第百三話 病院の導線
病院の玄関は、いつから“入口”ではなくなったのだろう。
津田義弘は、車を降りた瞬間にそう思った。
玄関前に、列がある。
救急でも面会でもない、“善意”の列だ。花束、紙袋、手作りらしい小さな御守り、ペンライト、アクリルスタンド。なぜか自撮り棒。
そして、その善意を撮るためのスマホの光が、昼間でも白く瞬いている。
列の先頭には、印刷された紙が何枚も貼られていた。
《面会受付:本日変更》
《診断待ち(経過観察)》
《健康管理のため、静穏をお願いします》
《撮影はご遠慮ください》
――最後の一枚だけ、フォントが違う。
整いすぎている。行政の文書に似ているのに、署名がない。
義弘は膝の奥が、じくりと鳴るのを感じた。
痛みではなく、予感だ。
「市長。顔出すと燃えるぞ」
肩の上――というより、胸元のポーチから、苔色の毛玉が顔を出した。トミー(ウサギ)だ。
相変わらず目つきが悪い。善意の列を見て、鼻で笑う。
「善意が群れると、臭う。勝手に“正義”になるからな」
「……今日は正義をする日じゃない」
「へえ? じゃあ何だ。家族を守る日か?」
義弘は答えない。
答えた瞬間、言葉が札になる。札は貼られる。貼られたら、手順が始まる。
玄関ガラスの向こう、警備員が増えている。
院内の案内表示が、一部だけ“新しく貼り替えた跡”になっている。
義弘は、列の外側――“見物しやすい角度”に、配信者が陣取っているのを見つけた。
腕章、ヘッドセット、スタッフ風。
でも目が、スタッフじゃない。獲物の目だ。
導線屋だ。
本人が導線屋なのか、導線屋が雇った役者なのかはどうでもいい。
“映える場所に人を流す手つき”が、もう答えだった。
院内の一角、簡易の仕切りで作られた待合スペースに、アリスはいた。
ベッドではない。
ベッドに乗せると“収容”の匂いが濃くなるからだ。
椅子と点滴台。薄い毛布。
そして、首元には名札ではなく、紙の札がぶら下がっている。
《要診断(診断待ち/経過観察)》
拘束じゃない。
でも、逃げ道のない言葉だ。
額は熱い。視界が揺れる。
脳の中で、十人分の人格が、一斉に咳払いをしたような気配がした。
統率が乱れる。
――翼の残像が、ふわりと視界の端を横切る。
「くそ……っ」
いつもなら、毒が先に出る。
今日は、熱が先に出る。
指先に、感覚が薄い。
NECROが“良かれと思って”身体を締める。
勝手に最適化を始める。
動かさないことで守ろうとする。
守り方が、監査記録官の札と似ていて、腹が立つ。
スカーフで口元を隠し、アリスは咳を殺した。
パーカーのフードは被れない。熱がこもる。
セーラー服が、今日だけやけに薄く感じる。
――遠くで、ざわめきが増えた。
「また増えてる……」
ナースステーションの前に、誰かが紙を貼り足している。
さっきまで無かった札。
《緊急確認:最優先》
誰が?
何の権限で?
署名はない。
でも、人はその札を信じて動く。
信じるのが早い街だ。
新開市は、いつもそうだ。
玄関前。
導線屋の役者が、ついに“火”を入れた。
「はーい! 皆さん、静かに! 今日、アリスさん――あの“公式キャラクター”の体調が本当に危険だって、聞いてますよね?」
声が大きい。
正義の声の大きさだ。
視聴者コメントが空中に浮くように、スマホ画面が一斉にこちらを向いた。
「直撃いけ!」
「演出だったら最悪」
「病院でヒーロー出動ある?」
「アリスちゃん顔見せて」
「市長来てるってマ?w」
「いまから“本人”に聞きます。病状は本物なんですか? それとも――」
そこまで言ったところで、警備員が止めに入った。
止め方が丁寧すぎる。
「申し訳ありません。患者様は――」
「患者様、って言いましたね?」
導線屋の役者が笑う。
笑いが、群衆に伝染する。
善意が、棘を持つ。
「拘束じゃないんですよね? “経過観察”なんですよね? じゃあ――」
義弘は、前に出た。
出た瞬間、スマホの角度が揃う。
街が、勝手に“舞台”を作る。
「市長さん! 一言!」
声がかかる。
求められているのは、治安じゃない。
“見せ場”だ。
義弘は、膝をかばいながら、群衆の前で止まった。
サムライスーツは着ていない。
それが逆に珍しく、映える。
「……ここは病院だ。静かにしろ」
言葉は正しい。
正しい言葉ほど、燃料になる。
「上から目線w」
「市長が言うと圧」
「でも正論」
「アリス出てこいってw」
「見せろ見せろw」
トミーが、胸元のポーチから顔を出した。
「ほらな。正論はコメント欄で輪切りにされる」
「黙れ」
「黙ると“黙認”って札が貼られるぞ」
義弘は舌打ちを飲み込んだ。
この街では、沈黙すら手順の一部になる。
火は、二本目で大きくなる。
病院の裏手――救急搬入口に、配送ドロイドが詰まり始めた。
誰かが、案内表示を“ちょっとだけ”変えたのだ。
矢印のシール。たった一枚。
そこから、配送が詰まる。救急の搬入が遅れる。
遅れが、怒号を生む。怒号が、配信を呼ぶ。
そして三本目。
院内アナウンスが、一瞬だけ割れた。
『――避難訓練を開始します。繰り返します。避難訓練――』
訓練のはずなのに、声が“本番”の緊張を帯びている。
人は訓練を信じない。
本番を信じて走る。
走る人が増えると、列ができる。
列ができると、札が貼られる。
――外で、煙が上がった。
病院から一本離れた通り。
小さな爆発。派手な火花。
非致死の、ちょうどいい“映え”。
「来た」
義弘が呟いた。
導線屋が、事故を“点火”した。
そして、その火に駆けつけるのは――。
地鳴りのような振動が来た。
コロボチェニィク。
装甲で包まれた逆三角の巨体が、都市迷彩の上に“新しい刻印”を光らせている。
――提供:OCM
――安全協力展示
眩しいほどに、テカテカだ。
その横を、白い翼が切った。
グリンフォン。
翼の縁に、まるでスポンサー枠みたいに文字が並ぶ。
――治安協力
――公式サムライ・ウィーク(仮)参加予定
「やめろ……病院の前で、それをやるな……!」
アリスの声が、院内の窓越しに漏れた気がした。
本人は出ていない。
でも“出てきたことにしたい視線”が、窓へ集まる。
「うおおグリンフォン!」
「翼に広告w」
「コロボがテカテカw」
「病院前は草」
「これが公式か」
暴走ドロイドは、救急搬入口を目指して突っ込んでくる。
“偶然”そうなる角度。
“偶然”そうなる速度。
コロボチェニィクが、正面から受け止めた。
巨腕が振り下ろされ、暴走ドロイドの胴体が潰れる。
だが――潰れた瞬間が、一番映える。
破片が飛ぶ。火花が散る。
群衆が悲鳴を上げる。
悲鳴が、歓声に混ざる。
グリンフォンが飛び、爪で別のドロイドを引っ掛け、持ち上げる。
高く。
落とすと危ない。
だから落とさず、壁に叩きつける。
ちょうどカメラが撮れる角度で。
――勝てる。
勝てるのに、勝つほど燃える。
「最悪だ」
義弘は、膝の痛みを無視して走り出した。
サムライスーツはない。
だからできるのは、戦闘じゃない。
“導線”を切る。
「病院前の配信を止めろ! 患者だぞ!」
叫んだ瞬間、導線屋の役者が嬉しそうに頷いた。
正義の怒号は、映えの頂点になるからだ。
「市長キレたw」
「正義の衝突きた」
「導線屋って何?」
「病院でバトルは倫理」
「でも神回」
トミーが、肩の上で耳を伏せた。
「な? “止める”って言葉は、いつも“見せ場”になる」
「じゃあどうしろと」
「見せ場を、別に作れ。列を引っ剥がせ。
善意は止められない。流すしかない」
義弘は、息を吐いた。
市長としての札を切る。
嫌いな札を、あえて。
一方、その頃。
オスカー・ラインハルトは、別の場所で、別の火を見ていた。
会議室。ガラス張り。
モニターには、病院前の配信映像と、別現場の鎮圧映像が並ぶ。
彼はブレない。微笑みだけが、冷たい。
「数字は熱です。熱は危険です。
しかし、熱が無ければ、凍死します」
部下が、控えめに口を開く。
「……病院前での出動は、反発が――」
「反発は、受け止める」
オスカーは指先で資料をめくった。
そこに並ぶ語彙が、札に似ている。
《保全》
《休養》
《点検》
《最適化》
「“NECROは危険だ”という言葉は、放置すれば札になります。
札になれば、彼らは一生、貼られます」
誰も反論できない。
反論すると、“善意に逆らった”札が貼られるからだ。
オスカーは、淡々と言った。
「だから公式になります。
治安を守り、正義を守り、人間に寄り添う成果として――NECROを提示します」
その瞬間、彼の視線が一瞬だけ硬くなる。
病院の映像。窓の奥。見えないはずの椅子に座る少女の影。
アリス。
――彼女が、臨界だ。
しかし、オスカーもまた、数字の車輪を止められない。
止めれば、兄弟姉妹が消える。
公式が潰れる。
それだけは許せない。
病院前。
義弘は、スマホを掲げる群衆に向かって、紙を掲げた。
市役所の即席の印。
簡易の告知。
《医療保全区域:本日より適用》
《撮影・配信:指定区域のみ》
《面会希望者:別会場へ誘導》
“禁止”ではなく、“指定”だ。
人は禁じられると燃える。
指定されると、並ぶ。
そして並ぶ場所を、こちらが握る。
「今ここで撮っていいのは――救急搬入口じゃない。向こうだ」
義弘は指を差した。
病院から少し離れた広場。
“見せ場”を移す。列を引っ剥がす。
導線屋の役者が、目を細めた。
――同業者の顔だ。
「市長さん、やりますねえ」
義弘は睨んだ。
「お前らの仕事は、事故を作ることか」
「違いますよ。事故は勝手に起きる。
僕らは“見えるようにする”だけです」
それが、この街の病だ。
見えるようにされた瞬間、価値が発生する。
価値が発生した瞬間、誰かが買う。
買う側は、いつも顔がない。
義弘は、膝の奥に火を抱えたまま、歩いた。
病院の中へ入る。
入る直前、トミーが小さく言った。
「……市長。あんたのアキレス腱は、あの子だ」
「知っている」
「なら、気にかけろ。
気にかけないフリをしてると、街が代わりに気にかける。
街の気にかけ方は、優しくない」
義弘は、返事をしなかった。
返事をすると札になる。
市長にしか届かない書面は、病院の中にも追ってくる。
市政端末が震えた。
“至急”の照会。
政党名がちらつく。政治団体名がちらつく。企業名がちらつく。
《公式イベント治安責任:協議要請》
《市長の兼任適正:確認依頼》
《公式キャラクター安全管理:照会》
《医療機関指揮系統:調整》
言葉が、札になる。
札が、手順になる。
手順が、人を並ばせる。
義弘は、端末を握りしめ、呼吸を整えた。
サムライ・ヒーローは刀で切る。
市長は言葉で切る。
――言葉の方が、手が汚れる。
病室の前。
薄いカーテン。
その向こうに、アリスがいる。
カーテンに、札が一枚貼られていた。
《健康管理:最優先》
義弘は、目を閉じた。
この札は、善意の顔をしている。
だからこそ、強い。
カーテンの向こうで、アリスが小さく咳をした。
咳の音が、いつもより軽い。
軽いのに、怖い。
彼女の声が、かすれて聞こえた。
「……ジジイ……外、うるせえ……」
いつもの毒が、半分しかない。
義弘は、それが何より辛かった。
「すまない」
「謝るな……。
謝ると、誰かが“責任”って札を貼る……」
義弘は、思わず笑いそうになった。
笑えないのに、笑いが喉に引っかかる。
アリスは、薄い毛布の中で、震えた。
熱なのか、怒りなのか、両方なのか。
NECROが勝手に身体を締め、勝手に守ろうとしているのが分かる。
守り方が、敵に似ている。
義弘は、カーテン越しに言った。
「……外の騒ぎは、私が止める」
「止めるな……」
「?」
「……流せ……。
止めると……映える……」
その通りだった。
彼女は弱っていても、街の病理だけは外さない。
義弘は息を吐いた。
そして、胸の奥で、札を一枚、固めた。
――アリスを“守る札”。
善意に勝つための、別の善意。
制度で殴る札。
まだ切らない。
切れば、相手も札を貼り返す。
だが、準備はする。
カーテンの向こうで、アリスが小さく呟いた。
「……シュヴァロフ……」
家族の名前。
それだけで、義弘の膝が、また鳴った。
病院の外では、コロボチェニィクとグリンフォンが、最後の暴走ドロイドを沈黙させた。
勝利。鎮圧。安全。
どれも正しい。
正しいから、配信が伸びる。
「公式つええ」
「病院前で神回」
「アリス出てないの草」
「出てこい(善意)」
「市長も映え枠」
導線屋は満足げに去っていく。
“今日の数字”を抱えて。
次の事故の種を、ポケットに入れて。
義弘は、病院の窓から外を見た。
善意の列は、指定された広場へ“流れ”始めている。
人々が元の、愉快で無責任な新開市民に戻りかける。
戻りかけた、その瞬間。
誰かが新しい札を貼った。
《健康管理:最優先(対象:公式キャラクター)》
対象が明記された。
矛先が定まった。
――次は、アリスを狙う。
いや、もう狙っている。
義弘は、目を細めた。
札の字面が、やけに綺麗だった。
行政の匂いがする。
でも署名がない。
顔のない、善意の手つき。
トミーが、低く言った。
「……来るぞ、市長。
次は“病院”じゃない。
“市長室”に札が来る」
義弘は、うなずいた。
膝の痛みを抱えたまま、静かに立ち上がる。
戦うべきは、ドロイドだけじゃない。
導線だけでもない。
――善意の札だ。
そして、札は、いつも“最優先”を名乗る。




