 そして義弘は、まだ知らない。


 どこかで「市長代行(暫定)」という席が、紙の上で先に温められ始めていることを。

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