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第百五話 署名しかける

 病院の廊下は、音が少ない。

 少ないのに、ざわめきだけは増えていく。


 靴音。ストレッチャーの車輪。自販機の冷却音。

 その全部の上に、紙が擦れる気配が乗っていた。


 《要診断》

 《経過観察》

 《保全:最優先》

 《健康管理:最優先》


 札は壁にも、ドアにも、人にも貼られている。

 貼られた札が、貼られた人間の動き方を決める。

 それが当たり前になりつつあるのが、いちばん不気味だった。


 病院の外では、もっと派手に“列”が生まれていた。


「アリスちゃん、マジで倒れたの?」「演出じゃない?」「いや顔色ヤバかったって」

「市長が来るなら見に行こうぜ」「善意の見舞いってことで」

「“公式”が守るべきだよな、公式が」


 善意は、列を作る。

 列は、善意を正当化する。


 そして列の横で、配信者がカメラを構える。

 画角の端に、病院のロゴ。

 画角の中央に、札。

 札のない人間は、もう“映えない”。


 ――導線屋が好きそうだ。


 義弘は、市長の顔で来た。

 だが膝は正直で、階段を一段上るたびに痛みが刺す。

 それでも止まれない。止まると、列が動く。


 真鍋佳澄が、受付と警備員と短い言葉を交わし、短い言葉のまま“通る”道を作っていく。

 あの女は、こういう時だけは頼もしい。頼もしいからこそ、彼女を頼りたくない。


「……津田さん」


 真鍋が言った。

 警部補の声ではない。市民の声でもない。

 ――“警戒”の声だ。


「今日は、相手が札だけじゃありません」

「わかっている」

「相手が“善意”です」


 それが、いちばん厄介だ。


 義弘が廊下を曲がった瞬間、視界の端で緑が揺れた。

 トミーだ。苔色の毛並みで、病院の白さにやたら映える。


「ジジイ。顔、死んでるぞ」

「おまえの口は今日も元気だな」

「元気にしてないと、こっちが死ぬ」


 トミーは、鼻をひくつかせた。動物の勘で、札の匂いを嗅ぐように。


「……アリス、見に行かなくて大丈夫かって?」


 義弘は、歩みを止めないまま答える。


「大丈夫じゃないから来てる」

「“大丈夫じゃない”の種類が増えてんだよ。病気と、政治と、善意と、映え」


 トミーはついてくる。足音が小さいくせに、言葉だけは大きい。


「ジジイのアキレス腱はアリスだ。本人が知らないのが一番ヤバい」


 義弘は言い返せない。

 言い返せないことが、答えだ。



 病室の前には、すでに“布陣”があった。


 厚生労働省の医療監査チーム――名目は「医療支援の適正化」。

 病院側の管理職――名目は「診断と安全」。

 そして、腕章のない男――名目は、何もない。


 腕章がないくせに、そこだけ空気が冷えている。

 その男は、白い手袋をしていた。


 手袋が、やけに白い。

 病院の白より白い。

 紙の白より白い。


 そして、その白が「触れてはいけない」を主張している。


 男が、静かに頭を下げた。丁寧すぎるほど丁寧に。


「新開市市長、津田義弘殿。ご多忙の折、恐れ入ります」


 声は柔らかい。

 柔らかいのに、胸の奥に冷たい針を置いていく。


「私は――医療監査の随行として派遣されました。記録と調整を担います」


 真鍋が、目線だけで義弘に知らせる。

 “こいつが白い手袋”。

 “監査記録官”。


 男は名刺を差し出さない。代わりに、紙を差し出す。


 厚い紙束。

 やわらかい言葉。

 そして、末尾の署名欄。


「お名前は?」


 義弘が聞くと、男は一拍だけ置いた。

 置いたのは礼儀ではない。重みだ。


「アザド・バラニ」


 名前が、空気に落ちた。

 落ちた瞬間、病室がほんの少し狭くなった気がした。


「監査記録官――アザド・バラニです」


 名乗り方が、官僚ではない。

 兵士でもない。

 もっと嫌なもの――**“制度の顔をした個人”**だ。


 真鍋が口を挟む。


「“随行”にしては、前に出過ぎじゃないですか」


 アザドは微笑んだ。

 微笑の形だけで、体温がない。


「誤解を避けたいのです。今日は“善意”の場ですから」

 善意。

 その言葉が、札みたいに貼り付く。


「患者――アリツェ・ヴァーツラフコヴァーさんの状態は、きわめて不安定です」


 監査チームの医師が続ける。

 言葉は医療用語で固い。

 固いからこそ、逃げ道がない。


「高熱、意識の混濁、神経系への負荷。彼女の身体は、すでに“臨界”に近い」


 真鍋の眉がわずかに動く。

 義弘の喉が乾く。


 医師が“結論”を置く。


「いま必要なのは、刺激の遮断と、医療資源の集中です。診断待ちという形で、環境を整える。――これは拘束ではなく、保全です」


 保全。

 最優先。

 環境。


 札の語彙が、医療の語彙を飲み込んでいく。


 アザドが紙束の一番上を、指先で揃えた。白い手袋が紙を撫でる。


「我々は、アリスさんの治療を保証します」


 “保証”。

 その言葉が甘い。

 甘いから怖い。


「ただし」


 アザドの声は変わらない。

 変わらないから、より強い。


「治療は“連携”のもとに行う必要がある。責任の所在を明確にし、再発防止を徹底する」


 再発防止。

 責任。

 徹底。


 札が、医療の顔をして並ぶ。


「市長殿にお願いしたいのは、簡単なことです」


 アザドは“簡単”と言った。

 簡単なはずがない。


「本覚書に、署名を」



 病室の中は、外より静かだった。

 静かすぎて、機械の音が生き物みたいに聞こえる。


 アリスはベッドに横たわっている。

 頬が赤い。

 唇が乾いている。

 そして――あの子の目つきがない。


 毒がない。

 舌打ちがない。

 憎まれ口がない。


 その代わりに、身体のどこかが小さく動く。

 スカーフの端を探す癖。

 呼吸の合間に、何かを拒むような指先。


 ベッドの横に、黒い影がいる。


 シュヴァロフ。

 完全には直っていない。

 動かせるのは頭と腕と胴体。

 それでも、病室にいる。


 義弘とオスカーが手回しをした結果だ。

 “医療上の必要”という札を貼り替え、通した。


 ――守るべきものを、守るために。


 シュヴァロフは、いつもの家事の動きで、アリスの髪を整える。

 フードが邪魔にならないように。

 スカーフが口元を覆うように。

 まるで“いつものアリス”に戻すみたいに。


 戻らないものを、戻すみたいに。


 義弘の手に、ペンが渡される。

 ペンは軽い。軽いから、余計に重い。


 紙の端は、診断書と覚書と同じ白で、病室の白と同じ白だった。

 印刷された語彙は、熱の匂いを持たない。

 《医療連携覚書:要診断患者の保全》

 赤小印:《最優先》


 末尾の一行――


 「意思確認は状態安定後に実施」


 義弘は、そこだけを読まないようにして読んだ。


「市長。こちらは“拘束”ではありません」


 アザドが言う。病室の入口から、入ってこないまま。

 入ってこないのに、支配している。


「診断待ちの間、環境を整えるだけです。外部刺激を排除し、病状を悪化させない。患者さんのための“保全”です」


 “保全”。

 “最優先”。

 “環境”。


 真鍋佳澄の視線が、紙から離れない。表情は動かない。動かない分だけ、警戒が透ける。


「――市長」


 彼女は言いかけて、止めた。

 ここで言葉にすると、政治になる。

 政治になった瞬間、相手が勝つ。


 義弘は、署名欄を見た。

 そして見ないふりをした。


 署名すれば、いまこの場は“収まる”。

 収まるという言い方が、すでに負けている。


 義弘の膝が痛む。

 痛みは現実だ。

 現実は、いつも説得力がある。


 ――アリスを守れるなら。


 ペン先が、紙に触れかけた。


 その瞬間。


 黒い影が、静かに動いた。


 シュヴァロフだった。

 完全には直っていない。

 それでも、近づく。


 義弘はペンを握ったまま、息を止める。


 シュヴァロフの指は大きい。爪は鋭い。

 だが、その動きは妙に丁寧で、怖いくらい静かだった。


 そして――


 署名欄の直前に、そっと手を置いた。


 紙を破かない。

 ペンを奪わない。

 ただ、署名の線だけを覆い隠す。


 それは止めるための所作ではなく、**「ここは触れないで」**と教えるための所作だった。


 監査チームの誰かが、息を吸った音がした。

 “患者の意思”という言葉が、部屋の外で勝手に組み立てられていく気配がした。


「……そのドローンは」


 誰かが言いかける。


 真鍋が先に切った。


「ドローンじゃない。いまのは――」


 言葉を選び、選んだ結果、もっと嫌な言葉になった。


「介助者です」


 “介助者”。

 “患者のため”。

 “最優先”。


 義弘は、笑いそうになった。笑うと崩れる。


 シュヴァロフは、アリスの方を見た。

 ベッドの上のアリスは、熱に浮かされている。目は開かない。

 それでも、指先がスカーフの端を探る癖だけは、薄く残っている。


 シュヴァロフは、その癖を知っていた。

 アリスが「嫌だ」と言うとき、言葉より先に身体が拒むことを知っていた。

アリスが「守りたい」と言うとき、目線がまず機械に落ちることを知っていた。


 だからシュヴァロフは――


 代行した。


 アリスが元気なときなら、舌打ちして、毒を吐いて、紙を破いて終わる。

 でもいまは、毒を吐けない。破けない。

 だから家族が、手順の上で“穏当な形”を選んでしまう。


 穏当で、強い。

 強いから、利用される。


 義弘の手の中で、ペン先が震えた。


「……アリスの、意思だと言うのか」


 自分に問いかける声だった。


 シュヴァロフは答えない。答えられない。

 ただ、署名欄を覆ったまま、微動だにしない。


 アザドが、ほんの少しだけ首を傾ける。

 相手に敬意を払う仕草。

 払った分だけ、奪う準備が見える。


「よろしい」


 アザドは、あっさり言った。


「署名は不要です。市長殿」


 義弘の背筋に冷たいものが走った。


「不要?」

「ええ。患者さんの意思は、すでに示されています」


 “示されている”。

 “意思”。

 “最優先”。


 真鍋が、ほんの僅かに表情を変えた。

 怒りではない。恐怖でもない。

 行政が行政を飲み込む瞬間の、嫌な納得だ。


 義弘はペンを置いた。


 置かされたのではない。

 置いたのに。

 置いたことが、もう手順になっていた。


 シュヴァロフは、署名欄から手を離さない。

 まるでそこが、アリスの心臓の上みたいに。


 アザドは紙束の端に、小さな札を一枚、置いた。


 《保全:完了》


 札は軽い。

 軽いから、世界を変える。



 病室の外で、列が動いた。

 誰かが言った。


「よかった……市長が動いてくれた」

「これで安心だ」

「患者さんのためだもんね」


 善意が、拍手みたいに広がっていく。


 その拍手の波に、別の手が混じった。


 《グランド・コンコルディア》の善意勢だ。

 かつては偶像化に浮かれていた連中が、いまは“列”の剥がし方を覚えている。


「並ばないでください! 病院はイベント会場じゃない!」

「札、剥がすなって? 剥がすんじゃない、戻すんです! 戻すだけ!」

「はい、あなたは“見舞い”じゃなくて“帰宅”です!」


 奇妙な正義感。

 奇妙な献身。

 それでも――列が、少しだけほどける。


 ほどけた隙間に、導線屋のカメラが入り込もうとする。

 真鍋が視線で制し、警備員が体で止める。


 それでも完全には止まらない。

 止められないから、手順が生まれる。


 その手順を、白い手袋は見ている。


 アザドは、病室の入口で立ち止まった。

 背を向けたまま、義弘にだけ聞こえる声で言う。


「市長殿。あなたは優しい」


 褒め言葉の形をした、侮辱。


「優しさは、責任になります」


 札の語彙が、また増える音がした。


 《市長:健康管理(予告)》


 予告。

 まだ貼られていないのに、貼られた気がした。


 義弘が動こうとすると、膝が痛む。

 痛みは現実だ。

 現実は、いつも説得力がある。


 トミーが、病室の隅で小さく舌打ちした。


「……ほらな。ジジイ。アリスがアキレス腱だって言ったろ」


 義弘は答えなかった。

 答えられない。


 シュヴァロフの手は、署名欄の上に置かれたままだ。

 アリスの意思を代行するように。

 アリスの心臓を守るように。

 そして――制度に“意思”として回収されないように。


 病室の窓の向こうで、新開市は今日も騒がしい。

 観光指定都市の噂が、善意の列を増やしていく。


 義弘は、紙を見ないようにしながら、見ていた。


 署名欄の上に置かれた、黒い手。

 それが守りであり、鎖でもあることを。


 そして、白い手袋の背中が去り際に残したものを。


 《保全:完了》

 《次回:市長》


 札は、次を狙っている。

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