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第百十五話 治安支援の足音

 交差点の空気が、ひとつ遅れて冷えた。


 誰かが叫んだわけじゃない。サイレンでもない。むしろ、いつもなら先に鳴るはずの音が――鳴らない。


 道路上の広告ドローンが、びくりと揺れてその場でホバリングをやめた。配信者のカメラが勝手に暗所補正に切り替わり、コメント欄がざわついた。


 ――来る。


 義弘は、膝の奥で何かが軋むのを感じた。痛みはもう痛みとしては届かない。日常になり、呼吸になり、たまに恥ずかしいほど苛立ちになる。


 交差点の先。未完成の都市中枢リングの影が、空に黒い歯形を描いている。その影の下から、低い足音が歩いてきた。


 「……リノトーレークス」


 誰かが名前を言った。言った瞬間、空気が“正しく”なった気がした。


 正しい顔。正しい単語。正しい支援。


 歩いてきたのは、立体機動のための脚部を畳みながら、全方位センサーの球面を回し、装甲の合わせ目から薄く光を漏らす、都市戦用の無人鎮圧機。人間大の群衆の中に入るのが前提のサイズで、だからこそ怖い。


 表向きは非致死。


 実際は、関節を潰す。装甲服の骨格を折る。圧壊させる。死者が出る寸前まで追い込める。


 義弘は、それを知っている。あの時は、まだ「外」だった。今は違う。


 今、この街は、毎日がヒーローショーだ。


 だからこそ、これが“見せつけ”になる。


 路面の端末が一斉に点滅し、交差点の路肩に立てられた仮設ポールのスクリーンに、淡い青の札が貼り付いた。


 《安全確保》

 《群衆分散》

 《視察優先》

 ――そして、見慣れない角がひとつ。


 《治安支援:最優先》


 札は紙じゃない。光でもない。都市の“手順”が、物理の顔をする瞬間だ。


 コメントが走る。


 ――うわ、リノト来た

 ――治安支援ってやつ?

 ――これ安心だろ。観光指定都市なんだし

 ――「非致死」って書いてある、良心的

 ――……リノトってオールドユニオンのやつじゃん…

 ――陰謀論乙

 ――でも装甲関節やられるやつだぞ

 ――え、じゃあ映えるじゃんwww


 “映える”。


 その二文字が、義弘の胃をぎゅっと掴んだ。


 背後で、トミーがぴょんと肩の高さに跳び、街の空気を嗅ぐみたいに鼻を動かした。


 「……義弘」


 義弘は振り返らずに言う。


 「なんだ」


 「これ、戦闘じゃねえよ」


 「分かってる」


 「分かってない。これ、署名を取りに来てる」


 その言葉が、義弘の背骨を一本抜いたみたいに効いた。


 そうだ。


 倒すためじゃない。勝つためじゃない。


 “正しい手続き”のためだ。


 リノトーレークスの背後。群衆の中。誰が号令したでもないのに、腕章が増える。白い医療腕章、観光視察腕章、配信協力の腕章、ボランティアの腕章。札に馴染んだ人々が、札に合わせて立ち位置を変え、歩く速度を揃える。


 そして――白い手袋だけが、そこにいる。


 義弘は一度しか見ていない。しゃがみ込み、沈黙した機体の影で回収の手つきを見せた人影。名前はまだ出てこない。だが、白い手袋は覚えている。


 あの手袋が、今日の“善意”を整形している。


 リノトーレークスが交差点に踏み出した。


 脚部の関節が一度だけ震え、路面と壁面の間を“滑る”ように移動する。道路の縁石を使って跳ね、信号機のポールを蹴り、空中で姿勢を変える。立体機動。全方位。都市戦。


 それは、戦闘そのものよりも、戦闘の予告の方が怖い。


 リノトの腕が伸びた。光の輪が一瞬、空気に描かれ――群衆の最前列にいた、派手な鎧のサムライ・ヒーローの足元に“非致死”の楔が突き刺さる。


 関節。


 装甲の隙間。


 そこを狙う。


 ガキン、と音がして、派手な鎧が膝から崩れた。悲鳴はない。代わりに、息が詰まる音がした。痛みを飲み込む音だ。


 コメントが跳ねる。


 ――うわ

 ――やっば

 ――非致死ってこういうこと?

 ――関節だけ折るの、逆に怖い

 ――でも死なないならいいじゃん

 ――これ治安支援だわ

 ――誰か助けて! サムライ・ヒーロー助けて!

 ――市長!市長!津田さん!!


 “市長”。


 義弘は、ここで二つの立場を同時に背負っている。


 だから、最悪だ。


 義弘は一歩踏み出しかけて、止まった。


 戦えば、勝てる。


 段差。未完成構造。リングの支柱。あの狭さ。誘導して、落として、裂いて、沈黙させる。彼はそれを何度もやってきた。


 だが――勝つほど映える。


 映えるほど増える。


 この街の病は、そこにある。


 背後の通信端末が震えた。市長室の回線。真鍋からだ。


 義弘は耳の内側で受けた。声は短い。


 「津田さん。病院搬送ルート、詰まり始めてます。列、できてます」


 義弘の視界の端で、札が増えた。


 《救護優先》

 《搬送最短》

 《視察のため一時停止》


 札は、優しい言葉で殴ってくる。


 そして、その“優しさ”は、病室にいるものに触れ始めている。


 義弘は目を閉じ、呼吸を一度だけ整えた。


 アリス。


 今、彼女は“戦場”にいない。


 だが、いないからこそ、彼女の盾になれない。


 ――病室の中で、何が起きている?


 義弘の脳裏に、あの白いベッドがよぎる。高熱。NECROテックの臨界。言葉が出ない。目だけが怒りを燃やす。


 そして、傍にいるシュヴァロフ。完全修理ではない身体。頭と腕と体だけで、動く。家事をするように、静かに、アリスの呼吸を整えるように。


 シュヴァロフは、アリスの意思を代行している。


 ――その“代行”を、誰かが書類の欄に押し込もうとしている。


 義弘の手の中の刀が、わずかに鳴った。都市戦用ブレード。鞘の中で、刃が神経みたいに微細に震える。


 勝てる勝負を、捨てる。


 義弘は、決めた。


 「……真鍋」


 義弘は、通信に低く言う。


 「封鎖じゃない。命令で列を作るな。列を、勝手に避けさせる」


 「どうやって」


 義弘は、笑いそうになった。笑える状況じゃないのに。


 「噂を使う」


 「……津田さん」


 「怪談でもいい」


 真鍋の沈黙が一瞬だけ続き、すぐに理解の音が返ってきた。


 「分かりました。掲示板、学校、飯屋。流します」


 義弘は、交差点から目を離さない。


 リノトーレークスが、次の“非致死”を準備している。群衆がそれを見たがっている。配信者がカメラを寄せている。刀禰ミコトのチャンネルが、どこかでこの空気を吸っている。


 そして、白い手袋が整えている。


 義弘は、逆に整える。


 戦場をずらす。


 ――リングの内側へ。


 そこは、札騒動の中心だった。怪談が生まれた場所。足音。清掃員。亡霊。真偽の曖昧な“味方”。都市が勝手に恐れる場所。


 恐怖は、時に列を剥がす。


 義弘は、刀を抜かなかった。


 代わりに、サムライ・スーツの脚部の電磁反発を起動する。足元が軽く浮く感覚。路面と踊るような滑り。


 「トミー」


 「なに」


 「走るぞ。勝たないために」


 トミーが、毒を吐く余裕もなく小さく舌打ちした。


 「……ほんとにジジイは、嫌な頭の使い方するな」


 義弘は交差点の“中心”を横切らず、周縁を滑っていく。派手に飛ばない。映えない。視線を集めない。


 ――集めない、はずだった。


 だが、群衆は群衆だ。


 「市長!?」「津田さん!」「こっち!」「ヒーロー!!」


 声が追いかけてくる。札が追いかけてくる。


 《誘導》

 《安全確認》

 《市長対応》


 義弘は、歯を噛んだ。


 この街は、善意で手足を縛る。


 その時、真鍋の“噂”が効いた。


 目に見えない波が、交差点の外側から広がる。


 掲示板の書き込みが、学校の噂が、飯屋の無音配信の字幕が、同じ言葉を繰り返し始める。


 ――リング内側、札出るぞ

 ――健康管理:最優先って貼られるってマジ?

 ――足音来るってさ

 ――え、まじで? やだ、並ぶのやめよ

 ――あそこ行くと“列”が勝手にできるってやつ?

 ――やべ、俺昨日そこで寝落ちしたw


 怖がり方が、軽い。


 新開市民らしい軽さだ。


 だが、その軽さが、列を剥がした。


 群衆の最前列が、ふと後退する。配信者が「リングの内側ヤバい説」を拾って、話題をそっちに振る。コメントが瞬時に移る。


 リノトーレークスが、動きを一瞬だけ迷った。


 札の角が、変な向きで混ざったからだ。


 《治安支援:最優先》の横に、見たことのない札が浮く。


 《緊急確認:最優先》


 手順が、自分自身の優先順位で躓いた。


 ――裂け目。


 アリスが昔やったことを、義弘が今、別の方法でやっている。


 勝たないために、裂く。


 義弘はその隙に、リングへ向かう導線を“奪う”。人々が勝手に向かうように、勝手に避けるように、勝手に流れるように。


 戦場は、ずれる。


 リノトーレークスが、交差点で踊り続けても、そこに観客が残らなくなる。


 白い手袋が、初めて乱れた。


 ほんの一瞬。手袋の指が、札の角を直し損ねる。人混みの動きが、彼の想定より速い。列が“整わない”。


 怒りが漏れる気配が、空気に混ざった。


 ――苛立ち。


 義弘はその苛立ちに、勝手に安心しそうになって、すぐに自分を叱った。


 相手は、感情を見せても負けない。


 勝つのは、手順だ。


 義弘はリングへ滑り込みながら、最後に一度だけ交差点を振り返った。


 リノトーレークスが、ひとつだけ“非致死”を放つ。派手な装甲のサムライ・ヒーローが、今度は腕の関節を落とされる。


 痛みで叫びそうになった口を、彼は噛んで耐えた。


 それが、映える。


 映えるから、誰かが歓声を上げかける。


 だが、歓声は続かない。


 観客が散っていくからだ。


 義弘は、リングの影に入った。


 未完成の骨組みが、冷たい歯のように並ぶ。ここから先は、戦闘の舞台じゃない。


 “手順”の舞台だ。


 義弘の足元に、札が一枚落ちている。風で舞う紙みたいに見えるが、紙じゃない。見え方が、紙を選んでいる。


 《健康管理:最優先》


 義弘は、その札を拾わなかった。


 拾えば、持ち主になる。


 持ち主になれば、署名者になる。


 彼はただ、そこを踏まずに通った。


 背後で、トミーが小さく言った。


 「……なあ」


 「なんだ」


 「アリス、誕生日いつなんだよ」


 義弘は、足を止めそうになった。


 「知らん」


 「だろうな」


 トミーは、鼻で笑った。


 「お前のアキレス腱は、本人が自分のこと隠すタイプだ。最悪だな」


 義弘は返事をしなかった。返事をしたら、何かが崩れる。


 リングの奥に、端末の光が見えた。点滅。心臓みたいな鼓動の点滅。


 胃袋みたいな場所。


 札が貼られまくった端末が、腹の内側から都市を動かしている。


 義弘はそこで、初めて刀を抜いた。


 刃が空気を切る音は小さく、だが確かに“戦場”の音だった。


 その瞬間――耳の奥に、別の通知音が刺さった。


 市長室の回線。


 誰かが市長室のデスクに“札”を貼ったというログ。


 真鍋の声が、かすれている。


 「津田さん……市役所に……札が……」


 義弘は、目を閉じずに聞いた。


 「読め」


 「《健康管理:最優先》……《署名者:市長》……」


 義弘の喉が、冷たくなる。


 署名は、まだしていない。


 だが、札は“署名済みに見える”。


 義弘は理解した。


 次はアリスじゃない。


 自分だ。


 市長を患者にして、制度で縛る。


 膝の痛みが、久しぶりに痛みとして戻った気がした。


 義弘は笑わなかった。


 ただ、刃先をわずかに上げて、札の海の向こうを見た。


 そして、リングの外――交差点の方角から、リノトーレークスの足音が聞こえた。


 撤退の足音ではない。


 再配置のリズム。


 誰かが、凱旋するように歩き直す音。


 白い手袋の手順が、次の札を持って来る音だった。

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