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第百十話 保全半径

 病院は、静かだった。


 静かすぎるほどに。


 白い壁。白い床。白いシーツ。消毒の匂い。点滴の落ちる間隔だけが、一定のリズムで空気に穴を開けていく。


 そして窓の外——


 窓の外だけが、うるさかった。


 遠くで、誰かが歓声を上げた。拍手が起きた。マイクの割れた声が、スピーカー越しに遅れて届く。「応援に来ました!」という善意の叫び。笑い声。低い罵声。すぐにまた笑い声。


 病室の中は、静寂に押し潰されそうなのに。


 外は、祭りのようだった。


 ベッドの横に、黒い影が座っている。


 シュヴァロフ。


 かつて四メートルの闇だった戦闘用ドローンは、いまは「動かせるのは頭と腕と体だけ」の、半身の機械だった。装甲も艶を失い、関節のいくつかは露出し、内部のケーブルが——無遠慮な現実のように——覗いている。


 それでも。


 その腕は、丁寧に動いた。


 アリスのスカーフの端を、そっと整える。点滴のチューブが絡まないように、目に見えない優しさで導く。シーツの皺を伸ばす。顔にかかった髪を、少しだけどける。


 言葉はない。


 けれど看護師が入ってくるたび、シュヴァロフは「意思」を示した。


「……この子、目、覚めそうですか?」


 看護師がそっと聞く。


 シュヴァロフは、わずかに首を振った。


 看護師が続ける。


「ご家族の方が……、いえ、市の方が。“面会の手続き”を——」


 シュヴァロフは、首を振らなかった。


 その代わり、腕を上げ、手のひらを広げた。


 止めろ、ではない。


 「順番を守れ」と言っている。


 看護師は小さく息を吐き、笑いそうになって、笑うのを堪えた。


「……了解。あなた、ほんとに……」


 彼女は言いかけて、やめた。


 機械に向かって「お母さんみたい」と言ってしまうのは、ここでは不謹慎な気がしたのかもしれない。


 シュヴァロフはただ、またアリスのスカーフを整えた。


 病室は、静かだった。


 それを壊そうとする音だけが、窓の外で育っていた。



 市長室の窓から見える病院は、遠い。


 遠いのに、近い。


 義弘は、窓の向こうに“列”が見える気がした。


 実際に見えるわけではない。市役所の高層階からは、病院の建物の輪郭は分かっても、そこに群がる顔は見えない。


 それでも——分かる。


 列ができている。


 列は音でわかる。うねりでわかる。視線の密度でわかる。都市が一つの方向へ傾き始めるときの、あの嫌な感触でわかる。


「市長。次の面会……じゃない、表敬訪問、二件」


 秘書が言う。


「どちらも“病院支援の相談”と名乗っています」


「相談は……並べ」


「はい」


 義弘は返事をしながら、手元のタブレットを見た。


 病院周辺の交通情報。


 救急車のルートはまだ保たれている。敷地内は、凍ったように静かだ。


 問題は——その外側だった。


 病院へ向かう幹線道路の一本が、少しずつ詰まり始めている。迂回が増え、迂回先が詰まり、詰まりが別の詰まりを呼ぶ。


 そして一番厄介なのは、数字だ。


 視聴数。


 配信数。


 ハッシュタグの増加。


 善意のコメント。


 善意の炎上。


 義弘はタブレットを閉じた。


「……トミー」


 机の端の椅子で、苔色のウサギが足をぶらぶらさせていた。脳のデータチップが光っているような気配だけが、目に見えないところで忙しい。


「ん?」


 トミーは、鼻で笑う準備の顔をしていた。


「病院の様子、どうだ」


「敷地内は“完璧”だよ。気味が悪いくらい」


 トミーは耳を立てた。


「問題は外周。人間ってさ、“入れない”って言われると、その周りに集まるんだよね。火に近づく蛾みたいに」


 義弘は無言で頷いた。


 トミーは続けた。


「アリスのこと、もっと気にかけなくて大丈夫? あんたのアキレス腱、あの子だろ」


 義弘の指が、机の上で止まる。


「……分かっている」


「分かってる顔じゃない。市長の顔してる。サムライ・ヒーローの顔じゃない」


「両方だ」


「両方って言うやつは、両方落とす」


 毒舌はいつも正しい。正しいから腹が立つ。


 義弘は息を吐き、タブレットをもう一度開いた。


 病院周辺。


 バス停。


 歩道橋。


 搬入路へ繋がる裏道。


 そこに、少しずつ“点”が増えている。


 点はやがて線になり、線は列になり、列は都市を締め上げる。


 義弘は立ち上がった。


「真鍋に繋げ。鳴海にも。病院“敷地外周”の規制を……」


 秘書が戸惑う。


「敷地内はアライアンスが——」


「敷地内は触らない。触れないし、触らせない。外周だ。外周で殺される」


 自分でも、言葉が冷たくなったのが分かった。


 “外周で殺される”。


 それは事故の言い方じゃない。戦場の言い方だ。


     *


 病院の敷地内は、凍っていた。


 白い。


 静か。


 そして、隊列。


 ドローン——F.qre.d.qve。


 隊列を崩さないまま、幾何学のように配置され、交差点の角度を作り、歩行者の流れを切り替え、救急導線を一本たりとも潰さない。


 人はその隊列に近づけない。


 近づこうとすると、足が止まる。


 “止まる”。


 命令されて止まるのではない。止まらされるのでもない。


 止まりたくなる。


 正しい場所で、正しい姿勢で、正しく息をするように。


 だから人は、外側に溜まる。


 溜まって、外側で押し合う。


 押し合いながら、それを善意と呼ぶ。


「みんなー! 病院の中は静かにね! 今日は“周辺”で応援しよう!」


 刀禰ミコトの声が、スピーカーから流れていた。


 配信。


 善意の配信。


 煽りの自覚は薄い。


 薄いのに——効く。


 コメント欄は、元気だった。


『ミコト様えらい!』

『病院に迷惑かけないの偉い!』

『周辺ならOKってこと? じゃあ一番映える場所取りに行くわ』

『市長も来る? 来たら神回』


 人々が笑っている。


 笑いながら、道路を詰まらせていく。


 そこに“軽い事故”が混ざった。


 支援物資のトラックが、たまたま立ち往生した。


 運転手は困った顔で、何度も頭を下げた。


「すみません! えっと、ナビが——」


 ナビが悪いのか。誰かが悪いのか。


 事故は軽い。


 だが導線は重い。


 迂回の指示が出る。迂回が詰まる。詰まった迂回が別の通りを塞ぐ。救急導線の“外側”が、じわじわと絞められる。


 さらに——


 清掃ドロイドが、たまたま裏道を塞いだ。


 広告ドローンが、たまたま歩道橋の上でふらついた。


 ふらついた瞬間、視聴者が悲鳴を上げた。


「うわ、落ちる!」


 悲鳴は映える。


 映えは人を呼ぶ。


 人は増える。


 増えた人が押し合う。


 押し合いが事故を呼ぶ。


 導線屋の仕事は、いつもそこにある。


 “映える小事故”で、都市を絞る。


 その外周で、制服と腕章が増えていった。


 警察。


 治安機関。


 市役所の交通整理。


 そして——


 見慣れない腕章。


 白地に、丁寧な字でこう書かれている。


《医療支援 誘導》


《静粛区域 保全》


 善意の腕章。


 善意の目。


 善意の笑顔。


「患者さんの睡眠を妨げないために、こちらへお願いします」


「救急導線を守るために、ここは立ち止まらないでください」


 言っていることは正しい。


 正しいのに、どこか冷たい。


 正しさが、刃になっている。


 人々は反発しない。むしろ従う。


 従って、列が“管理”される。


 管理されて、列が強くなる。


 強くなって——市長の権限の外側に、別の統制が生まれる。



 義弘が現場に着いたとき、膝が小さく鳴った。


 痛みは、いつものことだった。


 痛みがあるから、判断が鈍るわけじゃない。


 むしろ——痛みがあるから、余計な熱を持たずに済む。


 現場は、戦場ではなかった。


 だが“押し合い”は戦場と同じ匂いがした。


 何か一つが倒れたら、連鎖で崩れる。


 倒れるのは人か、導線か、責任か。


 義弘は周囲を見回し、そして——抜かなかった。


 刀に手をかけない。


 ここで抜けば、ショーになる。


 ショーになれば、恒例になる。


 恒例になれば、病院は毎日削られる。


「鳴海!」


 義弘が呼ぶと、治安機関の男が顔を向けた。


「市長。敷地内はアライアンスが——」


「敷地内は触るな。外周を守れ。迂回路を作れ。搬入路を一本、確保しろ。人を流せ」


 鳴海は歯を食いしばった。


「……善意の列は、強い」


「強いから、折るな。剥がせ」


 その言葉に、真鍋佳澄が反応した。


「剥がす、って……」


 真鍋はサイバー課の顔をしていた。ヒーローを取り締まりたい顔と、助けられた顔が同居したまま。


「市長権限で“交通の札”を貼るんですか」


「貼る」


 義弘は短く言った。


 貼る札は、善意よりも強くなければならない。


 善意を否定せず、善意の顔をしながら、善意を外側へずらす札。


「《救急導線 最優先》……」


 真鍋が呟く。


「《搬入路 保全》……」


「《静粛区域》は——」


 義弘は一瞬、言葉を止めた。


 静粛区域は、すでに“別の腕章”が貼っている。


 あれを否定すれば、戦争になる。


 戦争になれば、病院が止まる。


「……《応援区域 指定》」


 義弘は言った。


 自分で言いながら、笑えなかった。


 応援区域。


 病院の周辺に、応援のための区域を指定する。


 善意を否定せず、善意の居場所を作り、善意を遠ざける。


 政治だ。


 戦闘ではない政治。


 だが、戦闘よりも疲れる政治。


「市長、やってらんねぇな」


 トミーが肩に乗ってきて、耳元で囁いた。


「……アリスなら笑うぞ。『ジジイが札使ってんじゃねぇ』って」


「……言いそうだな」


 義弘の口元が、わずかに動いた。


 笑いではなかった。


 祈りに近い。



 夜。


 病院の病室は、相変わらず静かだった。


 シュヴァロフは腕を動かし、アリスの手に触れそうで触れない距離で、そっと空気を整えた。


 アリスの指が、微かに動いた。


 まぶたが、少しだけ震えた。


 シュヴァロフの頭部が、わずかに傾く。


 それは、喜びの動作に見えた。


 だが次の瞬間、廊下の向こうから聞こえた音で、シュヴァロフは硬直した。


 カツン。


 カツン。


 足音ではない。ここは病院だ。足音は柔らかい。


 これは——規則の音だ。


 手順に慣れた、硬い音。


 扉の隙間から、白い腕章が覗いた。


《医療支援 誘導》


《保全》


 そして、もう一つ。


 見たことのない札。


《準備》


 誰かが、病室の外で静かに言った。


「……明日、周辺の安全のために。追加の“整備”が入ります」


 シュヴァロフは、腕を上げた。


 止めろ、ではない。


 「ここはアリスの場所だ」と言うように。


 しかし返事は、善意の声だった。


「もちろん。患者さんのためです」



 同じ夜。


 街の外れ——光が届かない格納庫。


 金属が組み上がる音がする。


 重い。硬い。正確だ。


 リノトーレークス。


 都市戦用に磨かれた立体機動の骨格が、整備ドロイドの手で静かに起き上がる。


 装甲に貼られる札。


《治安:即応》


《秩序:回復》


《関節:優先》


《非致死:名目》


 最後に、薄い札が一枚。


 まるで祈りのように、しかし祈りではない。


《見せしめ》


 格納庫の隅で、誰かがそれを見ていた。


 白い手袋。


 光を吸うような布地の白さだけが、闇の中に残る。


 その人物は、しゃがみ込んで札の端を整えた。


 手順に慣れた手つきで。


 そして、誰にも聞こえない声で呼称だけを口にした。


「……監査記録官」


 リノトーレークスの眼が、無音で点いた。


 病院は静かだ。


 静かだからこそ——


 街が、うるさくなる。

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