第三十四章 徳の外交
伯爵令嬢が国内を平定すると、その影響はすぐに国境を越えた。
北部では飢饉に苦しむ村々に穀を分け与え、隣国の流民すら受け入れて耕地を開いた。
南部では盗賊に荒らされていた街道を整備し、交易の安全を保障した。
さらに孤児院を設け、読み書きを教えた子どもたちが短期間で税の徴収や記録を担えるほどに成長していった。
「戦でも金でもなく、人心を以て国を豊かにしている……」
隣国の宮廷ではざわめきが起きた。
「飢えた民を受け入れられると、こちらの不満分子は全て彼女に従ってしまう」
「街道を押さえられれば、我らの交易はこの国に依存する」
「教育された民が増えれば、彼女の国力はやがて軍事にも匹敵する」
もはやこれは一貴族の慈悲ではなかった。
国の秩序を支え、周辺諸国の均衡すら揺るがす“国王の徳”だった。
こうして隣国の王侯たちは恐れと敬意を抱き、次々に使節を王都へ送り出すこととなった。
ある日、王都の門前に数えきれぬ旗が翻った。
東の商業都市国家から、北の騎馬民族の王国から、西方の海洋諸侯から――次々と使節団が到着したのだ。
民衆は驚きの声を上げた。
「どうしてこれほどの国が一度に……?」
「皆、あの方に挨拶するためだ」
街路は人で埋まり、群衆の期待は一つに集まっていた。
玉座に座る愚王は誇らしげに胸を張った。
「余に謁見に来たか。余こそ正統の王だ!」
だが――使節団は誰一人として彼に視線を向けなかった。
整列したまま進み出て、広間の中央で膝をついたのは、伯爵令嬢の前であった。
「徳をもって国を治める御方に敬意を」
「飢饉に苦しむ我らの民を救ってくださった恩を忘れませぬ」
「交易の安全を与えてくださった方に、我らの富を分かち合うことを誓います」
その声は王を素通りし、伯爵令嬢に捧げられた。
伯爵令嬢はゆるやかに立ち上がり、堂々と声を響かせた。
「この国は剣を誇らず、民を重んじます。
飢えた者には食を、交易を求める者には道を、学びを求める子には机を。
これらを共に分かち合うならば、国境は争いではなく絆となるでしょう」
その言葉に、使節たちは深く頭を垂れた。
「かくも王の徳を体現する者がいるならば、我らもその友となる」
「この御方と盟を結ぶことこそ、国を安んじる道である」
愚王は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「馬鹿な! 余が王だぞ! なぜ余を無視する!」
だが廷臣も、使節も、誰も答えなかった。
王の玉座は空虚な飾りにすぎず、王妃候補の“徳”がすでに諸国の秩序を動かしていた。
その場の片隅でクラリッサは唇を歪めた。
「あはは……余が策で諸侯を操ったように、この女は徳で諸国を従わせたか。
もはや隣人の慈悲ではない、国王の大徳……。
宦官の技は尽きた。人を導き、国を治め、諸国を平定するのは――やはり“徳”であったか」
その声は敗北の嗤いでありながら、どこか清らかであった。




