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第百六話 同時多発の善意

 病室の朝は、音が少ない。


 消毒の匂いと、機械の小さな電子音と、窓の外の新開市が遠くでざわめく気配だけ。


 そのざわめきが、ここ数日で“近い”ものに変わっていた。

 近い、というより——貼り付いてくる。


 アリスは白いシーツに沈んでいる。顔色は薄く、頬は熱で赤い。長い髪はフードの中にまとめきれず、枕に散っていた。セーラー服は脱がされ、灰色のパーカーだけが羽織らされている。スカーフは首元に巻かれているが、いつもみたいに「口元を隠す盾」ではなく、いまはただ体温を逃がさないための布に見えた。


 目を開けたり閉じたりするたび、瞳の焦点が揺れる。

 翼の残像が、来たり消えたりする。


 怒りは、まだ戻りきっていない。

 怒りが戻るには、体が動きすぎないくらい、冷えていてほしい。


 その、動きすぎない身体を、外側から“整えている”のがいた。


 シュヴァロフだ。


 大破から戻ってきた黒い機体は、完全な修復ではない。脚の動作は制限され、背の腕も動域が狭い。それでも——家事ができる程度には動くよう、継ぎはぎのように、丁寧に直されている。


 シュヴァロフは病室の片隅で、音を立てずにゴミを分別し、床の目に沿って小さな清掃ドロイドを誘導し、ベッド脇の簡易テーブルを拭いていた。


 そして、札を整える。


 病室の入口のガラスに貼られた、病院の手順札。

 《要診断(診断待ち/経過観察)》

 《面会制限》

 《健康管理》

 《定期確認》


 その札の角が、いつの間にか揃っている。


 剥がしてはいけない札を剥がすわけでもない。

 勝手に書き換えるわけでもない。


 ただ、歪んだ角を、まっすぐに押さえる。

 ズレた端を、元に戻す。


 まるで、崩れかけた人格の列を、外側から整列させるみたいに。


 義弘は、ベッド脇の椅子に座っていた。背筋は伸びているが、膝の痛みで足先が小刻みに揺れる。

 市長のスーツ。

 サムライ・ヒーローの身体。

 そのどちらにも、病室は似合わない。


 でも、ここがいまの戦場だった。


 義弘の端末が、微細な震えで点滅する。通知が多すぎて、ひとつひとつの意味が溶ける。


 ——市長室:本日予定の表敬訪問、増加。

 ——観光指定都市化:関係者会議、前倒し。

 ——公式イベント:名称案(仮)から固定へ移行、各所掲示開始。

 ——病院:玄関前に取材・見舞いの“列”。


 義弘は、舌打ちを飲み込む。口に出したら負ける。


 扉の外で、足音が増えた。

 増え方が、嫌な増え方だった。


 看護師が顔を出す。笑顔は崩していない。崩せない。


「津田さん……すみません。玄関が、もう……」


「列か」


「はい」


 義弘が立ち上がりかけた、その瞬間。


 アリスが、喉の奥で何かを言おうとして、言葉にならずに息を吐いた。


 義弘は動きを止める。

 病室から出るのは簡単だ。

 戻るのが難しい。


 シュヴァロフが、いつの間にか義弘の背後に来ていた。黒い指先が、椅子の背を——ほんの少しだけ——押さえる。


 止めろ、ではない。

 落ち着け、でもない。


 “ここにいるべきだ”という、静かな圧。


 義弘は一度、深く息を吸った。


「……わかった。俺が出る」


 看護師が、小さく頭を下げて扉を閉めた。


 シュヴァロフは戻って、また札の角を整える。

 アリスの手が震えて、シーツを掴む。


 掴むものがあるうちは、まだ大丈夫だ。



 病院の玄関前は、すでに“広場”になっていた。


 花束。差し入れ。手作りの横断幕。手書きの札。

 《アリスちゃんがんばれ》

 《市長ありがとう》

 《治安協力に感謝》

 《公式サムライウィーク(仮)応援!》


 “仮”が、仮じゃない顔をしている。


 その奥に、スーツの一団。腕章。バッジ。撮影班。

 政治の匂いは、消毒では消えない。


 義弘が姿を見せると、群衆が一斉に沸く。

 沸くが、歓声ではない。

 期待の音だ。


「市長!」「津田さん!」「サムライ市長!」


 その中に、配信機材の光が混じる。

 刀禰ミコトの配信画面が、どこかの端末で流れていた。


『みんな〜! 現場の空気、落ち着いてね! ね? 善意は、押し付けると刃になるよ? だから今日は、静かに応援しよ!』


 優しい声。柔らかい笑顔。

 しかし、その“呼びかけ”自体が、列を生む。


 「ミコトが言ってる」

 「じゃあ、応援の写真だけ」

 「“静かに”ならいいよね」

 「一人一枚、献花して帰ろう」

 「市長も見たい」

 「アリスちゃん、顔だけ……」


 列は、自然に並ぶ。

 自然に並ぶ、ということが、いまの新開市では一番怖い。


 その列の端から、別の列が生まれる。

 政治家の視察の列。

 記者の列。

 スポンサー候補の列。

 “公式イベント”の打ち合わせの列。


 義弘の前に、代表らしき男が進み出た。笑顔は丁寧。目だけが計算だ。


「市長、今日は短く。皆、心配している。——善意です」


 善意、という言葉が盾になる。


「この都市は、観光指定都市として動き始めています。アリスさんの治療に関しても、国の支援を——」


「病院の手順に従ってもらう。今日はそれだけだ」


「もちろん、もちろん。しかし、手順というのは——責任の所在を明確にするためにあります。市長が署名していただければ」


 ペンが出る。

 書類が出る。

 札が出る。


 《治療支援:連携》

 《安全確保:協力》

 《適正化:監査》

 《優先:最上位》


 印刷された札は、綺麗すぎて不気味だ。


 義弘の膝が、痛みに反応して小さく軋む。

 痛いのは膝ではない。

 “署名”という行為が、脳に痛い。


 義弘は笑わない。


「……誰の文面だ」


「国の善意です」


 善意。

 善意は、署名を迫る。


 その時、横から声が飛んだ。


「市長! 売国奴!」


 誰かが叫んだ。

 別の誰かが叫び返す。


「黙れよ! アリスちゃんは病人だぞ!」


「病人を戦わせてたのは誰だよ!」


「それでも助けてくれたのは市長だろ!」


 列の中に、火種が落ちる。


 義弘は、あえて声を張らない。張ったら、列が“号令”になる。


「——病院だ。静かに」


 短い一言で、場が一瞬だけ収まる。

 しかし、収まった分だけ、視線が義弘に集中する。


 集中する視線は、重い。

 重い視線は、札になる。



 義弘の端末が、また震える。

 今度は市庁舎の系統。

 そして、OCMの系統。


 画面に出る文字列が、冷たい。


【共有】公式サムライウィーク(仮)

“仮称”の削除に向け、掲示物・配信・協力企業の表記統一を推進

メインビジュアル:市長(津田義弘)

公式キャラクター:アリス(アリツェ)

治安協力展示:OCMドローン・サムライ・ヒーロー

配信協力:刀禰ミコト


 ——既に、決まっている。


 義弘が噛みしめた歯が鳴る。


 さらに、別の文面。


【治安協力展示:機材移送】

KMU-02系補助フレーム使用機含む

広報装甲(光沢処理・刻印済)

コロボチェニィク/グリンフォン:出動待機枠に登録


 義弘の視界が、ほんの一瞬だけ赤くなる。


 アリスが動けないのに。

 アリスが選べないのに。

 アリスの戦力が、勝手に“枠”に入っている。


 それを、善意と公式が押し切る。


 群衆の端末では、刀禰ミコトが笑っている。


『みんな、すごいよ。新開市って、優しい。……だから、お願い。優しさの列で、病院を押し潰さないで』


 優しさの列。

 優しさの圧。

 優しさの札。


 義弘は、口の中でだけ言う。


「……撮影=戦場、だな」



 その頃。


 病院から二ブロック離れた交差点で、小さな火花が散った。


 信号機の根元。

 誰かが投げた、安いショート用の仕掛け。

 “事故”に見える程度の、軽さ。


 だが、軽い事故が生むのは、軽い混乱ではない。

 軽い事故は、重い導線を呼ぶ。


 「事故だ!」

 「ヒーロー呼べ!」

 「配信回せ!」

 「病院の近くじゃん、映える!」


 導線屋は、いつも派手にやらない。

 派手にやるのは、派手に叩かれるからだ。


 彼らは、列を誘導する。

 人の足を、自然に向ける。


 事故は増えた。


 救急車が一台、遠回りを強いられる。

 救急の遅れが、一つの怒りを生む。

 怒りが、自警の正義を呼ぶ。

 正義が、また列を作る。


 そして、その列は——病院へ向かう。



 義弘が玄関前の混乱を“短い言葉”で押さえ続けている間、病室には別の札が届いていた。


 看護師が、申し訳なさそうに言う。


「すみません。上から……追加です」


 追加。


 札は増える。

 増える札は、選択肢を奪う。


 病室のガラスに、新しい札が貼られる。


 《治療保証:外部連携》

 《安全確保:外部協力》

 《優先:最上位》


 文字が整いすぎている。

 角が揃いすぎている。

 病院の札は、もっと人間臭いはずなのに。


 義弘が病室に戻ると、シュヴァロフがすでに札を見上げていた。


 シュヴァロフは、剥がさない。

 壊さない。

 怒らない。


 ただ、ベッドへ戻り、アリスの手を取った。


 熱に濡れた指先を、そっと包む。


 アリスの目が、かすかに開く。

 唇が動く。言葉は出ない。

 でも、指が——シュヴァロフの指を、握り返した。


 それだけで、義弘は胸が詰まる。


 守るべきものは、札じゃない。

 守るべきものは、文面でもない。


 この握力だ。


 この、まだ世界を掴もうとする小さな意志だ。


 義弘は、椅子に座り直す。

 端末に、署名用の文面が開いたままだった。


 指が、画面上の「承認」に吸い寄せられる。

 承認すれば、静かになる。

 列も、善意も、政治も、公式も——一瞬は収まる。


 そして、取り返しがつかなくなる。


 義弘の指が止まる。


 シュヴァロフが、義弘を見ないまま、テーブルの端を拭き終えた。

 そして、スカーフの端を整える。


 アリスの口元が、ほんの少しだけ安心したように見えた。


 義弘は、そこでようやく気づく。


 アリスは“守られる対象”じゃない。

 今は言えないだけで、選びたいのだ。


 シュヴァロフは、アリスの代わりに叫ばない。

 代わりに殴らない。

 代わりに札を破らない。


 ただ、アリスの選びたい方向へ、部屋の空気を整える。


 ——代行する意思。


 義弘は、画面の「承認」から指を離した。


 代わりに、別のアプリを開く。

 市長の権限。

 新開市行政のルート。

 病院の“中”のルールで、外部の善意を受け止め直すための道。


 手順に、手順で抗う。


 義弘は小さく呟く。


「……署名じゃない。俺は、ここを“新開市の病院”にする」


 シュヴァロフの清掃ドロイドが、床を静かに一周した。

 その音が、妙に落ち着く。


 その瞬間、病室の外で誰かが言った。


「市長が署名しないなら、善意をもっと厚く——」


 善意は厚くなる。

 厚くなった善意は、重くなる。



 その日の午後。

 病院の裏手、搬入口。


 しゃがみ込んだ影があった。

 回収班の制服でもない。

 親善の腕章でもない。


 白い手袋だけが、やけに清潔だった。


 手順に慣れた手つきで、札の束を確認し、誰かに短いメッセージを送る。


 《面会》

 《協力》

 《治療》

 《保証》


 文面は優しい。

 優しい文面ほど、人を動かす。


 白い手袋は、誰にも見られない位置で立ち上がり、病院の“列”を見た。

 列は、まだ増える。


 増えろ、と誰かが言わなくても増える。

 増えるように、すでに根回しが済んでいる。


 白い手袋は、視線を病室の窓へ一度だけ向けた。

 窓の向こうに、少女がいる。


 政治の札。

 公式の札。

 善意の札。


 全部を引き寄せる、価値。


 白い手袋は、音を立てずに去った。



 夜。


 義弘は市長室に戻ることもできず、病室の隣の控室で端末を叩いていた。

 膝が痛む。

 目が痛む。

 通知が痛む。


 トミーからのメッセージが来る。


「ジジイ。

いまの列は、腹が減ってる。

正義でも善意でもなく、数字と“公式”で腹が減ってる。

アリスを“見せる”な。

アリスを“守る”って言うな。

それ、札になる」


 義弘は短く返信した。


「わかってる」


 しかし、わかっていても、列は生まれる。

 列は、わかっている人間の上にも並ぶ。


 控室の端末に、最後の通知が届く。

 送り主表示はない。


 ただ、冷たい文面だけ。


【インフラ監視:強化(予告)】

対象:医療・治安協力・観光イベント導線

実施:近日


 アライアンスの沈黙は、動かない。

 動かないまま、視線だけが重くなる。


 義弘は画面を見つめ、笑わずに呟いた。


「……見物が、始まったか」


 病室の方向から、小さな音がした。


 シュヴァロフが、また床を拭いている。

 札の角を、整えている。

 アリスの手を、握っている。


 義弘は、扉の前で立ち止まる。

 入る前に、息を整える。


 病室に入ると、アリスのまぶたが少しだけ動いた。

 目は開かない。

 でも、指先が、シュヴァロフの指を掴む。


 その掴み方が——「離すな」と言っているように見えた。


 義弘は、胸の奥の硬いものを噛み砕くように言った。


「……離さない」


 窓の外、病院前の広場には、まだ列が残っている。

 列の先頭に、誰かが札を持って立っている。


 《善意》

 《協力》

 《保証》


 優しい札が、夜の街灯に照らされて、白く光っていた。


 そして義弘は、知った。


 次に狙われる札は——

 アリスではなく、市長だ。


 列は、次の獲物を探している。


 静かに。

 自然に。

 善意の顔で。

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