第二十章 狂気の待望論
ある朝、王都にさざ波のような噂が流れ始めた。
「クラリッサ様が……子を宿されたらしい」
「それも神に選ばれし後継だと!」
誰が最初に言ったのか分からない。
だが市場で、広場で、酒場で、老若男女が同じ言葉を口にしていた。
その噂は瞬く間に燃え広がり、王都は狂気の熱に包まれた。
「未来の王が誕生する!」
「クラリッサ様の御子こそ、国を導く御方だ!」
「生まれぬうちから、すでに我らの希望だ!」
石ころを宝石と呼んだ民は、今や“胎内の子”を玉座そのものと信じ込んでいた。
噂の背後で微笑むクラリッサ――その中に潜む元宦官は、ただ一人の相手を見つめていた。
彼の名はアーベル。
公爵家に代々仕えてきた忠臣であり、幼き頃からクラリッサを守り続けてきた男。
「……私に、そのような大役を……」
戸惑うアーベルに、クラリッサは赤い唇を寄せて囁いた。
「前世の余は、誰も信じず、ただ権力だけを求めて滅んだ。
だが今世は違う。そなたは信じられる。
余と共に、新たな王朝を築こう」
アーベルは深く頭を垂れ、その手を取った。
「クラリッサ様……いえ、我が主よ。命尽きるまでお仕えいたします」
その瞬間、元宦官はかつて知らなかった感情に打たれた。
“信義”。
帝国の宦官として孤独に権力を貪った彼にとって、決して得られぬはずの絆。
(あはは……これは天の加護か。前世とは違い、余は子を得、忠臣を得た。
もはや盤石……! 帝国での失敗は、ここには存在せぬ!)
王城前には群衆が押し寄せ、口々に叫んでいた。
「クラリッサ様の御子を! 未来の王を!」
「その誕生こそ、我らの救いだ!」
廷臣たちも同じく膝を折り、誰一人逆らわなかった。
「未だ生まれぬ御子をこそ、王国の正統に据えるべきだ」
「神託の御子こそ、未来の君主だ」
こうして王国全体が、まだ見ぬ子の存在を狂気のように待望した。
夜。窓から民衆の熱狂を眺めながら、クラリッサは深く笑った。
「あはは……これぞ新しき治世。
愚王は絶望し、王妃は滅び、廷臣も貴族もすでに余の掌にあるわ。
民はまだ生まれぬ御子を王と信じ、余は忠臣を得て盤石となった。
かつて帝国を滅ぼした奸臣は、今や王朝を築く創始者に変じたのよ!」
燭火の影が壁に広がり、それは新たな“アルブレヒト王朝”の胎動を象徴していた。




