第十話 病室
病院の天井は、戦場より白かった。
白すぎて、目が痛い。
義弘はその白を見上げながら、心の中で何度目かの結論を出していた。
――戦いより、こっちの方が疲れる。
腕の冷却痕はまだ白く、皮膚の下が鈍く疼く。
骨格だの装甲だのの話ではない。
人間としての疲労が、骨に染みている。
枕元の椅子に、トミーが仁王立ちしていた。苔色の毛を逆立てて、机の上の名刺の山を見下ろす。
「ここ、戦場だろ。名刺の」
義弘は目を閉じたまま、低く返す。
「黙れ。……まだ朝だ」
「朝から来るんだよ。獲物の匂いするから」
ノック。
返事をする前に、ドアが開いた。
最初に入ってきたのは“心配”の顔ではなかった。
“投資”の顔だった。
スーツの色が、病室の白にやけに映えた。
男はにこやかに、しかし目だけは計算していた。
「津田名誉会長。お見舞いに――いや、まずはご快復を。お身体、大丈夫ですか?」
義弘は薄く目を開け、相手の胸元のバッジを見た。
企業名。財団名。どちらでもいい。結局は同じ匂いだ。
「……で、用件は」
男は笑顔のまま、タブレットを差し出した。
「スポンサーにならせていただけませんか。あなたの次の出撃に、当社のロゴを」
トミーが鼻で笑った。
「来た。朝イチでロゴだ」
男は聞こえないふりをして続ける。
「いま“都市中枢リングの落下救助”は、世界中が見ています。あなたは“伝説”になりました。伝説には、支援が必要です。支援には、協賛が必要です」
義弘は目を閉じ直した。
「出ていけ」
男は引かない。
「もちろん、あなたの裁量です。ただ、今後“高速機動隊”側との摩擦が大きくなるのは避けられない。企業の後ろ盾があれば――」
「出ていけ」
声の冷たさで、ようやく男の笑顔が一瞬だけ薄くなる。
しかし“撤退”の動きではない。粘る動きだ。
そこへ、別の団体が雪崩れ込んだ。
病室がいきなり狭くなる。
「津田さーん! 今なら生配信いけますか!?」
動画配信者だった。
首から下げたカメラ、胸のマイク、目の中の輝き。
心配ではなく、数字の輝き。
「いや、医師から面会制限――」
看護師の声がかき消される。
「“落下の瞬間”の心理、聞かせてください! あと例の五秒広告、どう思いました!? いま視聴者が知りたいのそこなんで!」
義弘のこめかみが痛む。
痛む場所が、銃弾じゃないのが腹立たしい。
トミーが配信者の前に飛び降りて、低い声で言った。
「おまえ、命の恩人に聞くことがそれか?」
配信者は、うさぎを見て目を輝かせた。
「え、なにこの子! キャラ強! 撮っていいですか!?」
「殺すぞ」
「うわ、炎上しそう! 最高!」
義弘が息を吐いた。
「……帰れ」
だが帰らない。
帰らないほど伸びると知っている。
次に入ってきたのは、サムライ・ヒーローだった。
病室に似合わない派手なスーツ。ネオンの和柄。広告ステッカー。
しかし表情だけは“礼儀正しい”を装っている。
「津田義弘殿。ご武運に敬意を」
先頭の男が、深々と頭を下げた。
背中に大きく入ったロゴが揺れる。
――PRISM士道
人気急上昇のサムライ・ヒーローチーム。
派手で、強くて、“映える”。
「我々は、あなたを師と仰ぎたい。いえ――同担をお願いしたいのです」
義弘は目を開けた。
“同担”。
その言葉が、ここ数日でやけに耳に刺さる。
「……同担?」
「はい。次の作戦から、同じチーム枠で。あなたの技術と我々の若さ、そしてスポンサーの支援で――新開市を守る“正しい物語”を作ります」
物語。
守るより先に、物語が来る。
トミーが小さく言った。
「うわ。言い方がもう広告」
PRISM士道の後ろに、企業の担当者が控えていた。
さっきの投資家と同じ匂い。
ただ、こちらはもっと現場寄りの匂い。
「津田さん、我々のスポンサー枠は厚いです。安全な運用ができます。――いまのあなたは、ひとりで戦うには危険すぎる」
危険。
善意のふりをした拘束の言葉。
義弘は返したかった。
「危険なのは戦場ではなくお前たちだ」と。
だが、その瞬間、またドアが開いた。
今度の足音は軽くない。
重い。迷いがある。
そして、義弘が一番疲れる種類の重さだった。
「……父さん」
血縁者。
息子か、娘か。どちらでもいい。
声には、心配と怒りが同じ濃度で混ざっていた。
その後ろに、もう一人。
年の近い親族――かつて義弘を責めた側の顔。
「まだやってるのね。ヒーローごっこ」
病室の空気が、いきなり冷える。
さっきまでの名刺の嵐より冷える。
義弘は天井を見た。
白すぎる天井が、いまは優しい。
見上げている間は、相手の目を見なくて済むからだ。
「来るなと言ったはずだ」
血縁者は、唇を噛んで言った。
「……ニュース見た。落ちた。死ぬかと思った」
「死んでない」
「そういう話じゃない!」
声が上がる。
病室の中の“協賛者”たちが、面白そうに目を光らせる。
家族の確執はコンテンツだ。
義弘はそれに気づき、胃がひっくり返りそうになる。
血縁者は続けた。
「もうやめろ。会社のことも、家族のことも、全部放り投げて――いまさら“正義”みたいな顔で!」
義弘の胸の奥に、古い傷が開く。
会社を守った。
守った結果、売り渡したと責められた。
守った結果、家族に軽蔑された。
そしていま、また責められる。
「正義の顔? ……笑わせる」
義弘は低く言った。
「俺が守ったのは、正義じゃない。インフラだ。社員だ。――お前らの飯だ」
血縁者が震えた。怒りで。悲しみで。
どちらでも、義弘は調整できない。
戦場なら調整できる。
家族はできない。
親族が冷たく言う。
「そんな言い方だから、嫌われたのよ」
その瞬間、義弘は本当に疲れた。
戦闘の熱限界より先に、心が限界になった。
耳の奥で医師の声が響く。
「刺激は避けましょう。血圧が――」
看護師が面会を止めようとする。
だが病室には、止めるべき人間が多すぎた。
名刺。契約書。配信カメラ。スポンサー。ヒーロー。家族。
全部が一斉に喋り、全部が義弘の“価値”を勝手に定義し始める。
――伝説。
――広告枠。
――危険人物。
――父親。
――臆病者。
――英雄。
――裏切り者。
義弘は枕に頭を沈め、低く言った。
「……好きにしろ」
その言葉は、拒絶だった。
しかしこの病室では、拒絶は“承諾”に翻訳される。
PRISM士道の先頭が、ぱっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます! 同担、受諾と受け取ります!」
義弘は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
理解した瞬間、遅かった。
「……待て」
「契約書は後ほど。回復を最優先に! 我々が“正しい運用”を整えます!」
“正しい運用”。
それが一番気持ち悪い。
トミーが小声で囁いた。
「やったな。調整される側に回ったぞ、ジジイ」
義弘は目を閉じた。
戦闘より疲れる。
その意味が、骨に落ちる。
同じ夜。
新開市のどこか、地図に載らない隙間。
アリスは潜伏していた。
天井の低い部屋。配線が露出した壁。
外の音が薄く聞こえる。人の足音、遠いサイレン、配信の笑い声。
彼女の周囲には、翼のようなUIが浮いている。
しかし翼は、飛ぶためではない。
整備のためだ。
シュヴァロフは、闇のまま部屋の隅に座っている。
光学迷彩を切っても黒い。黒いだけで安心する。
母親みたいに、アリスの動きを静かに見守る。
トウィードルダムとトウィードルディーは、黙って工具を並べる。
必要なものを必要な順に置く。
大好きが手順になる。
グリンフォンは翼を畳み、どこか誇らしげに傷を晒していた。
「守護した」と言いたげな態度。
だが傷は傷だ。整備しないと次は飛べない。
コロボチェニィクは、外装の凹みを気にしているのか、時々腕を鳴らして見せる。
気合はある。だが部品は足りない。
アリスは歯を噛んだ。
部品が、金が、時間が足りない。
そして彼女が一番嫌いなものが、全部の鍵を握っている。
――OCM。
その名前を考えた瞬間、翼UIに冷たい通信が刺さった。
暗号化。署名付き。逃げ場のない種類の命令。
アリスは睨む。
「……来た」
メッセージは短かった。
短いほど、ビジネスは冷たい。
「資産:GHOST(NECRO)。
命令:実証運用の評判回復。
目的:サムライ・ヒーローチームPRISM士道の知名度を上げること。
手段:問わない(ただし致死の可視化を避ける)。
期限:早急。
付与:整備用パーツ供給ルートの開放(条件付き)」
アリスの喉の奥に、吐き気が上がる。
「……恥知らず」
シュヴァロフが音もなく一歩前に出た。
影が濃くなる。
アリスの吐き気を、影が受けるように。
双子が黙って、損耗パーツの一覧を表示した。
足りない。足りなすぎる。
グリンフォンの関節材。
コロボチェニィクの装甲材。
シュヴァロフの熱・衝撃置換ユニット。
アリスは視線を落とし、拳を握った。
OCMの命令なんか、一蹴したい。
一蹴して消えたい。
でも――消えるためにも、足が要る。
彼女はドローンたちを見た。
愛する、と言うのは照れくさい。
彼女は口が悪い。だから言わない。
ただ、壊させない。
それだけだ。
「……ムカつく」
アリスは吐き捨てた。
「でも、あいつらを壊させない」
トウィードルディーが小さく首を傾げる。
トウィードルダムが黙って工具を差し出す。
“やるならやろう”という手順。
グリンフォンが、わずかに姿勢を正した。
騎士は、命令より“役割”が好きだ。
姫を守る役割。姫の怒りを背負う役割。
コロボチェニィクが、腕を鳴らした。
気合だけは満点だ。
アリスは通信に返信した。
短く。冷たく。自分を殺さない程度に。
「了解。やる。
ただし、私のやり方で」
その一文だけが、反抗だった。
しかし反抗は、ビジネスには“承諾”として処理される。
返信は即座だった。
「承認。結果のみ提出」
アリスは笑った。
笑いは気持ち良さのためじゃない。
吐き気を抑えるためだ。
「結果だけ? 上等」
彼女は工具を取り、ドローンたちの傷を撫でるように整備を始めた。
指先が速い。人格が複数いるからではない。
怒りが燃料になるからだ。
そして、ふと思い出す。
白い病室。落下。短いコール。
――死ぬなよ、ジジイ。
あの老人は、病室で今ごろ名刺に殴られているだろう。
戦場より疲れる顔をしているだろう。
アリスは小さく舌打ちした。
「……調整、得意なんでしょ」
誰に言うでもなく。
「なら、ちゃんと生きて、面倒見ろよ」
闇の中で、白い翼が静かに光った気がした。
空はまだ空じゃない。
でも穴は開けられる。
その穴に、今度は“人気”が流れ込む。
最悪だ。
だからこそ――使える。




