第三十章 意外なる伯爵令嬢
後日、伯爵令嬢を呼び出し、改めて告げられた婚約破棄の場で、嘲笑を浴びると思われた伯爵令嬢は、ただ深く一礼した。
「陛下のお言葉、確かに承りました。
私はただ……御身の御代が末永く続くよう、祈るばかりにございます」
涙を流すことも、声を荒げることもなかった。
廷臣たちは一様に息を呑んだ。
あまりにも凛とした姿に、侮辱を与えた王の方が小さく見えたのだ。
その後、伯爵令嬢は失意に沈むどころか、積極的に民のために動き始めた。
飢えた孤児に食を与え、農村を訪れては病人を看病し、自ら泥に膝をつけて労働を助ける。
「王妃にはなれぬ身。ならばせめて、この身で民に尽くしたい」
その姿は瞬く間に人々の心を打ち、民衆の間で噂となった。
「本当に王にふさわしいのは、あの伯爵令嬢ではないか」
「クラリッサ様の治世を支えるのは、あの方こそ……」
政務室に届く報告を読みながら、クラリッサは唇を固く結んだ。
「……余が恐れていたことが現実になってしまったわ」
アーベルが静かに問う。
「御子を守るために、彼女を遠ざけますか? それとも……」
クラリッサの胸に重苦しい迷いが広がった。
(この娘はただの貴族令嬢ではない。民心を掴み、理を弁えている。
もし王妃となれば、御子を支える力となるだろう。
だが同時に、王の軽率さを浮き彫りにし、権威を脆くする……)
ある日、クラリッサは密かに伯爵令嬢を呼び寄せた。
「なぜ王を拒絶せず、国のために動く? 婚約を破棄された女ならば、怨嗟を抱くのが常だろう」
伯爵令嬢は穏やかに微笑んだ。
「私は陛下の妃であろうと、ただの一人の娘であろうと、国を愛する心は変わりません。
この国が繁栄するならば、それでよいのです」
クラリッサは返す言葉を失った。
奸臣として生きてきた元宦官にとって、無私の忠誠と愛国の心は理解を超えたものだった。
夜、揺籠で眠る幼き頃の御子の絵を見つめながら、クラリッサは低く呟いた。
「あはは……余を迷わせる者が、まだこの世にいたのね。
奸臣としての理で裁くか、母としての情で受け入れるか……
これほどの難題、帝国の時ですら無かったわ」
燭火に揺れる影は、勝利の嗤いではなく、迷いと人としての弱さを孕んで揺れていた。




