008 裏切りの盃
焚き火の残り火が、ぱちぱちと小さな音を立てていた。
温かい薬草茶の効果か、ティオルは杯を飲み干すとすぐに眠気に襲われたようだった。
「ふぁ……博士、このお茶、眠くなりますね……」
ティオルが大きく欠伸をし、毛布にくるまる。
「疲れが溜まっていたのでしょう。先ほどの戦闘で魔眼も使用しています。ゆっくり休んでください」
博士は穏やかに微笑む。その表情は、いつもの“優しい博士”そのものだった。
「はい……アニス、おやすみ……」
ティオルはそう呟くと、すぐに規則正しい寝息を立てた。
俺も杯を飲み干し、肩の傷の痛みを堪えながら毛布に横になる。
「博士も休みなよ」
「はい、すぐに休みますよ」
博士の声は優しい。
……なのに、どこか違和感が胸に引っかかった。
温かいお茶の効果と戦闘の疲労が重なり、意識がふっと薄くなる。
ドクン――。
胸の微かな鼓動が、最後に聞こえた気がした。
⸻
──どれくらい時間が経っただろうか。
カサ……と微かな足音が耳に届く。
(……ん?)
半分眠っている意識の中で、何かがおかしいと直感する。
ドクン、ドクン!
心臓の鼓動が急激に速くなる。
(何だ……?)
薄目を開くと、焚き火は完全に消え、月明かりだけが森を照らしていた。
視界の端に――博士のシルエット。
博士は静かに立ち上がり、その手には……短剣。
(博士……何を……?)
博士はゆっくりと俺へ歩み寄る。
その足音が、妙に大きく聞こえる。
短剣の刃が月明かりに冷たく反射した。
その目は、優しさとは正反対の――冷たく乾いた光を帯びていた。
(まさか……!)
博士が俺の喉元へ短剣を振り上げる。
「さようなら、アニス君」
氷のような声。
瞬間、体が反射的に動き、俺は転がりながら短剣を回避した。
「博士!? な、何だよこれ!!」
跳ね起きた俺は剣を抜く。
博士は無表情のまま、静かに言った。
「睡眠薬入りの薬草茶が、アニス君には効かなかったようですね……。まぁ、いいでしょう。君は……もう用済みなのですよ」
「何の話だよ! 説明しろ!」
博士の口元が、ゆっくり歪む。
「グランヴェルン家の”魔眼”が欲しかったのですよ。それだけです」
「グランヴェルン家……?」
「私のイデアは《捕食のイデア》。
能力者を捕食して取り込み、その能力を“部分的に”コピーできます。
だが――とうとう私の宿願が叶います」
博士の視線が、眠るティオルへ向けられる。
「魔眼を私の力とする。ティオル君を捕食し、《時の魔眼》の能力を得るのです。これで私は超越者となります」
不気味な笑み。
「50年以上、姿を変えつつ村を……そしてグランヴェルン家を監視していたのです。
その間に捕食した“素材”の力……君にも見せてあげましょう」
博士の腕が、ぎし……と不自然に膨張した。
皮膚の下で筋肉が蠢き、まるで別生物のような腕へ変貌する。
(身体……拡大!?)
博士は淡々と説明した。
「昔、《巨躯のイデア》の持ち主を捕食してましてね。
その強靭な筋繊維はいまだに私の体内に残っているのですよ」
博士が地面を踏み込む。
ドンッ!!
地面が砕けた。
「ティオル君を捕食するので、アニス君。死んでください!」
「ふざけんな……! 裏切りやがったな……俺を……みんなを……!」
剣を構える俺に、博士が迫る。
「では、試しましょう。“《身体強化のイデア》しか持ち得ない少年”が、“数百の能力を喰らってきた私”に勝てるかどうか――!」
巨腕が振り下ろされる。
ガギィンッ!!
剣で受けた瞬間、腕が軋むほどの衝撃が襲った。
「っ……!」
(重い……! 剣ごと押し潰される!)
ドクン!
その衝撃で俺の体は吹き飛ばされ、数メートル先の木々に激突した。
ガサッ!
「ぐっ……!」
木の根に足を取られ、地面に転がる。
(ティオルが……危ない!)
博士がゆっくりと歩み寄ってくる。
「ほう……潰したと思いましたが……」
博士の目が細められた。
「実験体としては、悪くないですね……!」
俺は這うようにして立ち上がり、剣を構え直した。
「ティオルに触れさせない……絶対に!!」
博士の巨腕が再び振り上げられる。
「無駄な足掻きですね」
博士が嘲笑う。
ドンッ!
巨腕が地面を叩き、俺は横に飛び回避した。
木々が倒れる轟音。
(速さも……異常だ!)
博士が距離を詰めてくる。
「どうですか、この力!」
追撃の拳が飛んでくる。
俺は咄嗟に剣で受け止めるが――
ガキン!
再び衝撃で吹き飛ばされ、さらに後方へ転がる。
「ぐああっ!」
地面を転がり、土と草にまみれる。
ドクン! ドクン!
心臓が激しく脈打つ。
体が、再び熱くなる。
(何だ……この感覚……!?)
視界が鮮明になり、博士の動きがわずかに遅く見えた。
博士がゆっくりと近づいてくる。
「何ですか、その目つきは?」
博士が一瞬、動きを止める。
「君には違和感を感じていましたが……気のせいでしたかね……」
俺は息を整え、立ち上がった。
「行くぞ、博士……いや、インテリオ……!」
博士の口角が歪む。
「威勢だけは素晴らしいですね!」
博士が一気に距離を詰める。
巨腕が3連撃で襲いかかる。
シュン! シュン! シュン!
「死ね!!」
俺は剣を連続で振るい、すべて弾き返す。
ガキン! ガキン! ガキン!
だが、そのたびに衝撃で後方に押し戻され、ティオルからますます離れていく。
「何!?」
博士の目が見開かれる。
ドクン! ドクン! ドクン!
心臓の鼓動が爆発的に加速する。
筋肉が膨張し、力が溢れ出す。
「うおおおっ!!」
俺は跳躍し、博士の巨腕を狙う。
ズバッ!
剣が巨腕を深く斬り裂く。
「ぐああっ!?」
博士が初めて悲鳴を上げ、わずかに後退する。
鮮血が噴き出し、巨腕が萎んでいく。
「この速さ……! 何だ!?」
俺は着地し、息を荒げながら笑った。
「ティオルはお前なんかに渡さねぇ!」
博士の顔が歪む。
「面白い……! ならば本気で殺してやろう!」
博士の体がさらに膨張し、背中から無数の触手が伸びる。
赤黒い霧が森を覆う。
「ティオルを捕食する前に……まずはお前から喰らう!」
無数の触手が俺を襲う。
ドクン! ドクン! ドクン!
俺の心臓が、最後の力を振り絞る。
「終わらせてやるよ。お前のクソみたいな願いを!!」
光が、俺の体を包み込む。
二人の影が月明かりの中で激突した――。




