第二十九章 揺らぐ心
王国は黄金期を迎え、若き王――クラリッサの御子は成人を間近に控えていた。
廷臣たちは次なる大事、「婚姻」に注目していた。
もともと、御子には幼い頃から縁組が決まっていた。
良家の伯爵令嬢。聡明にして穏やか、幼少期から御子を支えてきた存在である。
だがある日、王は母の前で吐き捨てるように言った。
「母上、あの伯爵令嬢はつまらぬ。才もなく、王妃の器ではない。
余はより高き家の娘を娶るべきだ」
彼の視線の先には、政略的に力を持つ公爵家の令嬢がいた。
「余は婚約を破棄し、新たに彼女を王妃に据える」
クラリッサの胸に冷たい痛みが走った。
さらに若き王は傲然と宣言した。
「伯爵令嬢との婚約は破棄する。余にはふさわしくない」
広間に集う廷臣たちの間にざわめきが走る。
だが直後、公爵令嬢の家から冷ややかな返答が届いた。
「王妃に選ばれる栄誉は重すぎます。
その責は伯爵家の令嬢こそ負うべきでしょう」
公爵家は、自らを危険に晒すことを恐れ、縁組を拒絶したのだ。
結果――王は伯爵令嬢を侮辱し、縁組を失い、廷臣たちの心に疑念を残すという最悪の事態となった。
夜。政務室で、クラリッサは机に両肘をつき、額に手を当てていた。
アーベルが静かに問いかける。
「クラリッサ様……ご決断を。御子の誤りを正すのであれば、すぐにでも」
だがクラリッサは答えられなかった。
(……愚王ならば切り捨てればよかった。
だがこの子は……我が血、我が未来。
切り捨てれば国を守れるかもしれぬ。
だが守れば、王朝に傷が残るかもしれない……)
かつて奸臣として一切の情を排してきた元宦官が、初めて迷っていた。
母としての情と、治世者としての冷徹な理――その二つが胸でせめぎ合っていた。
窓辺に立ち、夜空を仰ぐクラリッサ。
赤い唇は嗤いを刻もうとしたが、声は出なかった。
「あはは……と笑えるはずなのに……」
ただ深い沈黙だけが、彼女の周囲を覆った。
――これが、かつて“奸臣”と呼ばれた元宦官が、
初めて「人としての苦悩」に足を取られた瞬間であった。




