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第百話 市長の列は途切れない

 市長室の扉の向こうで、列が呼吸していた。


 靴底が床に触れる音。名刺入れが開く乾いた音。清潔な書類の角が擦れる音。誰かが笑う音。誰かが咳払いをする音。誰かが「本日は――」と、同じ言葉を何度目かに言う音。


 義弘は椅子に深く沈み、膝を揉んだ。膝の奥が、天気の悪い日の金属みたいに鳴る。痛みは、痛みとしては正直だ。人間の内側で起きていることを、誤魔化さずに伝えてくる。


 問題は、扉の向こうの“善意”だった。


「……入れ」


 秘書が扉を開けると、香水と制汗剤と新品の紙の匂いが流れ込んできた。


 入ってきたのは三人。年齢も肩書も違うが、同じ種類の顔だった。勝った者に群がる顔。勝利の余熱を自分のものにしたい顔。慎重に、丁寧に、しかし遠慮なく手を伸ばす顔。


「津田市長。おめでとうございます。先日の――」


 最初の男が言いかけた瞬間、次の女が被せるように笑った。


「市長、国内外の注目が今、新開市に集中しています。政界としても――」


 三人目の若い男は、名刺を差し出すタイミングだけがやけに上手かった。


「我々の陣営に――」


「“我々”はやめろ」


 義弘の声は静かだった。


 三人が一瞬止まる。次いで、慌てて笑顔を作る。ああ、この反応。義弘は心の中でため息をついた。言葉の癖が、組織の癖を引きずっている。


「失礼しました。――当方としては、市長の政治的資質を高く評価しておりまして」


「評価か。……列に並ぶのも政治の作法か」


 三人は笑った。軽く。安全に。炎上しないように。


 義弘は笑わなかった。


 机の端に積まれた書類の山に目をやった。市長印が押されるのを待つだけの紙。承認を待つだけの紙。承認が済めば現実になる紙。


 タイトルが、どれも綺麗だった。


《観光指定都市連携:広報計画(案)》

《新開市公式キャラクター運用要領(案)》

《健康配慮事項(更新)》

《治安協力:民間連携プロトコル(仮)》


 ――配慮。連携。運用。プロトコル。


 この街は、言葉で縛るのが上手くなった。


 机の角で、小さな影が動いた。


 トミーが椅子の背に登り、義弘の耳元で囁くように言った。声は小さいのに、毒だけはよく刺さる。


「ジジイ。これ、戦闘より疲れるやつだな」


「黙れ。聞こえる」


「聞こえた方がいい。あんたの“勝利”に群がる連中だ。勝った人間の隣に立って、自分も勝った気になる病気」


 三人の政治家のうち一人が、トミーに目を留めた。


「……随分、珍しいペットを」


「ペットじゃない」


 義弘が言うより先に、トミーが鼻で笑った。


「俺は市長のブレーキ係だ。あんたらみたいにアクセル踏むだけの連中が来ると、ほら、必要になる」


 秘書が咳払いをして、空気を整える。


 義弘は膝から手を離し、視線を三人に戻した。


「出馬だの陣営だのは、後だ。――今、俺の最優先は別にある」


 三人の顔に、僅かな戸惑いが走る。最優先、と聞いて、政治の最優先を思い浮かべたのだろう。


 義弘は、政治の話をしなかった。


「公式キャラクターの運用書類。健康配慮事項。……あいつの件だ」


 アリス。


 その名を出した瞬間、三人の目の色が変わった。興味。計算。安全確認。彼らは“人”ではなく、“話題”を見た。


「市民の象徴ですね。新開市の――」


「観光資源としても非常に――」


「若年層への訴求力――」


 義弘の眼光が、一段冷たくなる。


「やめろ」


 椅子の上でトミーが、わざとらしく肩をすくめた。


「ほら。こうなる」


 秘書が、控えめに一歩前へ出た。


「市長、本日の面談はこの後も……」


「分かった」


 義弘は頷いた。頷くだけで、次の面談が始まり、書類が増え、列が伸びる。それが市長という職の現実だ。


 ただ――。


 義弘は机の上の端末に手を伸ばし、画面を点けた。


 新開市公式配信の切り抜きが、勝手におすすめに流れてくる。


 タイトルが、悪意なく、悪意そのものだった。


『市長(元ヒーロー)を支えた最強美少女!?』

『アリスちゃん笑顔まとめ(尊)』

『市長、政界入り確定か?(ソース:俺の勘)』


 コメント欄は、いつもの愉快な新開市民だった。愉快で無責任で、そして飢えている。


 > 市長室の列www

 > 政党って札だろ

 > アリスちゃん最近しんどそう、休ませて

 > でもイベントで会えるなら行くわ

 > 公式キャラは無敵(守られる)

 > “守られる”って何?囲われるってこと?


 トミーが画面を覗き込み、耳をぴくりと動かした。


「ほらな。市民の方がまだ正直だ」


 義弘は画面を閉じ、椅子から立ち上がった。


「次を断れ。――今から、会いに行く」


「どちらへ?」


 秘書の声が、ほんの少しだけ慌てる。


「……隠れ家だ」


 口に出してから、義弘は少しだけ苦い気分になった。


 隠れ家。


 彼女は、隠れているはずだった。守るために。守った結果、公式になり、列が生まれ、書類が回り、露出が増えた。


 守ると囲うは、紙一重だ。


 トミーが椅子から飛び降り、義弘の肩へ跳び乗る。


「やっと気づいたか。ジジイ。あんたのアキレス腱は膝じゃない。――あの子だ」


 義弘は返事をしなかった。


 返事をする時間が、惜しかった。



 アリスの隠れ家は、いつもなら整っていた。


 整っている、というより――「家庭」だった。


 シュヴァロフが掃除をし、洗い物をし、埃を嫌い、床を光らせ、アリスの髪の毛一本すら許さない。戦闘用ドローンが、母親のように部屋を守る。おかしな光景なのに、いつの間にか当たり前になっていた。


 だが今日は違った。


 玄関を開けた瞬間、義弘は足元の紙袋に蹴つまずきそうになった。床に放り出された工具。開きっぱなしの箱。机の上に散らばる部品。油の匂い。焦げた樹脂の匂い。


 そして――壁際に置かれたシュヴァロフ。


 頭と腕と胴体だけが、仮の骨組みで支えられている。装甲は剥がされ、内部の繊維強化プラスチックが露出し、ケーブルが臓腑みたいに垂れている。あの“闇”のような黒は、まだ戻っていない。


 その横で、アリスが座っていた。


 セーラー服。灰色のフード付きパーカー。首元の大きなスカーフ。黒いニーソックス。いつも通りの格好のはずなのに、彼女だけが“薄い”ように見えた。


 存在が、現実から一枚ずつ剥がれていくみたいに。


「……来るなよ」


 アリスが言った。声は強がりの形をしていたが、音の芯が少し遅れて届いた。


「列が出来てるだろ。市長。忙しいだろ」


「列は逃げない」


 義弘は靴を脱ぎ、慎重に部屋に入った。床に散らばる工具を避ける。避ける動作が遅い。膝が痛むからではなく、この部屋が“彼女の神経”だからだ。


「お前が逃げる」


 アリスの口元が歪む。笑いにも悪態にもなりきれない、奇妙な線。


「逃げてない。――修理してる」


 彼女はシュヴァロフの胸部の内側を指で叩いた。カン、と軽い音がする。軽すぎる音。


「ここ、まだ死んでる。電位が戻らない。……なのに、“公式”が来る。撮影だの、イベントだの、学校だの。笑えって。手を振れって。かわいくしろって」


 言葉が荒れていく。荒れていくほど、息が浅くなる。


 義弘は一歩近づき、アリスの顔を見た。


 目の下に、薄い影がある。瞳の焦点が、たまに揺れる。視界の端に何かがちらつくように瞬きをする。呼吸のタイミングが、本人の意思とずれている。


 NECROテックの“遅延”。


 “最適化”が、本人より先に身体を動かそうとする兆候。


「アリス」


「名前呼ぶな。恥ずい」


「恥ずいことを言う」


 義弘は、机の上にある書類の束を見た。市役所から回ってきたものだろう。アリスに渡るはずのない紙が、ここにあるということは――誰かが親切をしたのだ。


 親切は、武器になる。


 書類の一枚に、赤い付箋が貼られている。


《露出計画:市内観光導線への組み込み》

《健康配慮:短時間・高頻度》


 短時間・高頻度。


 それは、休ませる言葉の形をした、拘束の設計だった。


 トミーが、床に落ちた付箋を前足で押さえ、舌打ちのように言った。


「“配慮”って言葉、便利だな。刺すのに」


 アリスがトミーを睨み、しかし視線が途中でぶれる。


「……うるさいウサギ」


「うるさくしないと気づかないジジイが悪い」


「黙れ」


 義弘の声は低い。


 アリスは、ふっと息を吐いた。吐いた息が震えているのに、本人は気づいていないようだった。


「私ね……」


 言いかけて、言葉が止まる。


 止まった瞬間、アリスの肩がぴくりと動いた。本人の意思とは関係ない動き。手の指が、微かに開閉する。神経が勝手に整列しようとしている。


 義弘は、心臓の奥が冷えるのを感じた。


「……私、守られてるのに、窒息しそう」


 アリスは小さく言った。


 義弘は返さなかった。返す言葉がなかったのではない。返す言葉が、全部“紙”になる気がしたからだ。


 代わりに、彼は膝をつき――痛みに耐えながら、アリスの前にしゃがんだ。


「窒息させない」


 短い言葉だった。短い言葉しか、彼にはもう残っていなかった。


「……どうやって」


「制度で守る」


 アリスが眉をひそめる。制度という単語に、嫌悪が混じる。彼女は手順に縛られることを嫌っている。手順は、彼女を“患者”に戻そうとする。


「ふざけんな。制度は札だ」


「札を使う」


「……市長が言うことじゃない」


「市長だから言う」


 義弘は立ち上がり、机の上の紙の束を取った。自分の持ってきた紙もある。市役所の封筒。印。署名欄。


 彼は紙を一枚、アリスの前に置いた。


 タイトルは、まだ仮だった。


《新開市公式キャラクター:医療・管理権限の所在(案)》

《治療・診断:新開市市立病院にて実施》

《外部機関による“診断待ち”の長期化を禁止》


 アリスが目を見開く。


「……それ、誰が許すの」


「俺が押す」


「押したらどうなる」


「列が増える」


 義弘は苦く笑った。


「だが、列をこちらの列にする。――お前の命に関する列だ」


 トミーが、珍しく真面目な声で言った。


「ジジイにしては賢い。囲われる前に、囲う枠を奪う」


 アリスは紙を見つめた。紙を見つめる目が、少しだけ揺れる。彼女の中で、怒りと安心と嫌悪が、うまく混ざらずに浮いている。


「……私、公式キャラだぞ」


「だからだ」


「……笑顔作れって言われるぞ」


「笑顔は――戦闘より難しいな」


 義弘は、わずかに肩を落とした。


 その瞬間、アリスの口がほんの少しだけ上がった。


 笑ったのではない。笑おうとしたのでもない。


 ただ、彼女の“遅延した感情”が、やっと追いついたのかもしれなかった。



 同じ時間。


 OCM本社ビルの上層階で、オスカー・ラインハルトは会議室のガラス越しに街を見下ろしていた。夜景に紛れて、広告が光っている。OCMのロゴが、まるで脈拍のように点滅している。


 卓上の端末が震えた。


 社内アラート。


 だが、タイトルが妙だった。


《保全》

《休養》

《点検》

《最適化》


 “札の語彙”が、社内の言葉に侵食している。


 オスカーは一瞬だけ、表情を失った。次いで――ほんの一瞬、怒りが浮かぶ。


 怒りは美しい顔を醜くする。だが、その醜さが、人間だった。


 彼は息を吸い、吐いた。


 そして、会議室の扉を開ける。


 中には、同情派が集まっている。善意の顔。善意の提案。


「オスカー。アリスを実務から下げましょう。広告塔として――」


「負担ではありません。配慮です」


「拘束ではありません。運用です」


 オスカーは微笑んだ。丁寧に。冷たく。ビジネスの微笑で。


「良い提案です」


 彼は言った。言ってから、続けた。


「――ただし、導線は私が握る」


 同情派が安堵する。味方だと思う。敵より厄介な味方だ。


 オスカーは端末をもう一度見た。


《保全》《休養》《点検》《最適化》


 兄弟姉妹の名を呼ぶ代わりに、札の言葉が並ぶ。


 オスカーは、机の上の小さな鉢植えに目を落とした。サボテン。余計なことを言わない生き物。余計なことを言わないからこそ、そこに置いている。


 彼はサボテンに触れず、端末に触れた。


 送信。


 宛先は、ひとつ。


 モルテ。


 文面は短い。


《根回しを開始する。海外部門へ。最短で。》



 新開市の夜は、騒がしかった。


 観光指定都市化の噂はもう市井に漏れている。漏れた噂は、街を熱くする。


 配信のサムネが踊る。


『毎日ヒーローショー!新開市最高!』

『公式イベントで市長とアリスちゃん会える?』

『ヴァーチャル・サムライ参戦決定(自称)』


 コメント欄が燃料になる。


 > 観光都市www治安どうすんのwww

 > 治安悪いから楽しいんだろ

 > 公式が一番こわい(札)

 > でもアリスちゃんの笑顔は正義

 > 市長は市長でヒーロー続けるらしいし無敵では?


 無敵。


 その言葉に、義弘は背筋の奥が冷えるのを感じた。


 無敵は、標的の別名だ。


 アリスが、工具を握り直した。握り直す動きが、少しだけ遅い。遅いのに、必死だ。必死だからこそ、危うい。


「……シュヴァロフ、動け」


 アリスが囁いた。


 シュヴァロフの頭部が、微かに持ち上がった。


 黒い眼――センサーが、弱々しく点滅する。


 家事ができる程度の再起動。だが、それでも。


 アリスの目に涙が滲んだ。


「……戻ってきた」


 義弘は、何も言わずに部屋の隅に立ち、膝の痛みを押さえた。痛みは正直だ。だが、正直な痛みより――この街の“善意の列”の方が、ずっと恐ろしい。


 窓の外で、街の光が脈打っている。


 その光の中に、紙の白さが混じって見えた気がした。


 見えた気がしただけだ。


 だが、義弘は知っている。


 紙は、いつも遅れて届く。


 そして届いたときには、もう現実になっている。


 机の上の書類の束が、風もないのに一枚だけめくれた。


 めくれた先の余白に、誰かの手書きのような肩書きが印字されていた。


《監査:随行》


 白い手袋の気配が、紙の上にだけ残る。


 義弘は、その文字から目を離さなかった。


 ――列が、また伸びる。


 今度は、逃げ場のない列だ。

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