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第百十七話 署名者の反転

病院の会議室は、いつもより白かった。


白い壁、白い蛍光灯、白い机。

白いのに、空気だけが濁っている。


濁りの正体は紙だ。

紙というより札だ。


《医療支援受諾:署名》

《治安支援:善意》

《インフラ補修:善意》

《患者保護:善意》

《説明責任:省略可》

《迅速:最優先》

《同意:推定》


紙は増え、貼られ、束ねられ、机の端から端へと“列”を作っていた。

誰も押していないのに、紙が前へ進んでくる。


扉の向こうで、スリッパの音がする。

廊下に人がいる。

見守る列。静かな列。善意の列。


列が、押し合いへ変わる前の呼吸。


——その列のさらに向こう。

窓の外の駐車場の奥、ビル陰に、隊列を保つ黒い点が並んでいるのが見えた。


F.qre.d.qve。

高速機動隊のドローン部隊。

揃った距離、揃った高度、揃った沈黙。


“ここを舞台にするな”という無言の圧は、紙よりも厚い。


机の向こうに、白い手袋が置かれていた。


置かれている、というより、そこだけが切り抜かれたように目に残る。

袖も、腕も、顔も、気配も薄い。

白い手袋だけが、机に、きちんと、きちんと、揃えられている。


その手袋の持ち主は、いつの間にか椅子に座っていた。

座っているのに“居ない”ように見える。


監査記録官。

白い手袋。


彼は淡々と紙束を整え、義弘の方へ滑らせた。


「市長殿。患者保護のため、署名を」


言い方が優しい。

優しいから、危険だ。


義弘は椅子に深く座らず、背を立てていた。

膝は痛い。痛いことより、痛いふりをさせられることの方が嫌だった。


「……ここで署名しろってのか」


「はい。医療支援の受諾です。患者のため。市民のため」


監査記録官は、紙束の上に指先を置いた。

白い手袋の指が、札を押さえる。

札が、嬉しそうに静まる。


「なお、本件は医療と治安とインフラが密接に関係します。分離はできません」


分離はできません。

その一言が、刃のように滑る。


義弘は札を一枚ずつ見た。

医療。治安。インフラ。善意。最優先。推定。


——全部、正しい顔をしている。

正しい顔をして、首を締める。


「署名が形式だと言いたいのか」


「形式ではありません。成立です。市長がここに来て、書面が提示され、善意がある。すでに成立しているのです」


成立しているのに、署名を要求する。

矛盾を矛盾のまま押し通すのが、手順の強さだ。


義弘が返事を探していると、机の端から小さな声がした。


「ジジイ。書くな、じゃねえ」


トミーだった。

苔のような緑の毛並みの、少し大きいウサギ。

椅子の足元の影から顔を出し、口元を歪める。


「“何を書いたことになるか”を奪え」


義弘は、目を細めた。


——拒否すれば、札が貼られる。

《非協力》

《患者軽視》

《市長失格》

《治安:悪化》


拒否は、最初から負け筋だ。

ここは戦場じゃない。

署名室だ。

戦い方を変えないといけない。


義弘は紙束に手を伸ばし、しかしペンは取らなかった。


「受ける」


監査記録官の白い手袋が、わずかに止まる。


「……はい?」


「医療支援は受ける。だが——」


義弘は机の端に置いていたファイルを、ゆっくり開いた。

そこにあるのは、札ではない。

“書類”だ。


真鍋佳澄が用意したもの。

市長権限で用意できる、硬い紙。


真鍋は壁際に立っていた。

制服のまま。顔色は疲れているが、目だけが鋭い。


「市長、これで行けます。……監査の手順を、逆に踏ませる」


彼女の声は小さく、しかし確信がある。


監査記録官は笑わない。

笑わないまま、白い手袋を少しだけ持ち上げる。


「新しい書面ですか。確認しましょう」


義弘は、机に一枚ずつ置いた。


一枚目。

《新開市 医療連携要請(患者:アリス)》


二枚目。

《治療主体:新開市指定病院》


三枚目。

《監査協力:厚労監査チーム》


四枚目。

《外部支援は“医療物資提供”まで》


五枚目。

《運用権限委譲条項:別紙・審議案件》


札と違い、書面には余白がある。

余白は、剣の抜きどころだ。


義弘は言った。


「医療は受ける。だが治安とインフラを抱き合わせにした“善意”は受けない」


監査記録官の指先が、五枚目で止まった。


「分離はできません」


「できる。俺がする」


義弘は続けた。


「医療支援の受諾は、新開市が主体だ。オールドユニオンは“物資提供者”でいい。治療の運用に口を出すな。治安とインフラの委譲は、別紙だ」


監査記録官の声が、ほんの一度だけ硬くなる。


「市長殿。効率が落ちます。患者の不利益です」


真鍋が一歩前へ出た。


「効率の話をするなら、監査の成立条件を満たしてください」


監査記録官の視線が真鍋へ移る。

白い手袋は動かない。

それが、威圧になる。


真鍋は怯まない。

怯むと札が貼られるからだ。


「署名成立には、本人確認、自由意思、対象特定、利害関係の開示、条項の明確化が必要です。いま提示されている紙束は——」


真鍋は札束の上を指さした。


「“成立しているログだけが先にある”。条件が欠落してるのに成立だけがある。監査の手順に反します」


監査記録官の白い手袋が、札束の端を、ほんの少し整えた。

整えるという動作が、否定になる。


「条項は束です。善意は束です。分離が不可能だから、手順が簡略化される」


真鍋は言い方を変えた。


「簡略化、ではなく——省略です。利害関係の開示を省略し、患者の自由意思を推定で置き換え、治安とインフラを医療に混ぜる。監査の言葉で言うなら、無効です」


室内の空気が、ぴしりと鳴った気がした。

蛍光灯の音ではない。

札が嫌がる音だ。


廊下の“列”が、ざわりとする。

誰かがスマホを構える気配。

善意の配信が始まる前の、息。


——そのとき、ベッド側から、かすかな機械音がした。


カチャ、と小さく。


シュヴァロフだった。

緊急修理された身体。動くのは頭と腕と体だけ。

脚はまだ眠っている。


その腕が、ゆっくり動いた。


シュヴァロフは机へ近づけない。

それでも、意思だけは届く。


彼女は、書面の束と札束を見比べるように首を傾げ、

——そして、二つの紙に、丁寧に“距離”を作った。


医療の書面を、そっと前へ。

運用権限委譲の別紙を、そっと後ろへ。


その動きは、家事の所作だった。

布団を整える。

机を拭く。

危ないものは子どもの手の届かない場所へ置く。


監査記録官が、ほんの僅かに目を細めた。


「患者は意識不明です。意思が不明。よって国家の保護が必要です」


シュヴァロフの腕が止まる。

止まって、また動く。


今度は、運用権限の紙だけを、白い手袋の方へ向けず、机の端へ押し戻した。

押し戻すというより、“戻すべき場所へ戻す”。


彼女は喋れない。

けれどこの拒絶は、はっきりしている。


真鍋が言った。


「意思代行者がいる。患者を“無力”にする札は成立しません」


義弘は、そこでようやくペンを取った。


監査記録官の白い手袋が、静かにこちらへ伸びる。


「署名を」


義弘は頷いた。


「する」


トミーが、小さく笑った。


「そうこなくちゃな」


義弘は書いた。


だが署名したのは、札束ではない。

札束の上に置かれた“束”ではない。


義弘が署名したのは、医療連携要請の書面だった。

治療主体が新開市指定病院であること。

外部支援が物資提供までであること。

監査協力が厚労監査チームであること。


そして、別紙の運用権限委譲には、署名しない。


監査記録官が言う。


「治安支援とインフラ補修の条項が——」


義弘はペン先を置いたまま、淡々と返した。


「別紙だ。審議案件だ。成立条件を満たす場所でやる」


「いまが最も迅速です」


「迅速は、成立条件の代わりにならない」


義弘の声は低い。

膝の痛みが、声を底へ落としている。


「俺が署名したのは医療だ。治安とインフラは、ここでは成立しない。ここは病院だ」


監査記録官の白い手袋が、初めて微かに震えた。

震えというより、皮膚の内側の計算が狂った感じ。


「……市長殿。市民の善意が——」


「市民の善意を、署名に混ぜるな」


義弘は、机上の札束を一瞥した。


「善意は武器になる。武器の善意は、監査で無効にできる」


真鍋が、追撃する。


「厚労監査チームも同意しますよね。署名成立要件が不備な条項は無効。医療条項だけ有効。以上です」


部屋の隅にいたスーツ姿の監査官が、咳払いをした。

その咳払いは、刃だった。


「……医療監査上、条項分離ができない署名は不適当です。患者保護を優先し、受諾範囲は医療物資および人的協力に限定されます」


善意が、善意を潰す。

上位の善意が、下位の善意の牙を抜く。


廊下の列が、ざわりと動いた。

しかし押し合いにはならない。

押し合いになる前に、空気が変わった。


“見守る列”の中に混じっていた人が、ふと我に返り、

「え、俺、なんで並んでた?」と笑う。

笑いが連鎖して、列がほどけ始める。


どこかで《列を剥がす》役が動いたのだろう。

グランド・コンコルディアの善意勢が、余計な善意を余計に剥がしている。


札束の中に、見たことのない札が混ざり始めた。


《緊急確認:最優先》

《健康管理:最優先》

《最適化:強制》


——札が混乱している。

迷っている。


監査記録官はその札の変化を見て、顔色ひとつ変えなかった。

変えないから怖い。


彼は白い手袋を整え、ゆっくり立ち上がった。


「……医療は受諾。よろしいでしょう」


勝った。

小さい勝利だ。

でも致命的な裂け目だ。


監査記録官の到達点——運用権限委譲——には届かない。

医療だけで固定された。


彼は椅子を引く音も立てず、扉へ向かう。


出ていく直前、振り返らずに言った。


「では次は、市長殿の健康を守りましょう」


空気が凍った。


義弘の端末が、震えた。

通知音が鳴らない。

鳴らないのに、画面だけが勝手に点く。


貼られた。


《市長:診断待ち/経過観察》

《健康管理:最優先(署名者)》

《保全:必須》

《休養:推奨》

《出動:要許可》


札の語彙が、義弘へ伸びてきた。


病院の外で、F.qre.d.qveの隊列が、わずかに角度を変える。

顔を巡らすように。


義弘は端末を握り締めた。

膝が痛む。

痛みよりも、紙の手触りが、嫌な冷たさを伝えてくる。


トミーが、机の上を跳ねて、端末の通知を覗き込む。


「はは。来たな」


笑ってるのに、目が笑っていない。


「次の患者は、市長様だってさ。善意ってのは、ほんと……よく噛む」


義弘は、病室のベッドへ目をやった。


高熱で眠るアリス。

その枕元で、シュヴァロフが静かに腕を置き、

布団の端を、何度も何度も、まっすぐに直している。


守るべきものが、ここにある。


守りたいものが、ここにある。


そして——

札は、もう義弘の名前を覚えた。


蛍光灯が、わずかに瞬いた。

札束が、紙の呼吸みたいに、かすかに揺れた。

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