第百十一話 導線替え
病院の前は、まだ“列”だった。
ただし、それはもう、受付の列ではない。
腕に巻かれた色違いの布、手に持った薄いプラ札、スマホの画面に浮かぶ《応援》《快復祈願》《病院に迷惑をかけないで》の文字。
みんな同じ言葉を言い、同じ顔をしていた。
「……祈ってるだけ、の顔してるくせに」
市長室の窓の向こうで、白い病院棟が遠くに見えた。
義弘は、膝の奥が鈍く痛むのを、机の角に押し付けるようにしてごまかした。
机の上には、紙の束と端末の束が並ぶ。
その一番上に、つい数時間前に届いた一枚がある。
《病院周辺 安全確保に関するお願い》
《緊急車両導線 最優先》
《見舞い・取材 自粛要請》
“お願い”。“自粛”。
言葉は柔らかいのに、背後にいるものは硬い。
「市長、並び始めてるぞ」
ソファの上に、苔色の影がふてぶてしく座っていた。
トミーだ。ウサギのくせに、いつも人間の弱点を先に嗅ぎつける。
「病院の前だけじゃない。周辺の交差点、飯屋の前、駅の改札。ぜんぶ“応援”って言って集まってる」
「善意が列を作る。……最悪の種類の列だ」
「おい、津田。もっとアリスを気にかけなくて大丈夫か?」
トミーが言った瞬間、義弘の指がペンを折りそうになった。
ペンは折れない。義弘の手が強いわけではない。ペンが安物だからだ。
「気にかけている」
「“気にかけてる”だけで、誰か助かるのか?」
トミーは口が悪い。
だが、今日はいつもより悪い。
義弘は返さず、窓の外を見た。
病院の正面ゲートに、灰色の静かな隊列がある。
高速機動隊のドローン部隊。
F.qre.d.qve――隊列を保ったまま、風のように並び、風のように動かない。
列は、列を見て、さらに列になる。
誰かが「守られている」と思う。
誰かが「なら、ここに居ていい」と思う。
そして、誰かが「ここに居ること自体が善意だ」と勘違いする。
善意が、インフラを潰す。
「……病院を戦場にしない」
義弘は、机の上の紙束を押しのけた。
指先が端末の画面を叩く。
市長権限の端末。
札を発行できる。
これは武器だ。
刀より遅いが、刀より長い。
「“立ち入り規制”じゃない。規制は反発を生む。
応援の気持ちを受け止める“場所”を作る」
「場所?」
「応援会場を指定する。病院から離隔した、公式の“応援区域”を」
義弘は、言葉を選ぶ。
硬すぎず、柔らかすぎず。
善意に寄り添っている顔で、導線だけ奪う言葉。
画面に打ち込む。
《応援区域:指定》
《撮影許可:区域限定》
《救急導線:最優先/妨害厳禁》
《群衆誘導:一方通行》
《臨時ステージ:公式》
「“公式”って書くのか」
「書く。いまは“公式”が人を動かす。嫌いでも使う」
義弘は、送信を押した。
そして、ため息を吐いたと同時に、別の通知が割り込んだ。
OCMの連絡――オスカー・ラインハルトからだ。
《市長、応援区域の件、承知しました。
OCMは治安協力展示の安全監督を申し出ます。
ドローン・サムライ・ヒーロー二機を“見せる”形で配置可能です。》
義弘は眉間を押さえた。
“見せる”。
それがいまの新開市の毒だ。
治安が、映像の添え物になっている。
同時に、別回線が鳴る。
治安機関――真鍋佳澄だ。
「津田さん。病院前、あなたの札が出回り始めました。……早いですね」
「遅いくらいだ」
「配信者も動きます。刀禰ミコト、いまライブで……」
真鍋の声の向こうで、ざわめきが聞こえた。
「……彼女が“善意”で誘導すると、もっと綺麗に流れる。
でも、綺麗に流れると……」
「導線屋が喜ぶ」
「はい」
義弘は苦く笑った。
正論はいつも、遅れてくる。
だが今日は、正論が早い。
「真鍋、応援会場周辺の警戒を厚く。病院は高速機動隊が保つ。
病院の外で火がつく」
「了解」
通話が切れた。
トミーが、ぴょんと床に降りる。
「おい。お前、いま“外で火がつく”って言ったな」
「言った」
「火を、外に出したんだ」
「……病院で燃えるよりは、ましだ」
トミーが鼻で笑った。
「まし、ね。ましで済むなら、お前はとっくに引退してるだろ」
義弘は返せなかった。
応援会場は、旧市街の広場だった。
未完成リングの影が遠くに伸びる場所。
舗装が甘く、段差が多く、風が通り抜ける。
ここなら、病院から離れている。
救急車の導線は塞がれない。
――はずだった。
だが、新開市は“はず”を裏切る街だ。
広場の中央に仮設ステージが立ち、
その脇には《公式》の札がテープで貼られている。
《撮影許可:区域限定》
《救急導線:最優先》
《応援区域:指定》
札があると、人は安心する。
安心すると、人は増える。
増えると、安心は薄まる。
刀禰ミコトの配信が、その増加に火をつけた。
『みなさん、病院の前で押し合うのはダメ!
アリスちゃんのために、迷惑にならない応援をしよう!
公式応援会場、ここだよ! ほら、映える! じゃなくて、えっと……安全!』
言い直しが遅い。
視聴者はもう“映える”に反応している。
「公式応援会場www」
「ミコト神」
「病院凸やめろって言えるの偉い」
「応援のために集まるの草」
「アリスちゃん今日も尊い(病院)」
「市長も来い」
「義弘の膝は大丈夫なん?」
コメントの奔流は、いつも通り無責任で、いつも通り熱い。
そして、その熱に、別の手が混ざる。
導線屋。
目立たない小企業と、個人の暴走。
彼らは“悪意”よりも、もっと軽い。
数字の匂いで動く。
事故は、軽い。
だが導線は、重い。
広場の外れ、仮設の照明塔の下で、
一体の作業ドロイドが、ぎこちなく旋回を始めた。
誰かが貼った札が、胸板に揺れている。
《健康管理:最優先》
見覚えのない語彙だった。
「……来たな」
義弘は、広場の縁でそれを見た。
膝の痛みを、足場の段差が増幅する。
だが目の奥は冷えたままだ。
義弘が踏み出した瞬間、照明塔が、ぎし、と鳴った。
――軽い事故。
照明塔の固定ボルトが一本、抜け落ちている。
抜け落ちた、のではない。
抜かれた。
塔は傾く。
観客が、悲鳴で波になる。
波は、押し合いになる。
押し合いは、列になる。
列は、導線になる。
「退け! 下がれ!」
義弘の声は通る。
だが、音より早いものがある。
札だ。
塔の根元に、さらに札が増えていた。
《緊急確認:最優先》
《群衆保全》
《誘導:統合》
誰が貼った。
どこから増えた。
誰もわからない。
わからないのに、従いたくなる。
義弘は刀を抜かなかった。
抜くべきは、刀ではない。
義弘は、手首の端末を叩いた。
《群衆誘導:一方通行(逆流禁止)》
《危険物近接:禁止》
《避難導線:右回り》
札で札を殴る。
言葉で言葉を上書きする。
人が動く。
動いた人の足元で、床の段差が事故を生む前に、
義弘は一歩、照明塔へ近づいた。
膝が軋む。
スーツの内部で、熱と衝撃が置換される音がした。
――じゅ、と。
冷却が始まる直前の、嫌な音。
義弘は塔の支柱に、電磁吸着アンカーを撃ち込む。
人工蜘蛛の糸が伸び、支柱に絡む。
塔の重心が止まる。
塔が倒れない。
それだけで、群衆の悲鳴が拍手に変わる。
拍手が、コメントに変わる。
「うおおおおお」
「市長きたw」
「やっぱ義弘だわ」
「アンカーえぐ」
「膝www」
「映えた」
「ミコト泣いてる」
映える。
数字が跳ねる。
導線屋が喜ぶ。
義弘は、吐き気を飲み込んだ。
「ミコト!」
義弘は、ステージ脇で固まっている刀禰ミコトに叫ぶ。
「配信、止めろ! いまは煽るな!」
「えっ、えっ……ごめん、私、善意で……!」
「善意が人を殺す」
言った自分の言葉が、冷たすぎて、義弘は舌打ちした。
だが今は、優しさが遅い。
その瞬間、広場の反対側で金属音がした。
作業ドロイドが、突進を始める。
札が揺れる。
《健康管理:最優先》
狙いは、義弘ではない。
義弘の背後――ステージ脇の、医療班の簡易ブースだ。
救護が混乱すれば、病院への搬送が増える。
搬送が増えれば、病院周辺はまた列になる。
列になれば、“善意”は病院へ戻る。
導線が、帰巣する。
「……そういうことか」
義弘は、刀を抜いた。
都市戦用ブレードが、静かに光を飲む。
ドロイドは、突っ込んでくる。
義弘は、膝を庇いながら、斜めに滑る。
電磁反発で、舗装の上を擦る。
刃は、斬らない。
関節を切る。
動きを止める。
義弘の刃が、作業ドロイドの膝関節を切り飛ばした。
鉄が鳴り、火花が散る。
群衆が、歓声でまた一つになる。
その歓声の端で、義弘は見た。
広場の入口に、黒い車列が止まり、
OCMの車体ロゴが光っている。
そして、テカテカの装甲。
ドローン・サムライ・ヒーロー。
コロボチェニィクとグリンフォン。
どちらの装甲にも、広告が刻印されている。
アリスの意思とは無関係に、“提供”された戦力。
義弘の胸の奥に、鈍い怒りが立った。
オスカー・ラインハルトのやり方だ。
「市長!」
スピーカー越しに、オスカーの声が響く。
遠隔だ。現場にはいない。
いるのは、彼の“成果”だけ。
『OCM、治安協力展示として、現場の安定化に参加します。
負傷者が出る前に、映像――いや、鎮圧します。』
言い直しが遅い。
今日は、言い直しが多い日だ。
コロボチェニィクが前に出る。
重い脚が、広場の舗装を叩く。
グリンフォンが翼を開き、
白い機体が、デジタル迷彩で空気に溶ける。
群衆が狂喜する。
「うわ、OCMきた!」
「広告www」
「グリンフォン白い!」
「コロボチェニィクでけえ!」
「アリスちゃんの機体じゃん…?」
「アリスちゃん病院なのに?」
義弘は、コメントの最後の一行を見て、目を細めた。
――見ている。
誰かが、見ている。
善意でも、数字でもない視線。
義弘が視線の方向へ顔を向けるより早く、
広場の片隅で、紙の擦れる音がした。
しゅ、しゅ、と。
手順に慣れた、手つき。
誰かがしゃがみ込み、
札を貼っている。
回収班の制服でもない。
親善の腕章でもない。
ただ、両手だけが白い。
白い手袋だけが、妙に目に残る。
その白い手袋が、札を一枚、貼った。
《群衆保全:統合》
さらに、もう一枚。
《誘導:統合》
さらに、もう一枚。
《安全確認:最優先》
札が増えるたび、群衆の動きが揃っていく。
揃うほど、逃げ道が消える。
揃うほど、次の事故が“起こしやすく”なる。
義弘は、背筋が冷えた。
――病院を戦場にしない。
だから外へ出した。
外へ出した戦場が、いま“整えられて”いく。
白い手袋の人物は、顔を上げない。
上げないまま、誰かに囁くように言った。
「……これで、投入の書類が通る」
声は小さく、冷たく、丁寧だった。
義弘は刀を握り直す。
膝が痛む。
だが、痛みはまだ、体の内側だけだ。
外側の導線が――また、誰かの手で組まれ始めている。
そして、広場の外れで、重い金属の運搬音がした。
コンテナが開く音。
大きすぎる脚の、梱包材が剥がれる音。
リノトーレークス。
その準備の匂いが、風に混ざった。
義弘は、喉の奥で笑った。
笑えないのに、笑うしかない。
「……来るなら来い。
だが、病院には触れさせない」
その言葉を、誰に向けたのか。
導線屋か。
オスカーか。
白い手袋か。
それとも、新開市そのものか。
答えは、次の札が貼られるまで、出ない。




